
第18章|最後の夏の大三角
最後の出演者がステージを下りる頃、海はもう青くなかった。
夕日の残りが屋台の白いテントを薄い橙色に染めている。
私はキーボードの片側を持った。
反対側を持ったリアム先輩が、少しだけ腕を上げる。
私の方が軽くなる。
「持てます」
「知ってる」
今日のために丘へ運び上げたものを、同じ坂から下ろしていく。
朝にはまだ先にあった一日が、もう後ろに回っていた。
学校へ機材を戻した時には、校舎の窓が夜の色になっていた。
芽衣が手を振り、花音と岳は同じ速さで階段を下りていく。
私は音楽室の窓を閉め、最後に鍵を回した。
鍵の音が、誰もいなくなった廊下へ小さく響いた。
校門を出ると、白いカブが街灯の下に停まっていた。
リアム先輩はシートに座り、スマートフォンを見ている。
私に気づくと画面を消した。
「送るよ」
ヘルメットを差し出される。
「家、反対方向ですよね」
「寄り道するから」
「どこへ」
「暗いところ」
「危ない言い方しないでください」
「星が見えるところ」
ヘルメットを受け取る。
顎紐を留め、シートの後ろへ跨がった。
リアム先輩がエンジンをかける。
カブは海沿いの道を抜け、灯台へ続く細い坂を上った。
私は後ろの取っ手を握っている。
カーブの前には速度が落ちる。
先輩の肩が傾くより先に、道が曲がる方向も分かる。
低い防波堤の前でカブが止まった。
エンジンが消えると、波の音が急に近くなる。
灯台の光が、遠くの水面を一定の間隔で横切る。
雲のない空へ、リアム先輩が指を向けた。
「あれがベガ」
一つだけ、白く強い星がある。
「その上がデネブ」
少し離れた光へ、指が動く。
「右がアルタイル」
三つ目を見つけるまで、少し時間がかかった。
「あれでSummer Triangle」
離れた三つの星が、夜空に大きな形を作る。
そこで、ようやく分かった。
「このために、ここへ連れてきたんですか」
「一回、ちゃんと見たかったから」
「先輩が?」
「曲を聴いてから、気になってた」
誰が作ったのかも、誰が最初に歌ったのかも分からない。
私たちが生まれる前に録音された曲。
その題と同じ形が、今も空に残っている。
「先輩、あれからも聴いてたんですか」
「聴いてるよ」
「一回だけじゃなくて?」
「何回か」
先輩の言う何回かが、本当に数回なのかは分からなかった。
「スタジオの向日葵」
「やっと気づいた?」
「曲に合わせたんですか」
「半分」
「残りは?」
リアム先輩は、最初に指した星を見た。
「汐音みたいだったから」
「私が、向日葵に?」
「うん。そこだけ、明るく見える」
海から風が上がり、髪を揺らした。
歌詞の中にあった向日葵が、知らないうちにスタジオへ置かれていた。
私が一人で聴いていた曲を、先輩も聴いている。
曲そのものは昔から何も変わっていないのに、もう前と同じには聞こえなかった。
リアム先輩は防波堤へ腰を下ろした。
私も隣へ座る。
肩は触れない。
けれど、一人分の隙間もなかった。
「来年も、今日のイベントありますよね」
「あるんじゃない」
「Q-RANも出ると思います」
「うん」
「先輩は?」
波が防波堤の下へ当たる。
リアム先輩の視線が、二つ目の星から三つ目へ移った。
「来年の夏は東京」
私は空を見たまま、靴の先を揃えた。
「そうでした」
来年の春には、リアム先輩は東京へ行く。
知っていたはずなのに、来年の夏を思い浮かべると、急にそのことが近くなった。
「……夏休みは、帰ってきますよね」
「予定が合えば帰ってきて、見に来るよ」
「出ないんですか?」
「出てほしい?」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、ノエルと渚に相談してみるよ」
少しだけ笑って言う。
「……お願いします」
言ってから、何をお願いしているんだろうと思った。
来年も帰ってくる。
その一言を、思ったより長く胸の中に置いた。
灯台の光が一度、海を横切る。
「東京、楽しみですか」
リアム先輩は、すぐには答えなかった。
「まだ、自分の場所じゃない」
「それでも行くんですね」
「行くよ」
返事には迷いがない。
「行って、自分の場所にする」
三つ目の星は、ほかの二つより低い場所に見えた。
実際にどれが近くて、どれが遠いのかは分からない。
「汐音は?」
「何がですか」
「卒業したら」
「まだ二年です」
「すぐだよ」
「先輩には、すぐなんでしょうね」
「都会に戻ると思ってた」
「前は」
「今は?」
足元の小石を一つ拾い、指で回す。
丸い面と欠けた面が交互に触れた。
「分かりません」
小石を防波堤の向こうへ落とす。
海には届かず、下の岩へ当たって小さな音を立てた。
「先輩は、どっちがいいんですか」
リアム先輩は私を見た。
「言わない」
「どうして」
「俺が言ったら、汐音の答えじゃなくなるかもしれないから」
「決めたら教えて」
「はい」
「その時は、ちゃんと聞くから」
何を、とは聞かなかった。
灯台の光が戻り、先輩の横顔を一度だけ白くした。
「星は来年も見えます」
「見えるよ」
「先輩はここにいないのに」
「空まで変わるわけじゃない」
「それで平気な人は、あの曲を何度も聴きません」
リアム先輩が声を出さずに笑った。
否定はしなかった。
防波堤の上で、私たちの間に置かれた手が少し動く。
指先が触れるほどではない。
離れていると言うには、近すぎる。
三つの星を、最初からもう一度たどる。
結ぶ線は、どこにもない。
それでも今夜は、同じ形に見えた。
帰りのカブは、来た時と同じ道を下った。
私は後ろの取っ手を握っていた。
街灯の白い光が、先輩の背中を照らしては消す。
来年の夏も、丘にはステージが立つ。
海も、三つの星も、たぶん同じ場所にある。
白いカブが長いカーブを抜けた。
道がまっすぐになる。
私は取っ手から手を離した。
両腕をリアム先輩の腰へ回す。
黒いパーカーに額をつけた。
先輩の身体が、ほんの少しだけ固くなった。
それだけだった。
振り向かない。
何も聞かない。
エンジンの音は変わらない。
カブの速度も変わらない。
私も何も言わなかった。
街灯が一つ、先輩の背中を照らして、また消えた。
私は家へ着くまで、腕をほどかなかった。