
第3章|知らない名前ばかり
昼休みの教室では、知らない名前がよく飛び交った。
小学校から一緒だった人。中学の部活で揉めた人。商店街の誰かの弟。坂の上の家の従兄弟。島では人を説明する時、本人以外の名前がいくつも必要になるらしい。
私は、そのどれも知らなかった。
「汐音は、宮本さんのところにいるんだよね」
前の席から振り向いた花音が言った。
黒いポニーテールが、机の端で揺れる。
「母の実家だから」
「じゃあ宮本のおばあちゃんの孫?」
「そう」
「やっぱり」
「島だと、そういう呼ばれ方するんだね」
「だいたいそんな感じ」
花音は納得したようにうなずいた。
隣では芽衣が弁当箱の小ささに似合わない量のおかずを詰め込んでいる。胸より下まである黒髪の内側には赤いインナーカラーが細く入り、顔を動かすたびにのぞいた。大人しく弁当を食べているだけなのに、なぜか目に入る。
「島の人、名字で呼んでも家族ごと来るからね」
「一宮も多いの?」
「うちは少ないけど、芽衣って呼ばれる方が好き」
「じゃあ芽衣」
「うん。汐音」
名前を交換するだけで済む関係は、少し楽だった。
教室の後ろでは、湊がギターのコード表を広げていた。重い前髪の隙間から紙を睨んでいる。
その横で岳が、机を指で四回ずつ叩いていた。
「それ、授業中もやってたよね」
花音が言う。
岳の指が止まった。
「無意識」
「先生も見てた」
「止めてくれよ」
「面白かったから」
「中原、そういうところあるよな」
岳は背が高く、椅子が少し小さく見える。運動部へ入ると思っていたのに、ドラムを見て軽音部に残ったらしい。
湊が顔を上げた。
「汐音って、昨日リアム先輩とピアノ弾いてたよね」
教室の空気が、一瞬だけこちらへ寄った。
「見てたの」
「見学会にいたから」
「俺もいた」
岳が言う。
「私も」
花音も言う。
芽衣は箸を止めた。
「私、後ろで全然見えなかった。リアム先輩、急に隣に座ったんでしょ?」
「座った」
「知り合いだったの?」
「初対面」
四人が同じ顔をした。
私も、たぶん同じ顔をしたかった。
「名前もすぐ呼んでたよね」
湊が続けた。
「そういう人なんじゃない」
「リアム先輩が?」
花音が首を傾げた。
「むしろ、人の名前覚えないって聞くけど」
「昨日会ったばかりだから、まだ忘れてないだけ」
自分で言っておいて、少し無理があると思った。
リアム先輩が初対面の私へ何を見つけたのか、説明できるものは何もない。
ピアノを弾く一年生が珍しかった。
鍵を持っていて、目の前にピアノがあった。
そのくらいで十分なはずだった。
それ以上を考えると、昨日の最後の和音まで思い出してしまう。
私は話を変えた。
「みんな軽音部に入るの?」
「私は入る」
芽衣が即答した。
「歌いたいから」
「私はベース」
花音が言う。
「まだ触ったことないけど、色が一番好きだった」
理由が強いのか弱いのか分からない。
湊はコード表を持ち上げた。
「ギター。もうやってる」
岳はまた机を四回叩いた。
「ドラム」
全員の視線が私へ来た。
「ピアノ」
答えると、芽衣が笑った。
「じゃあ五人で何かできるね」
簡単に言った。
簡単だから、少しだけ本当になりそうだった。
放課後、私は音楽室ではなく家へ帰った。
朝に電動自転車で上った坂を、帰りは下る。ペダルを踏まなくても、海の方へ勝手に進んでいく。母の実家である宮本家は、坂を下りた先にある。
玄関を開けると、台所から煮物の匂いがして、奥で祖母が誰かと電話していた。
「はいはい、水城さんのところの。ええ、戻ってきたんじゃなくて、来てるの」
私の説明にも、やっぱり別の名字が必要になる。
二階の部屋には、まだ開けていない段ボールが残っていた。
引っ越してきて三週間。
必要なものはだいたい出したのに、開けなくても生活できる箱はそのままになっている。
母は窓際で仕事用のノートパソコンを開いていた。
「部活、どうだった?」
「まだ見てる」
「二日連続で?」
「見学は何日してもいいでしょ」
「入る人の言い方だね」
母は画面から目を離さずに笑った。
私は鞄を椅子へ置く。
「軽音部って、ギターの人多いね」
母が振り返った。
「やりたいの?」
「別に。ちょっと見てただけ」
「そう」
母はそれ以上聞かなかった。
そのまま仕事用の画面へ視線を戻してから、思い出したように言った。
「ギターならあるわよ」
「誰の?」
「お父さんの」
私は母を見た。
「お父さん、ギター弾けるの?」
「昔ね。バンドやってたから」
知らなかった。
父が音楽を聴いているところは見たことがある。
車では古いロックを流していたし、曲の途中でドラムが変わると、たまに指でハンドルを叩いていた。
でも、楽器を持っているところは一度も見たことがない。
下から祖父の声がした。
「そういえば、この間一人で帰ってきてたぞ」
母の手が止まった。
「え、一人で?」
「うん」
「何しに?」
「知らん。納戸を開けてた」
母は眉を寄せた。
「私、聞いてないんだけど」
「俺に言われても知らん」
祖父の声は、そのままテレビの天気予報へ戻った。
明日は晴れ。
波は穏やか。
洗濯物はよく乾く。
父が一人で島へ来た理由は、天気予報より分からなかった。
「ギター、どこにあるの」
私が聞くと、母はまだ少し不満そうな顔のまま、廊下の奥を指した。
「二階の納戸。黒いケース」
夕食まで時間があった。
私は二階へ上がった。
納戸は、家の中で一番時間が止まっている場所だった。
古い扇風機。
使わなくなった布団。
欠けた植木鉢。
母の学生時代らしい紙袋。
その奥に、黒いハードケースが立てかけてあった。
思っていたより大きい。
持ち上げると重かった。
床へ寝かせる。
金具は三つ。
一つ目を外す。
硬い音がした。
二つ目。
三つ目。
誰にも開けろとは言われていない。
母は、あると言っただけだった。
私はケースの蓋に手をかけた。
少しだけ迷って、それから開けた。
内側の黒い布の中に、ギターが収まっていた。
サンバーストのボディ。
べっ甲柄のピックガード。
銀色の金属部品がいくつも付いている。
思っていたギターより大きくて、重そうで、少し不格好だった。
でも、格好よかった。
私はしゃがんだまま、しばらく触れずに見ていた。
ピアノは、弾ける。
この楽器は、何も知らない。
知らないから、少し触ってみたいと思った。
私はケースの中へ手を伸ばした。