
第2章|白いカブの先輩
翌日から、私は「あの子」と呼ばれるようになった。
リアム先輩とピアノを弾いた一年。
鍵のかかったピアノを開けてもらった子。
名前より先に出来事で覚えられるのは、少し変な感じがした。
でも、嫌ではなかった。
島へ来るまで、Aosagiという名前も知らなかった。
高校生の大会で優勝した、この島の有名なバンド。
私にとっては、まだそのくらいだった。
島へ来る前も、テレビの撮影を見かけることはあった。誰が来ているのか確かめるために立ち止まったことは、ほとんどない。
だから昨日も、相手が有名だからピアノを弾いたわけではなかった。
鍵を開けてもらって、隣に座られて、そのまま弾いただけだ。
そのせいで今日は、私まで周りから見られている。
気になるのは、そっちだった。
放課後、また音楽室へ行った。
入部を決めたわけではない。
決めていないのに、二日続けて同じ部屋へ行くのも変だと思う。
それでも、グランドピアノの鍵盤蓋が開いているか気になった。
開いていた。
昨日もいた三年生の先輩が、ホワイトボードの前に立っている。
「練習は十五分交代。使いたいところにバンド名を書いて」
放課後の時刻が細かく区切られていた。
白い欄に、知らない名前がいくつも並んでいる。
TIDEMARK。
FOG LAMP。
読めるけれど、誰のことかは分からない。
最初に五人組が演奏した。
昨日は楽器ごとにばらばらに聞こえていた音が、今日は最初から一つになっている。
誰かが迷う前に次の音が来る。
顔を見なくても進んでいく。
一曲終わると、ドラムの前にいた先輩が額の汗を拭いた。
「別に最初からこうじゃないから。俺たち一年の時、曲より先に喧嘩してたし」
横から女子の先輩が言う。
「今もしてるけど」
「今のは意見交換」
見ていた一年生が笑った。
次のバンドは、さっきより少し荒かった。
途中でテンポが前へ出る。
演奏が終わった瞬間、ギターの先輩がドラムを振り返った。
「最後、走っただろ」
「ライブ感」
「便利に使うな」
また笑いが起きる。
演奏している時は近寄りがたく見えるのに、音を止めると普通の高校生だった。
拍手が収まる頃、窓際に人が増えた。
リアム先輩がいた。
いつ来たのか分からなかった。
今日はベースを持っていない。
さっき歌っていた女子の先輩が手を振った。
「リアム、何かやってよ」
「今日、持ってきてない」
「ピアノあるじゃん」
「昨日やったからいい」
「昨日?」
リアム先輩の視線がこちらへ向いた。
私はグランドピアノへ視線を逸らした。
「少しだけ」
これ以上、昨日のことでこちらを見られるのは面倒だった。
私が知っているリアム先輩の音は、昨日のピアノと、窓際で鳴らしていた短いベースだけだった。
見学会が終わり、上級生たちが機材を片づけ始める。
私はピアノの前まで行った。
鍵盤蓋はまだ開いている。
リアム先輩が銀色の鍵を指に掛けていた。
「弾く?」
「今日は見学です」
「二日目も?」
「昨日は見学になってなかったので」
リアム先輩が少し笑った。
「確かに」
それで会話は終わった。
昨日は同じ椅子に座って、音ではあれだけやり取りしたのに、言葉にするとこれくらいだった。
別に不思議ではない。
昨日会ったばかりの先輩だ。
さっき歌っていた女子の先輩が、ケーブルを巻きながら聞いた。
「リアム、今週も東京?」
「土曜から」
「Aosagi、三人で合わせるの?」
「その予定」
「忙しいね。卒業したら向こうでしょ」
「うん」
返事はすぐだった。
再来年の春には東京へ行くらしい。
私にとっては、まだずいぶん先の話だった。
廊下から声が飛んでくる。
「リアム、店の荷物」
足元に段ボール箱が二つ置かれていた。
「忘れてない」
「置いて帰る顔してた」
「今持つ」
リアム先輩が一つ抱える。
もう一つは、私の足元の方が近かった。
「これも?」
「うん」
持ち上げる。
「重いよ」
「もう持ちました」
思ったより重かった。
箱の中で瓶のようなものが触れ合う。
「ありがと」
持ったまま立っていても仕方がないので、そのまま先輩について校舎を出た。
駐輪場の端に、白いカブが停まっていた。
丸いヘッドライト。
長い黒いシート。
前と後ろの荷台。
白い車体には、色も大きさも違うステッカーがいくつも貼られている。
リアム先輩が自分の箱を後ろへ載せた。
「それも、ここ」
言われた場所へ箱を置く。
先輩は二つを慣れた手つきで固定した。
私は少し離れた。
東京へ行くことも、卒業したら向こうへ行くことも、さっきの先輩は当たり前のように話していた。
その本人は今、白いカブに段ボール箱を括りつけている。
二つがまだうまく繋がらなかった。
リアム先輩がヘルメットを被る。
「じゃあ、また」
「はい」
エンジンがかかった。
白いカブが校門を出て、私の知らない道へ曲がっていく。
島へ来てから、知らない名前ばかり増えていく。
TIDEMARK。
FOG LAMP。
さっき演奏していた先輩たちの名前も、まだ知らない。
誰が誰で、誰と誰がどう繋がっているのかも、ほとんど分からなかった。