
第4章|壊せる人
新しい音は必要だ。
でも、それを本当に口にすると、前の形には戻れなくなる。
そういう時、人はだいたい偶然のふりをする。
スタジオのドアを開けた瞬間、ユイナがスティックを止めた。
「……誰?」
ルナの後ろに立つその子を見ての第一声としては、だいぶ正しい。
「駅で拾った」
とルナは満面の笑みでピースした。
「猫みたいに言うな」
とユイナが即座に返す。
ユウがベースを肩にかけたまま顔を上げる。
その一瞬だけで、説明が必要だということは十分に伝わった。
「ストリートピアノ弾いてた」
ルナは続ける。
「音がよかった。話した。来るって言った。だから連れてきた」
「説明が全部短いのに、やってることだけは妙にでかい」
とユイナが言う。
ルナはにこにこしたまま頷く。
「白石絢音です」
「ユイナ」
「ユウ」
短い紹介で十分だった。
この場所では、長い自己紹介より、どんな音を出すかの方が先に効く。
ユイナは絢音を見て、すぐに聞いた。
「何聴くの?」
「いっぱい」
と絢音は即答する。
「メシアンも好きだし、スティーヴィーも好き。あと、シンセの積み方うまいバンドはだいたい好き」
「急に濃いな」
とユイナが笑う。
「そっちは?」
と絢音が逆に聞く。
「雑食」
ユイナは肩をすくめた。
「昔のロックも聴くし、SNSで流れてきた変なやつも聴くし、自分が叩いて気持ちいいやつも好き」
その返しに、絢音は少しだけ嬉しそうな顔をした。
音楽の話になると、人との距離の測り方が変わる。そういう人だと、ルナはもう分かり始めていた。
その空気に、もう一つ別の気配が重なる。
ドアが開いて、カイが入ってきた。
黒いマスク。
ギターケース。
少しだけ疲れた目。
でも体のどこかは、まだ仕事の現場に残っている感じがする。
「近くで録り終わって」
とカイが言う。
「思ったより早く片づいたから寄った」
ユイナが笑う。
「今かー」
「あれ、まずかった?」
「いや、むしろ今日っぽい」
とユイナは言う。
「いつもの三人に、初めましてが二人」
カイはそこで絢音に気づく。
絢音もまた、知らないギタリストが自然に入ってきたことを見ている。
互いに一瞬だけ観察する。
値踏みというほど嫌なものではない。ただ、「どういう音を出すんだろう」と思っている顔だった。
「説明する?」
とユイナが言う。
「一応」
「必要なところだけでいい」
とユウが言う。
ルナは二人を交互に見た。
「カイ。配信とかサポートで弾いてるギタリスト。前からユイナが気にしてた」
「絢音。駅前のストリートピアノでうまかったから拾ってきた」
「雑だな」
とカイが言う。
「でもまあ、分かる」
とユイナが返す。
絢音はそのやり取りを見てから、少しだけ笑った。
空気を読みすぎず、でも外しもしない。そういう人の表情だった。
「いいや、もう」
とユイナはドラムの椅子に座り直して言う。
「音出した方が早いよね」
それで場が決まった。
ルナはスマホをミキサーに繋ぐ。
カイはケースを壁際に立てる。
絢音だけが、まだ何も言わずにルナの手元を見ていた。
「デモ流すね」
とルナが言う。
曲が鳴り始める。
歌とギターだけの粗いデモ。
余白の多い旋律。
進みたいくせに、どこかで立ち止まる曲。
ルナの中でまだ意味が定まりきっていない、そのままの形。
半分ほど流れたところで、絢音が立ち上がった。
誰に断るでもなく、自然だった。
ホワイトボードの前へ行き、マーカーを取る。
イントロ。
A。
B。
サビ。
ブレイク。
落ちサビ手前の空白。
書くのが速い。しかも、ただ並べているわけじゃない。見えている骨組みだけを先に抜き出していくような書き方だった。
「すご」
とユイナが言う。
「見えてるところを書いてるだけ」
と絢音は言う。
「この曲、迷ってるけど散らかってはない」
ルナはその言葉に少し救われる。
迷っている。
それはそうだ。
でも散らかってはいない。
その違いを言葉にされたのは初めてだった。
カイがボードを見て、少しだけ目を細めた。
「エモいな」
「エモい曲ほど、構造見失うと危ないし」
とカイは言う。
「あと、ここ」
マーカーの先がサビ前を指す。
「浮いてるよね。一回だけ、地面なくなる感じ」
「うん」
とルナが言う。
「不安定というかサビに入りづらいというか」
「分かる」
絢音は頷く。
「でも、フワッとしててもいいんじゃない?お化けだし。湿度が命みたいな」
湿度。
その言い方に、ルナは顔を上げた。
何とも言い表せなかった、この曲の空気を絢音は平然と言葉にした。
「じゃあ、どうする?」
とカイが初めて少し前のめりに聞く。
絢音は少しだけ考えてから言う。
「着地しない」
「着地?」
「うん。そこ、綺麗に解決すると死ぬ」
絢音は肩をすくめた。
「お化けなのに?ならもう死んでる」
カイが小さく笑う。
「変な人だな」
「よく言われる」
「でも分かる」
「でしょ」
その会話の速さが、妙によかった。
初対面同士なのに、音の話だけは最初から省略が効いている。
「……せっかくだし」
とユイナがスティックを持ち上げる。
「音出してみる?」
カイがケースからギターを出す。
絢音は鍵盤の前に座る。
ルナはギターを抱え直す。
ユウはベースを手に取る。
緊張感はある。
でも嫌じゃない。
こういう緊張は、むしろ始まりの匂いがする。
ユイナがカウントを出す直前、ルナはほんの少しだけ息を止めた。
この一音で、何かが決まる気がしたからだ。