
第1章|13歳のストリートデビュー
2033年4月。
十三歳のルナは、渋谷の路上で初めてひとり歌っていた。
誰も立ち止まらない。声は雑踏にほどけ、ギターをしまう勇気さえ出ない。
そんな彼女に、ひとりの少年が声をかける。
「ねぇ、もう一曲歌ってよ」
――2033年4月/渋谷
最初の一曲を歌い終えたとき、
誰も立ち止まっていなかった。
正確には、何人かがこちらを見た。
ギターを抱えた中学生が路上にいるのが珍しかったのかもしれない。
でも、それだけだった。
目が合って、すぐ逸れる。
歩幅は緩まない。
イヤホンをつけたまま通り過ぎる人。
スマホを見ながら横を抜けていく人。
待ち合わせの相手を探している人。
私の歌は、その全部の隙間に落ちて、
どこにも残らなかった。
「……」
ギターの弦に置いた指が、汗で少し滑る。
春なのに、手のひらだけ真夏みたいだった。
ストラップが肩に食い込む。
ケースを開いたまま足元に置いているのが、急にひどく恥ずかしくなる。
何をしているんだろう、と思った。
十三歳の子どもが、
ひとりで渋谷まで来て、
誰も聴いていない場所で、
知っている人もいない歌を歌っている。
帰ればよかった。
そう思った。
でも、帰れなかった。
今ここでギターをしまったら、
たぶん私は、もう二度と外で歌えない。
そんな気がした。
別に誰かと約束したわけじゃない。
今日やらなきゃいけない理由があったわけでもない。
けれど、ここで終わるのだけは嫌だった。
だから私は、
息を吸って、もう一度コードを押さえた。
そのときだった。
「ねぇ」
少し離れたところから、声がした。
「もう一曲歌ってよ」
私は顔を上げた。
人の流れの端に、ひとりの少年が立っていた。
黒いキャップを後ろ向きにかぶり、
Tシャツの首元が少し濡れている。
額にも汗が残っていた。
近くで踊っていたのか、
身体の熱だけまだ音楽の中にいるみたいだった。
「……私に?」
思わず聞き返すと、
彼はちょっと笑った。
「他に歌ってる人いないじゃん」
そう言って、こちらへ近づいてくる。
年上なのはすぐ分かった。
高校生、というより、もう少し大人に見えた。
顔立ちがどうとかじゃなくて、
街の中で自分の立つ場所を知っている人の歩き方だった。
私はその場で固まったまま、
ギターを抱え直す。
「さっきの、オリジナル?」
「……うん」
「へえ」
彼は短く頷いた。
「いいね。
その声、なんか引っかかる」
その言い方が、妙に嬉しかった。
上手い、とか。
かわいい、とか。
頑張ってるね、とか。
そういう言葉じゃなかった。
引っかかる。
自分でもまだよく分かっていないものを、
少しだけ見つけてもらえた気がした。
「もう一回、聴いていい?」
私は小さく頷いた。
指先はまだ震えていた。
けれど、さっきよりは少しましだった。
誰か一人が聴いている。
それだけで、同じ場所が違う場所みたいに見える。
私はもう一度、弦を鳴らした。
さっきと同じ曲ではなく、
途中までしかできていない別の曲を選んだ。
歌詞もまだ少し曖昧で、
二番はない。
でも今は、そのくらいでちょうどよかった。
彼は最初から最後まで、黙って聴いていた。
途中で視線を逸らすこともなく、
スマホを見ることもなく、
ただ、ちゃんとこちらを見ていた。
歌い終わると、
彼は一度だけ大きく手を叩いた。
ぱん、と乾いた音がした。
たった一拍手。
でも私には、それがやけに大きく聞こえた。
「やっぱいいじゃん」
彼はそう言って笑い、
少し先の自販機の方へ歩いていった。
終わりなのかな、と思ったら、
すぐに戻ってくる。
手には缶ジュースが二本あった。
「はい」
差し出された一本を、反射的に受け取る。
冷たいオレンジジュースだった。
「え、いいの?」
「歌ってもらったし」
「でも」
「じゃあ投げ銭代わり」
彼はそう言って、
自分の分の缶を開けた。
私は缶を持ったまま、どうしていいか分からず立っていた。
それに気づいたのか、彼は笑う。
「続けなよ」
「……え?」
「誰も聴いてないように見えてもさ。
ちゃんと届くときは届くから」
その言葉を、
私はその場で全部信じられたわけじゃなかった。
でも、胸のどこかに、
小さく火がついた気がした。
「名前は?」
彼が聞く。
「ルナ」
「ルナ。覚えやすい」
「そっちは?」
「トウマ」
彼は短く答えて、
缶を軽く持ち上げた。
「じゃあ、ルナ。
次、何歌う?」
次、という言葉が嬉しくて、
私は少しだけ笑った。
それが、トウマとの最初の会話だった。
三曲目に入る頃には、
さっきより人通りが増えていた。
でも不思議と、
最初ほど怖くなかった。
トウマは少し離れた場所で缶を片手に聴いていて、
曲のリズムに合わせるように足先を動かしている。
踊るほどじゃない。
けれど、身体のどこかでずっと拍を取っていた。
そのとき、
横から急に手拍子が入った。
ぱん、ぱん、ぱん、ぱん。
私はびっくりして、
一瞬コードを外しかける。
「はい、そこ力まない!」
声が飛んできた。
見ると、制服姿の女子が、
笑いながらこちらへ歩いてきていた。
背中にはスティックケース。
手拍子は止めないまま、
こちらのリズムにぴたりと合わせてくる。
「肩上がってる。
吸って、吐いて。歌、止めない」
初対面の人に言うことじゃない。
でもその声に押されて、
私はなんとか曲を続けた。
サビに入ると、
手拍子が少し大きくなる。
それにつられるように、
通りすがりの人が一人、二人とこちらを見る。
トウマが楽しそうに笑っていた。
曲が終わると、
女子は満足そうに頷いた。
「うん。今の方が全然いい」
「……ありがとう」
「どういたしまして」
彼女はあっけらかんと言い、
私より先にトウマへ目を向けた。
「また知らない子見つけてる」
「見つけたって何」
「そのまんま。
こういうの、放っておけないでしょ」
「まあ、そうだけど」
二人は知り合いらしかった。
そのやり取りの距離が近くて、
私はなぜか少しだけ安心した。
トウマが急に現れた変な人ではないらしい、という意味で。
「私、ユイナ」
彼女は私に向かって手を差し出した。
「ドラムやってる。
今の曲、ちゃんとバンドで鳴らしたらもっと良くなると思う」
唐突すぎて、
何を返せばいいか分からなかった。
「バンド……?」
「うん。ドラム入れたい。
特にサビ前。あそこ絶対もっと跳ねる」
「いや、いきなり具体的」
トウマが笑う。
「だって聞こえたんだもん」
ユイナは悪びれない。
その言い方が妙に本気だった。
私はまだ、
自分の曲を誰かと鳴らすなんて考えたこともなかった。
歌うのは一人。
ギターも一人。
下手でも不安でも、
一人で抱えて、一人で出すものだと思っていた。
だから、
「ドラムを入れたい」と言われただけで、
頭の中に知らない景色が一瞬だけ差した。
自分の曲の後ろで、
誰かのリズムが鳴っている景色。
それは、
少し怖くて、
少しだけ眩しかった。
「……あの」
そのとき、
すぐ近くから別の声がした。
いつの間にいたのか、
細身の少年が、開いたギターケースの少し横に立っていた。
制服の上着をきちんと着ていて、
周囲の雑踏とあまり関係なさそうな顔をしている。
彼は私ではなく、
ギターを見ていた。
「さっきの二曲目」
「え?」
「サビ前のコード進行。
もう一回やって」
言われるがままに、
私は指を置いた。
弦を鳴らすと、
少年は数秒黙って聴き、
わずかに目を細める。
「……そこ、悪くない」
それが、
ユウの第一声だった。
「褒めてんの?」
ユイナが聞く。
「褒めてる」
「分かりづら」
「分かる人には分かる」
「初対面の子に求めるな」
ユイナが呆れ、
トウマが声を出して笑う。
私はまだ状況に追いついていなかった。
ついさっきまで、
誰にも立ち止まってもらえずに帰りそうになっていたのに。
今は、
知らない三人が目の前にいて、
私の声や曲の話をしている。
トウマが、
少し離れた場所からこちらへ手を振った。
「ルナ。
もう一曲やろうぜ」
「……やろうぜって」
「今度は三人で聴く」
「それだけ?」
「それだけでも、さっきよりだいぶ増えたじゃん」
そう言われて、
私は笑ってしまった。
三人。
さっきまでゼロだったのに。
私はギターを構え直す。
ユイナは当然のように手拍子の位置につき、
ユウは少し横に立って、私の指先を見ている。
トウマはその場で軽く身体を揺らし始めた。
春の渋谷は、
相変わらずうるさかった。
車の音。
信号の電子音。
知らない誰かの笑い声。
どこかの店から漏れる流行りの曲。
それでもその数分だけ、
私の歌の周りに、
小さな円ができていた。
誰も「仲間になろう」とは言わなかった。
誰も「また会おう」と約束したわけでもなかった。
でも帰り際、
ユイナが当然のように言った。
「明日もここ?」
私は答える前に、
トウマを見ていた。
彼は缶を片手に、
まるでそれが決まっていることみたいに笑う。
「来るなら、いるかも」
その一言で、
胸の奥が少しだけ跳ねた。
「……来る」
気づけば、そう答えていた。
ユウは何も言わなかったけれど、
帰る方向を確認するみたいに一度だけ駅の方を見た。
ユイナは満足そうに頷く。
「じゃ、また明日」
その言葉が、
不思議なくらい自然に聞こえた。
十三歳の春。
誰にも届かなかったはずの一曲は、
たった一日のうちに、
私を三人のいる場所まで連れていった。