
第1章|この世界の色はまだ薄くて
日常の中にふと混じる“違和感”を、照人はずっと見過ごしてきた。
しかしその日は、写真の中の狂いが、はっきりと姿を見せる。
世界がほんの少しだけ軋みだした、その最初の瞬間。
毎日が同じように過ぎていくことに、照人は少しだけ辟易していた。
朝、制服に袖を通し、遅れない程度に家を出て、変わり映えのしない景色を抜けて駅に着く。
決まった時間に、決まった顔ぶれ。教室の窓から見える景色も、いつもと同じだった。
「退屈すぎる」と思う一方で、「そう悪くもない」と思っている自分もいる。
でも、そのどちらにも少しずつ飽き始めていた。
日々のすき間を埋めるように、照人はいつもカメラを持ち歩いていた。
ファインダー越しに見る世界は、どこか現実とずれている。
いや、正確には──時々、そういう写真が撮れてしまう。
たとえば、人のいない教室を撮ったつもりが、そこに見知らぬ後ろ姿が写っていたこと。
冬の枯れ木が、夏の青々とした葉が揺れている瞬間を捉えた一枚になったこと。
数日前も、学校帰りにいつものように新宿を撮り歩いていたときのことだった。
がらんどうの広場を何気なくシャッターに収めたつもりが──
そこには、ギターを持った少女が眩しい照明の中で歌い、数百人の観客が手を掲げている“ライブの瞬間”が写っていた。
知らない少女、見たことのないステージ。
でも、その光景は妙に鮮明で、どこかの現実の気がした。
そのどれもが不思議で、でも嫌いではなかった。
むしろ、平凡な日常とは違う「パラレルワールド」のように思っていた。
その日も、特に予定はなかった。
学校帰り、駅前のベンチに腰掛け、スマホを眺めていた。
──「#渋谷のピンク髪」「#ギター女子」「#期待の超新星」。
バズっていたのは、ギターを片手に歌っている女の子の動画だった。
街頭スナップのような自然な構図で、ふわっとしたピンク色の髪がやけに目を引く。
動画の中の彼女は、アコースティックギターを弾きながら、真っ直ぐ前を見て歌っていた。
声がよく通る。表情も、立ち姿も、なぜか目が離せなかった。
スクロールしながら、照人はふと息を止めた。
──写真に写っていた少女と、同じ顔だ。
数日前に撮影した“あのライブ写真”の中心で歌っていた少女が、スマホの画面で普通に息をしている。
「……まさか」
胸の奥がざわついた。
「……この場所、見たことあるな」
照人の目が止まったのは、動画に映る背景だった。
そこは渋谷の駅から少し離れた、商業ビルと古い劇場の間にある、ぽっかり空いた空間。
人通りは少ないが、街頭パフォーマンスをする人が時折集まる場所だった。
スマホに映る彼女は、明らかに“渋谷”に馴染んでいなかった。
でも、その違和感が照人には不思議と心地よかった。
気づけば、照人はその場所に向かって歩いていた。
夕暮れ前の渋谷は、少しだけ柔らかい光に包まれていた。
喧騒から少し外れたその場所に着くと、ほんの数人が集まり、ポツポツと立ち話をしているのが見えた。
そして、その中心に──彼女はいた。
動画で見たままの姿だった。ピンクの髪、白のノースリーブ、擦れたジーンズ。
そしてアコギ一本を抱え、ゆっくりと指を弾いている。
スピーカーもマイクもない。だけど、その歌声は空気に溶けていくように、静かに周囲を包んでいた。
彼女は歌い終わると、帽子を軽く持ち上げてお辞儀した。
照人は、何枚か写真を撮った。
でもシャッターを切るたびに、ファインダー越しの彼女はほんの少し違って見えた。
──どうして、この人に惹かれているんだろう。
自分でも理由がわからなかった。
彼女が演奏を終え、小銭を拾いながら立ち上がろうとしたとき、照人は思い切って声をかけた。
「あの……さっきの歌、すごく良かったです」
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、照人の顔を見た瞬間、ほんの一瞬だけ揺れたように見えた。
「ありがとう。……東京、すごいね」
まるで、初めて来た観光客みたいな口ぶり。
だけど、違和感よりも好奇心が勝っていた。
「動画、見ました。SNSでバズってましたよ」
彼女は「あー」と声を漏らし、少し眉を下げた。
「そうなんだ。ちょっと困るんだよね……目立ちたくてやってるわけじゃないから」
「でも、すごくよかったですよ。なんていうか……響いたっていうか」
彼女は帽子をかぶり直して、ふっと笑った。
その笑顔はどこか寂しげで、でも嬉しそうでもあった。
照人は、スマホの画面を開いた。
数日前、この場所を撮ったときに写っていた一枚。
──まるで、誰かのライブのような光景が、そこにあった。
ギターを持った彼女が、バンドメンバーと大勢の観客の前で歌っている姿。
「これ……あなたですよね?」
彼女はしばらく無言でその写真を見つめていた。
けれど、何も聞き返してはこなかった。
「明日、この近くに喫茶店あるよね?
……良かったら、少し話そうよ。そっちも、聞きたいことがあるみたいだし」
照人は、うなずくしかなかった。
彼女の声も目も、すべてが「特別な何か」を含んでいるようで、それ以上何も言えなかった。
その夜、照人は写真を見返しながら、ひとりで考えていた。
この感覚は──何だろう?
偶然か、必然か。
だけど、何かが始まった気がしていた。