
第19章|去年の続き
夏の島ステージの一週間後、祖母が箪笥の奥から浴衣を出した。
紺地に白い波の模様。
鏡の前で肩へ当てる。
「これ、変じゃない?」
祖母は帯を持ったまま、鏡越しに私を見る。
「さっきから三回目」
「三回も聞いた?」
「聞いた」
母が横で笑った。
「誰と行くの?」
「友達」
「男の子?」
帯を受け取る。
祖母と母が顔を見合わせたのが、鏡の端に映った。
去年は芽衣と花音と三人だった。
今年は南風ストアの前で、リアム先輩が待っている。
髪を一度結び、ほどく。
帯を締め直す。
玄関を出た時には、約束の時間を十分過ぎていた。
提灯の明かりが、神社へ続く道に並んでいる。
南風ストアの前には、もうリアム先輩がいた。
黒いTシャツに、薄い色のパンツ。
白いカブはない。
私に気づいて顔を上げる。
そのまま、少しだけ止まった。
「遅れました」
「うん」
リアム先輩の視線が、もう一度浴衣へ落ちる。
今日は、私の方が先に口を開いた。
「先輩、心拍数上がってますよ?」
リアム先輩が私を見る。
「聴こえた?」
「そういう顔でした」
一拍置いて、先輩が笑った。
「浴衣、似合ってる」
「ありがとうございます」
「綺麗だよ」
今度は、私が止まった。
何でもない顔をしようとした。
胸の奥だけが、言うことを聞かなかった。
リアム先輩の口元が、ほんの少し緩む。
「……何ですか」
「別に」
見透かされた気がして、私は先に歩き出した。
「今年は東京じゃないんですね」
「うん」
「スタジオは?」
「入れてない」
「どうしてですか」
「今日、祭りだから」
去年、同じ祭りへ誘った時は、東京にいると言われた。
今日は、私の少し後ろを靴音がついてくる。
それ以上は聞かなかった。
境内へ入ると、焼きそばの匂いと、かき氷の旗と、射的の乾いた音が一度に近くなった。
提灯の赤が、人の肩や髪を通るたび揺れる。
焼きとうもろこしの列に、花音と岳がいた。
花音は淡い黄色の浴衣。
岳は普段より少しだけきれいなシャツを着ている。
「汐音、気合い入ってる」
花音が言った。
「花音もでしょ」
「私は毎年これ」
岳がリアム先輩へ頭を下げる。
「こんばんは」
「こんばんは」
花音の目が、私からリアム先輩へ移った。
「二人で来たの?」
口を開くより先に、隣から返事が来る。
「うん」
花音の眉が上がった。
私はとうもろこしの値札を読んだ。
列が進む。
岳は受け取ったとうもろこしを二本とも片手へ持ち替え、空いた手を花音へ出した。
花音はそちらを見もしない。
指だけ伸ばし、その手を取る。
「じゃあ、またあとでね」
花音が手を振る。
「うん」
二人はそのまま人混みへ入っていった。
つないだ手が、人を避けるたび小さく揺れる。
私は帯の前で両手を重ねた。
「何?」
「何でもないです」
リアム先輩が私の見ていた方へ顔を向ける。
花音と岳はもう、提灯の下へ紛れていた。
赤いりんご飴が、屋台の明かりの下に並んでいる。
少し見ていたら、隣から声がした。
「食べる?」
「見てただけです」
「じゃあ、いらない?」
「……いらないとは言ってません」
リアム先輩が笑って、財布を出した。
一本受け取ると、そのまま私へ差し出す。
「はい」
「ありがとうございます。先輩は?」
「俺はいい」
「一人で食べろってことですか」
「食べたかったんだろ」
飴の薄そうなところを探してかじる。
ぱり、と小さな音がして、そのあとにりんごの酸味が来た。
「おいしい?」
「はい」
「ならよかった」
りんご飴を持ったまま、提灯の下を歩く。
金魚すくいの水面が赤く揺れ、輪投げの輪が地面を跳ねる。
何をしていても、隣に同じ速さの靴音があるだけで、去年とは違って見えた。
ステージでは、島の社会人バンドが演奏を始めていた。
古いベンチが一つ空いている。
二人で座る。
肩の間には、夜の空気が少し残った。
リアム先輩は足先で拍を取っている。
しばらくステージを見ていた先輩が、ふいに口を開いた。
「一昨年、Aosagiで俺らも出たんだ」
「そうなんですか」
「うん」
少し間が空く。
「珍しいですね。先輩が自分の話するの」
「そう?」
「そうですよ」
リアム先輩はステージへ目を戻した。
「でも、あの日は忘れられない日だった」
「私も見たかったな」
「見せたかった」
ステージの上で、次の曲のカウントが始まった。
曲が終わる。
拍手の中で立ち上がると、後ろから声がした。
「リアムくん?」
振り返ると、同じ年くらいの女の子が二人いた。
一人はAosagiのTシャツを着ている。
「やっぱりそうだ。写真いいですか?」
「いいよ」
リアム先輩はその場から動かなかった。
一人が隣へ入り、もう一人がスマートフォンを構える。
シャッターが鳴ると、二人は場所を入れ替えた。
リアム先輩は、ただカメラの方を向くだけだった。
それで終わると思った。
近くにいた中学生が気づく。
その声で、また誰かが振り返る。
「大会見ました」
「東京でもライブするんですか」
「次の曲いつ出ますか」
リアム先輩は短く答え、写真を頼まれるたび人の間へ立った。
最初は、すぐ隣にいた。
一人が写真に入り、私は半歩下がる。
シャッターが鳴る前に、また別の誰かが声を掛けた。
気づけば、私とリアム先輩の間を何人もの人が行き来している。
声を掛ければ届く。
でも、もう隣ではなかった。
去年、丘の客席からAosagiを見た時と、少しだけ似ていた。
リアム先輩の横顔が、人の肩越しに見える。
私はそこから離れた。
花音と岳を探しながら人混みを抜ける。
二人の姿は見つからなかった。
去年、芽衣と花音と写真を撮った場所まで来ると、低い石垣が空いていた。
腰を下ろす。
さっきまで近かった祭りの音が、人の波を一枚挟んだだけで遠くなる。
帯の端を指で整えながら、通り過ぎる人を何となく目で追った。
一人。
二人。
三人目の向こうに、明るい茶色の髪が見えた。
人の流れに逆らうように、リアム先輩がこっちへ歩いてくる。
私を見つけ、そのまま真っすぐ来た。
「いた」
「写真、終わったんですか」
「途中」
「途中?」
「汐音がいなくなったから」
「私は関係ないでしょ」
先輩の眉が少し動いた。
「一緒に来たのに?」
向こうで、またリアム先輩を呼ぶ声がする。
「待ってればよかったですか」
「待ってなくていい」
「じゃあ、どうすれば」
「言って」
「何を」
「どこ行くか」
本当に、それだけの話みたいに言う。
「先輩、みんなに囲まれてたから」
「それと汐音は別だろ」
リアム先輩が手を出した。
意味が分からず見ていると、そのまま私の手を取る。
指が重なった。
花音と岳みたいに、差し出した手を受け取ったわけではない。
「行くよ」
「どこへ」
「さっきの続き」
引かれるまま、人混みへ戻る。
誰かに声を掛けられれば立ち止まる。
写真を頼まれれば、リアム先輩は応じる。
その間も、つないだ手だけは人の間へ消えなかった。
何人かの視線が落ちてくる。
誰なのかと聞く人はいない。
リアム先輩も説明しない。
人の流れが少なくなったところで、手元を見る。
「もう、離しても大丈夫ですよ」
「知ってる」
「じゃあ、どうして」
返事はない。
先輩は前を向いたまま歩く。
私も、それ以上は聞かなかった。
最後のライブまで少し時間があった。
射的の前でリアム先輩が足を止める。
「やります?」
「やる」
三発とも、景品の横をきれいに抜けた。
「先輩、下手ですね」
「思ったより難しい」
「全国優勝した人とは思えません」
「関係ないだろ」
もう一回やろうと財布を出したので、袖を引いた。
「やめときましょう。たぶん向いてないです」
「汐音、結構言うね」
笑いながら、隣の屋台でラムネを二本買う。
一本を渡すと、先輩が受け取った。
「これは外しませんよ」
「さっきのまだ言ってる?」
ビー玉が瓶の中で鳴った。
花音と岳にも、もう一度会った。
花音の視線が私たちの手へ落ちる。
口が開きかけたので、先に睨む。
花音は声を出さずに笑った。
境内を出る前、提灯の下で足を止める。
「写真、撮ります?」
「撮るの?」
「せっかくだから」
スマートフォンを取り出し、カメラを前向きにする。
画面へ二人を入れると、思ったより距離があった。
「先輩、もう少しこっち」
「こう?」
肩が触れる。
画面の中で、リアム先輩はステージの上より少し困った顔をしている。
「笑ってください」
「笑ってる」
「全然そう見えませんけど」
私が笑った瞬間に、シャッターを切った。
撮れた写真を開く。
提灯の赤。
紺の浴衣。
黒いTシャツ。
触れた肩。
去年の写真には、芽衣と花音と私がいた。
今年は、画面いっぱいに二人しかいない。
「送って」
「欲しい?」
わざと聞くと、リアム先輩は少しだけ眉を寄せた。
「欲しい」
思わず笑う。
「待ち受けにしてもいいですよ?」
「するかも」
「そこは否定してくださいよ」
写真を送る。
スマートフォンをしまっても、手はつながったままだった。
私も、そのことには触れなかった。