
第2章|白いテーブルの上で、心はほどけていく
照人の“異常な写真”と、少女の無言の反応。
その沈黙の奥にあるものは、偶然とも、偶然でないとも言えなかった。
そして、ひとつの提案が照人の世界を変える。
翌日。
渋谷の喧騒から少し離れた、小さな喫茶店の二階席。
窓際の丸テーブルに、照人は少し緊張しながら座っていた。
アイスコーヒーの氷が、カランと音を立てるたび、時間だけがやけに進んでいるように感じる。
昨日の出来事は、夢じゃなかったのか。
そう疑いたくなるほど現実味が薄かった。
でも、彼女は確かに「また明日」と言った。
──本当に来るんだろうか。
スマホを見ると、待ち合わせの時間をほんの少し過ぎていた。
窓の外には、昨日彼女を見かけた通りが遠くに見える。
強めの夏の光が街を白く染めていた。
「……遅くなってごめん」
その声に、照人はハッと顔を上げた。
白のTシャツに紺のシャツを羽織り、髪を一つに束ねた彼女が立っていた。
ギターケースがないせいか、昨日よりも少し柔らかい雰囲気だった。
「大丈夫。俺も今来たところです」
彼女は微笑み、向かいの椅子に腰を下ろした。
注文が済むと、しばらく沈黙が流れた。
照人はスマホを手にしていたが、言葉を探すばかりで、指は一本も動かなかった。
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「昨日の写真……ちょっと驚いた」
「俺もだよ。あんなの写ったの、初めてで」
「“あんなの”って?」
「……ライブみたいな。人もステージもあって、君が歌ってて」
「ふうん……」
彼女は、どこか遠くを見るような目をした。
そして戻ってきた視線には、迷いと決意が入り混じっていた。
「お願い。あの写真、誰にも言わないでほしいの」
照人は息を飲んだ。
彼女が“秘密の匂い”を見せたのは、これが初めてだった。
「言わないよ。たぶん信じてもらえないだろうし」
「ううん。信じる信じないじゃなくて……写ってたこと自体が、私には少し困るんだ」
照人はそれ以上聞かなかった。
彼女も、それ以上は話さなかった。
その代わり、アイスティーのグラスを持ち上げて氷を口に運ぶ仕草を、照人は静かに見つめていた。
「これから、四国に行こうと思ってるの」
その言葉は突然だった。
だが照人は、なぜか驚かなかった。
「四国?」
「うん。小さい頃住んでた町があって、ずっと気になってるんだ。今じゃないと行けない気がして」
「一人で?」
「もちろん」
彼女は笑った。
だがその奥には、何かに突き動かされているような強い意思があった。
照人は、自分の内側で起きている変化をもう否定できなかった。
昨日、彼女と出会ってから──
退屈だった日常が、少しずつ色を取り戻しはじめている。
そして──
「できれば、一緒に行こう。どうかな?」
世界が音を立てて切り替わるようだった。
「なんで俺……?」
そう聞きたくなるのを、照人はこらえた。
──正直、理由なんてどうでもよかった。
彼女ともっと話したい。
どこかに行きたい。
退屈だった日々の向こう側を見てみたい。
「行くよ。四国」
言ってから、自分で驚いた。
でも、その言葉は自然だった。
彼女は少し目を見開き、それからくすりと笑った。
「退屈してるんだよ、いろいろ。夏休みだし、行けなくもないし」
「じゃあ、決まりだね」
彼女のその声は、なぜか救われるように聞こえた。
夕方。
照人は家でリュックを詰めていた。
スマホには“あの写真”がいくつか残ったまま。
不思議な旅になることは分かっていたが、怖さはなかった。
──前に進む理由が欲しかった。
そして今、その理由が目の前に現れた。
夏の空気が湿気を含み、蝉の声が遠くで響いている。
街の色は昨日よりも少し濃くなったように感じた。
世界がゆっくりと動き始めていた。