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第7章|永遠の手前

    ガラスのルールが音を立てたあと、四人の時間は少しだけ速くなる。
    スタジオ、コンビニ前、雨上がりの路地。
    名前も約束もまだ曖昧なまま、音だけが先へ進んでいく。
    そして夕立のあとの渋谷で、四人は短い青春の最高点に立つ。


    あの夜から、
    街の音が少し違って聞こえるようになった。

    信号の電子音。
    店から漏れるベース。
    誰かの笑い声。
    スニーカーが濡れた路面を踏む音。

    全部が、
    何かのイントロみたいに聞こえた。

    「ルナ、最近ちょっと声変わったよね」

    ユイナにそう言われたのは、
    警備員から逃げた日の数日後だった。

    いつものコンビニ前。
    私が歌い終えると、
    ユイナはスティックケースを膝に置いたまま頷いた。

    「変わった?」

    「音量じゃなくて、芯。前よりビビってない」

    「逃げ足で鍛えた」

    トウマが横から言う。

    「鍛え方が最悪」

    私が返すと、
    ユイナが笑った。

    ユウはベースケースにもたれながら、
    小さく言った。

    「でも、実際よくなった」

    「ユウが普通に褒めた」

    「普通ではない」

    「今のは普通」

    「違う」

    トウマがぱちぱちと拍手する。

    「すごいぞルナ。ユウから“実際よくなった”を引き出した」

    「レアなの?」

    「SSR」

    「何のゲーム」

    「ユウ育成ゲーム」

    「育てられてない」

    ユウが真顔で言うから、
    また全員が笑った。

    そういう時間が、
    少しずつ増えていた。


    スタジオにも、何度か入った。

    最初の一回で終わるはずだった。
    少なくとも私はそう思っていた。

    でもユイナは、
    「一回やったら二回やるって言ったじゃん」
    と当然のように次の予約を入れた。

    ユウは「金曜なら」と言った。
    トウマは「暇なら行く」と言った。
    私は「行けたら」と言った。

    そして結局、
    全員来た。

    ユイナのドラムは、
    回数を重ねるたびに遠慮がなくなった。

    スネアの音が前に出る。
    キックが私の胸のあたりを押してくる。

    「そこ、もうちょい待って」

    ユイナが言う。

    「私?」

    「そう。ルナ、サビ前で焦る」

    「焦ってない」

    「焦ってる。早くサビに行きたくて前のめりになってる」

    「分かるの?」

    「ドラムはそういうの全部バレる」

    「怖い」

    私はサビ前で少しだけ待った。

    たったそれだけで、
    声の入り方が変わった。

    焦らなくても、
    サビは逃げない。

    そのことを、
    私は音で覚えていった。

    ユウも、
    少しずつよく喋るようになった。

    「そのAメロ、低すぎる」

    「私の歌?」

    「歌というより、ギターの位置」

    「位置?」

    「声が上に行きたいのに、ギターが下を向いてる」

    「詩人?」

    トウマが言う。

    「違う」

    「でも今ちょっと詩人だった」

    「違う」

    ユウはそう言いながら、
    ベースで低い音を鳴らす。

    「ここを少し動かすと、ルナの声が抜ける」

    私はその音を聴きながら、
    ギターの押さえ方を変えた。

    すると本当に、
    歌いやすくなった。

    自分の歌なのに、
    自分一人では分からないことがある。

    ユウはそれを、
    音の隙間から見つけてくれる。

    トウマは、
    スタジオでも路地でも、
    いつも少しだけ音の外側にいた。

    ギターを弾くわけじゃない。
    歌うわけでもない。
    ベースもドラムも叩かない。

    でも、
    彼がいると音の形が変わった。

    サビに入る直前、
    トウマが一歩前へ出るだけで、
    曲が前へ行く気がする。

    間奏で彼が身体を沈めると、
    私も自然と声を抑えられる。

    彼は音を出していないのに、
    確かに音の中にいた。

    「トウマってさ」

    ある日、私が言った。

    「ちゃんと楽器やったら上手そう」

    「ダンスが楽器です」

    「それ、誰か言ってたの?」

    「今俺が考えた」

    「浅い」

    ユイナが即座に言う。

    「浅くない。深すぎてまだ誰も気づいてないだけ」

    「それを浅いって言うんだよ」

    トウマは笑いながら、
    スタジオの鏡の前で軽くステップを踏んだ。

    鏡に映った彼は、
    いつもより少し遠く見えた。

    同じ部屋にいるのに、
    彼だけ別の音楽を聴いているみたいだった。

    「でもさ」

    トウマは鏡越しにこちらを見る。

    「ルナの曲って、踊れるんだよね」

    「そうなの?」

    「うん。悲しい感じなのに、足が止まらない」

    その言葉が、
    なぜか心に残った。

    悲しい感じなのに、
    足が止まらない。

    それはたぶん、
    私が作りたかったものに少し近かった。

    悲しいだけじゃない。
    明るいだけでもない。
    止まりたいのに、
    どこかへ行きたくなる曲。

    「それ、いいね」

    私が言うと、
    トウマは少しだけ得意そうに笑った。

    「だろ?」

    その顔を見て、
    ユイナがまた何か分かっている顔をした。

    「何?」

    「別に」

    「出た」

    「便利だから」

    私はもう反論しなかった。


    その日の夕方、
    強い雨が降った。

    短い夕立だった。

    スタジオの終了時間に合わせたみたいに、
    外へ出た瞬間だけざあっと降って、
    私たちはビルの入り口でしばらく足止めされた。

    「うわ、終わった」

    ユイナが空を見上げる。

    「傘ある?」

    私が聞くと、
    全員が黙った。

    「誰もないんだ」

    「天気予報見てない」

    トウマが言う。

    「威張ることじゃない」

    「でも全員ないなら平等」

    「何が?」

    「濡れる権利」

    「いらない」

    ユウはスマホで雨雲を見ていた。

    「十分くらいで弱くなる」

    「ユウ、こういうとき頼れる」

    トウマが言う。

    「こういうときだけ?」

    「こういうときも」

    「修正が雑」

    私たちはビルの入り口で、
    雨が弱くなるのを待った。

    道路はすぐに濡れて、
    車のライトが水たまりに伸びる。
    ネオンが揺れる。
    歩行者が駆け足になる。

    雨の渋谷は、
    晴れの日より少しだけ本音に近い気がした。

    普段は騒がしすぎて見えないものが、
    水の膜の向こうでゆっくり滲んでいる。

    「雨、嫌い?」

    トウマが聞いた。

    「ギター持ってなかったら、嫌いじゃない」

    「正しい」

    「トウマは?」

    「好き。踊ると滑るけど」

    「危ないじゃん」

    「危ないからいい時もある」

    「またそういうこと言う」

    トウマは笑った。

    その笑顔は、
    いつも通り明るかった。

    でも雨のせいか、
    少しだけ輪郭がぼやけて見えた。

    ユウがスマホをしまう。

    「弱くなった」

    その言葉通り、
    雨は細くなっていた。

    私たちは外へ出た。

    アスファルトの匂いが強い。
    空気は湿っていて、
    肌に少しまとわりつく。

    でも、
    不思議と嫌じゃなかった。


    いつものコンビニ前に着いたとき、
    路地にはまだ水たまりが残っていた。

    夕立のあと。
    ネオン。
    湿った空気。
    少しだけ涼しい風。

    全部が、
    妙に綺麗だった。

    「今日さ」

    トウマが言った。

    「なんか、いい日になる気がする」

    「もう終わりかけだけど」

    ユイナが言う。

    「終わりかけがいいんじゃん」

    「それっぽいこと言ってる」

    「それっぽいだけじゃない」

    トウマは水たまりを避けながら、
    軽くステップを踏んだ。

    「ルナ、あれ弾いて」

    「あれ?」

    「今日スタジオでやったやつ。サビ前で落とすやつ」

    「ここで?」

    「小さく。怒られないくらい」

    「基準が曖昧」

    「大丈夫。今日は怒られたら謝る」

    「前回逃げた人が言う?」

    「成長した」

    ユイナが吹き出した。

    「一週間で更生した」

    「偉いだろ」

    「偉い方向が低い」

    私はギターを取り出した。

    ケースを濡らさないように段差の上へ置き、
    軽く弦を鳴らす。

    湿気のせいで、
    いつもより少しだけ音が丸かった。

    ユイナは手拍子。
    ユウはベースを出さず、指だけで膝を叩いた。
    トウマは水たまりの端に立ち、
    音を待つみたいに身体を揺らしている。

    私は弾き始めた。

    声は小さめにした。
    でも、
    不思議とよく響いた。

    濡れた路地が、
    音を吸わずに少しだけ返してくれる。

    ユイナの手拍子が入る。
    ユウの膝を叩く低いリズムが重なる。
    トウマの足が水を小さく跳ねさせる。

    誰も「合わせよう」とは言わなかった。

    でも合っていた。

    曲が進む。
    サビ前で落とす。
    私は息を吸う。

    その瞬間、
    路地の奥で誰かが足を止めた。

    一人。
    二人。
    三人。

    遠くでスマホを構える人がいる。

    でも怖くなかった。

    たぶん、
    四人だったから。

    サビに入る。

    私は少しだけ声を強くした。

    スタジオほど大きくはない。
    でも、
    路上でしか出ない声だった。

    雨上がりの匂い。
    ネオン。
    水たまり。
    誰かの足音。
    コンビニの明かり。
    トウマの踊る影。

    全部が、
    音の中に混ざっていく。

    歌いながら、
    私は思った。

    この時間が終わらなければいい。

    学校が終わって、
    渋谷へ走って、
    トウマがいて、
    ユイナが笑って、
    ユウが静かに音を直して、
    私は歌う。

    それだけでいい。

    世界はそれ以上、
    何もくれなくていい。

    曲が終わった。

    少しだけ拍手が起きた。

    大きくはなかった。
    でも、確かにあった。

    トウマが水たまりを飛び越えて、
    私の方へ駆け寄ってきた。

    「今の、最高!」

    「声大きい」

    「最高だったからしょうがない」

    ユイナも笑っていた。

    「ルナ、今の録っとけばよかった」

    「やめて。絶対ミスってる」

    「ミスってるところ含めてよかった」

    ユウが静かに言う。

    「最後、少し走った」

    「ほら!」

    私が言うと、
    ユウは続けた。

    「でも、その方がよかった」

    全員がユウを見る。

    ユウは一瞬だけ、
    しまった、という顔をした。

    「……場合による」

    「遅い!」

    ユイナが笑う。

    トウマは水たまりを蹴って、
    小さく跳ねた。

    「はい、今日のMVPはユウ!」

    「意味が分からない」

    「褒めたから」

    「褒めただけで?」

    「ユウが褒めるのは事件だから」

    「事件にしないで」

    私たちは笑った。

    路地に、
    笑い声が跳ねる。

    その笑い声まで、
    濡れたアスファルトが光らせているように見えた。


    最後に、
    駅前まで四人で歩いた。

    夜風は少しぬるくて、
    雨の匂いがまだ残っていた。
    信号待ちの人たちの傘から、
    水滴がぽたぽた落ちている。

    トウマはずっと機嫌がよかった。

    「今日の夜、すごくない?」

    「語彙がユイナ化してる」

    ユウが言う。

    「やばいとすごいで会話できます」

    ユイナが胸を張る。

    「誇らないで」

    私が笑うと、
    トウマが急に前へ出た。

    「じゃあさ」

    嫌な予感がした。

    「競争しようぜ。あそこの横断歩道まで」

    「は?」

    ユイナが言う。

    「バカなの?」

    「青春っぽいだろ」

    「さっきからずっと青春だよ」

    「仕上げ」

    「何の」

    「今日の」

    そう言うなり、
    トウマは走り出した。

    「あ、ずる!」

    私は反射的に追いかけていた。

    ユイナが「ちょっと!」と叫び、
    ユウがため息をつきながら、
    結局走った。

    雨上がりの道を、
    四人で走る。

    スニーカーが水を跳ねる。
    ギターケースが背中で揺れる。
    息がすぐに上がる。

    横断歩道の手前で、
    トウマが両手を広げて止まった。

    「俺一位!」

    「フライング!」

    ユイナが抗議する。

    「勝ちは勝ち」

    「無効」

    「審判は?」

    トウマがユウを見る。

    ユウは少し息を整えてから言った。

    「全員反則」

    「厳しい!」

    私は笑いすぎて、
    しばらく何も言えなかった。

    信号はまだ赤だった。

    四人で肩を並べて、
    息を切らしながら立つ。

    目の前を車が流れていく。
    街の光が、
    濡れた道路に長く伸びている。

    誰も帰りたがらなかった。

    でも、
    誰もそれを口にしなかった。

    口にしたら、
    本当に帰らなきゃいけなくなる気がしたから。

    トウマが空を見上げる。

    「こういう夜、ずっと覚えてたいよな」

    その言葉に、
    私は何も返せなかった。

    覚えてたい。

    その時は、
    ただいい言葉だと思った。

    でも今なら分かる。

    覚えていたい夜ほど、
    続かない。

    続かないから、
    人は覚えていたいと思う。

    信号が青に変わる。

    私たちは歩き出した。

    あの夜、
    私たちはたぶん、
    何者でもなかった。

    バンド名もない。
    将来もない。
    約束も曖昧で、
    曲だってまだ完成していない。

    それでも、
    世界で一番遠くまで行ける気がしていた。

    十三歳の私は、
    本気でそう思っていた。

    あの夜は、
    永遠の手前だった。


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    総目次|SlowRush

     
     
    📘 Novel × 🎵 Music × 🎥 MV すべてAIで創り続けるプロジェクト。 小説「Parallel Lights」を元にした楽曲 『Before the World…』を公開中。 小説・作詞・作曲・アレンジ・MVをSuno / Sora2 / Canva など

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