
第3章 | 古本屋の午前
理由はない。ただ、足が向いただけ。
整理しようとすると逃げるものほど、ほんとうに大事だったりする。
古本屋の午前は、いつも少しだけ世界をずらす。
翌朝。
弦を買いに出ただけのはずなのに、気づけば私は古本屋の前に立っていた。
藤堂古書店。
古い木の看板。いつもと同じはずなのに、今日はやけに目に入る。
昨日の蓮の乾いた服が、喉の奥に小骨みたいに残っている。
ドアを押すとベルが鳴った。
「お、ルナ。珍しいな」
蓮は机から顔を上げる。
のんびりした声。のんびりした動き。
人はこういうのを「安心」と呼ぶ。でも安心は、裏側で何かを隠すことがある。
「弦の予備がなかったから買い物のついで。……なんとなく寄った」
「昨日のリハで切ったか?」
「うん」
「そりゃ大変だ」
蓮は紅茶を淹れた。
古い紙の匂いと紅茶の香りが混ざって、店の空気が「いつも」に戻る。
「ワンマン、どう?」
「……順調、だと思う」
「思う、か」
追及はしない。
その優しさが、逆に怖い。
優しさって、踏み込めるのに踏み込まないとき、いちばん重い。
「曲は?」
「出てきてる」
「でも?」
ルナは少し視線を落とす。
「まとまらない。頭の中に音はあるんだけど、どう歌えばいいのか分からない」
言い終わったあと、胸の奥がわずかに重くなる。
昨夜、雨の中で見た光景が、意図せず浮かんだ。
蓮は紅茶を差し出し、机の上の本を指で叩いた。
「昨日ね、これ読んでた」
差し出されたのは、古い文庫本だった。
「ミステリー?」
「そう。行方不明事件の話」
ルナは自然と耳を傾ける。
「登場人物はそれぞれの方法で、“どこに行ったか”を考えて探すんだ」
ページをめくりながら、蓮は続けた。
「でも、この話で面白いのは、
誰も“いなくなった理由”をちゃんと考えてないところなんだ」
「……考えてない?」
「“いなくなった理由”がわかるとすぐに見つかるって話」
その言葉に、ルナの指がわずかに止まる。
「みんな“いなくなった理由”はあまり考えたくないから避けるように、“どこに行ったか”を考えてる」
昨夜の喫茶店で感じた違和感が、言葉にならないまま胸に残る。
「探してる、って言いながらさ」
「うん」
「本当に探してるのかどうか、分からない人もいる」
蓮はあくまで、本の話をしている口調だった。
「それって……音と似てるかも」
ふと、ルナが言った。
「似てる?」
「探してるつもりでも、何を探してるのか分からなくなる感じ」
蓮は少しだけ笑った。
「そういう時の音って、だいたい整理しようとすると逃げる」
「……じゃあ、どうすればいい?」
「さあ」
肩をすくめる。
「今はまだ無理に形にしなくていい。いずれ分かる時がくる。」
その言葉が、静かに残った。
二人とも、それ以上話さなかった。
紅茶の湯気が、ゆっくりと消えていく。
「ルナ、急ぐ必要はないよ」
それだけ言って、蓮はまた本に目を落とした。
店を出る。空は明るい。
私は胸の奥に残る旋律をなぞる。
意味も理由も、まだはっきりしない。
ただ、消えそうで、でも確かに“そこにあった”感情だけが、音になる直前で息をしていた。