
第17章|夏の島ステージ
島の夏イベント当日の朝、湊からメッセージが来た。
〈ごめん、熱出た
たぶん無理〉
通知が立て続けに鳴る。
〈ベースを上の音域まで持ち上げる。湊のギターが抜けるところ、私が埋める〉
花音。
〈間奏を短くする。ギターが二本必要なところは、フィルとブレイクに変える〉
岳。
〈一曲目と三曲目だけにする? 二曲目は外す〉
芽衣。
私は入力欄に打ち込んだ。
〈二曲目はキーボードを外して、私が湊のパートを弾く〉
送信した途端、空く場所が見えた。
花音が上へ行けば、低い音が痩せる。
岳が埋めれば、曲の形が変わる。
二曲目を外せば、今日のために作ったツインギターの曲が消える。
私が湊の場所へ移れば、今度は私の音がなくなる。
四人でもステージには立てる。
五人で作った音のままでは立てない。
今年、Q-RANは初めて海を見下ろす丘のステージへ出る。
去年、客席からAosagiを見上げた場所。
ステージ裏へ集まると、楽器置き場に湊のギターケースだけがない。
花音がその空白を見る。
岳も見る。
芽衣の視線が私へ来て、すぐに外れた。
誰も、最初の一言を出せない。
花音が小さく息を吸う。
「……リアム先輩なら、弾けるんじゃない?」
芽衣はすぐに答えなかった。
「弾けるとは思う」
少し置いて続ける。
「でも、私たちの音じゃなくなるかも」
六月のSECOND LINEが浮かぶ。
悠斗先輩も真琴先輩も岳も、強く演奏していた。
それでも最後には、曲全体がリアム先輩の方を向いた。
「四人で入っても、先輩の音に引っ張られると思う」
誰も否定しない。
岳がスティックを握り直した。
「それでも出たい」
花音もうなずく。
三人の視線が私へ集まる。
リアム先輩は、今日は見に来ると言っていた。
島にはいる。
でも、頼もうとしていることは無茶だった。
三曲とも、先輩は一度も弾いたことがない。
私たちのオリジナル曲だ。
譜面を渡して終わるような曲でもない。
合わせる時間も、ほとんど残っていない。
プロなら弾ける、という話ではなかった。
それでも、誰も「無理だ」とは言わなかった。
花音も、岳も、芽衣も、たぶん私と同じことを考えている。
リアム先輩なら。
理由はなかった。
できると分かる根拠もない。
それでも、もしかしたら弾けるんじゃないかと思ってしまう。
スマートフォンを出し、連絡先を開く。
名前の上で止まっていた指を動かす。
呼び出し音が二回鳴る。
『もしもし』
向こうで低い音が長く伸びている。
「今、どこですか」
『スタジオ』
「湊が熱を出しました。今日、出られません」
『そっか』
一度、息を吸う。
「今日だけ、湊の代わりにギターを弾いてもらえませんか」
『いいよ』
聞き返す言葉が、すぐには出なかった。
「……先輩、曲を知らないですよね」
『出たいんだろ』
「はい」
『じゃあ行く』
「でも、合わせる時間も――」
『今から行く』
白いカブが坂を上がってきたのは、出番の二十分前。
リアム先輩は黒いレスポールのケースを背負い、テントの横でカブを止めた。
「曲、見せます」
湊から送られてきた練習動画を開こうとする。
「知ってるよ」
指が止まる。
「三曲とも?」
「うん」
「湊のパートも?」
「だいたい」
「どうして」
リアム先輩はレスポールのケースを下ろした。
「見てたから」
窓際の椅子が浮かぶ。
ベースを膝へ置いた横顔。
パソコンの画面へ落ちていた視線。
「先輩、いつも別のことしてたじゃないですか」
「してたよ」
「じゃあ、いつ見てたんですか」
先輩は少しだけ考える。
「汐音が弾いてる時」
何も言えなくなった。
私はいつも、窓際の先輩を目で追っていた。
先輩は気づいていないと思っていた。
けれど、見ていたのは私だけではなかった。
「一回、頭だけ合わせますか」
岳が聞く。
リアム先輩はチューナーを外した。
「本番で合わせる」
花音が私を見る。
芽衣がマイクを握り直す。
三曲を知っている。
でも、どこまで。
前のバンドの最後の音が消え、司会者がQ-RANの名前を呼ぶ。
私たちはステージへ出る。
祖母が日傘を差し、去年と同じ辺りで手を振っている。
最後にリアム先輩が、黒いレスポールを持って現れた。
客席がざわつく。
出演表にないAosagiの名前が、あちこちから聞こえる。
先輩は、Aosagiのときのように前へ出ない。
湊の立ち位置に収まり、客席へ手も上げない。
足元のペダルを一度踏む。
岳が数える。
一、二、三、四。
リアム先輩のギターが入った瞬間、芽衣の目が少し開いた。
湊の音だった。
レスポールは、湊のストラトより太く鳴る。
弾く手も、立ち方も違う。
それでも、芽衣が息を吸う直前に音が短くなる。
花音が前へ出る場所では、音量が一段落ちる。
岳がフィルを入れる前には、次のコードを急がない。
湊が一年かけて見つけた間が、別の指から返ってくる。
難しいコードにも引っかからない。
新しい音は足さない。
間奏を長くしない。
私たちが走れば、同じ速さで待つ。
危なくなった時だけ、次の一拍が見える音を置く。
客席はリアム先輩を見ている。
私たちはQ-RANの曲を聞いていた。
一曲目が終わる。
拍手の中で、先輩は一歩下がる。
芽衣が次の曲を紹介した。
客席へ、声がまっすぐ届く。
小さな身体なのに、ステージの中央だけが明るく見える。
前列から、芽衣の名前を呼ぶ声が上がった。
本人は一瞬驚き、それから笑う。
その笑顔へ、さらに視線が集まる。
私はキーボードを離れ、Jazzmasterを肩へ掛けた。
二曲目。
湊と私がツインギターになる曲。
湊が上を弾けば、私は下へ行く。
私が長く伸ばせば、湊が短く切る。
ようやく二人の場所が決まった曲。
リアム先輩は、その場所まで知っている。
私が低いコードを鳴らす。
隣から高い旋律が重なる。
湊と同じ音。
湊と同じ長さ。
輪郭だけが、恐ろしいほど正確だ。
間奏へ入る。
四小節、私が弾く。
そのあと、湊が短いフレーズを返す。
最初の一回、リアム先輩は湊の形をそのまま返した。
二回目。
私が同じ形を少し変えて弾く。
先輩が顔を上げ、私を見る。
返ってきたのは、湊にはない音。
二つ上がり、最後だけ少し戻る。
スタジオで二人きりの時、私が迷いながら弾くと、先輩が何度か返した短い形。
派手ではない。
その音だけが、私の方を向いていた。
胸の奥が一度強く鳴る。
次の小節で、同じ三つの音を少し高い場所から返す。
リアム先輩が笑った。
ほんの一瞬。
次のコードでは、もう湊の弾き方へ戻っている。
最後は、六月のミニライブで初めて人前に出した曲。
私が作り、四人へ渡し、五人で変えた。
今日は湊がいない。
それでも、最初の一曲で分かった。
リアム先輩は、空いた場所へ自分の正解を足さない。
少し速くなったところも、危ういところも、Q-RANが選んだ流れについてくる。
必要な時だけ湊の旋律が返る。
それ以上は何も足さない。
最後の音が丘の上へ広がる。
海から風が吹き、一瞬遅れて拍手が返る。
芽衣が泣きそうな顔で笑った。
その表情へ、前列のスマートフォンがいくつも向く。
舞台袖へ下りると、湊から動画通話が来た。
画面の向こうで、布団にくるまっている。
「みんな、ごめん。急に休んで」
「それはいいから寝て」
花音が言う。
湊は画面の端のリアム先輩へ頭を下げた。
「急だったのに、ありがとうございました」
「別に」
「全部見ました。俺がいつも引っかかるところ、普通に弾いてましたよね」
「あそこだけ、コピーできなかった」
先輩は冗談めかして笑った。
湊も少し悔しそうに笑う。
私だけが知っている。
先輩が湊ではなくなった瞬間は、ほかにもあった。
「次は絶対、自分で弾きます」
「うん。次は聴かせて」
湊が少し黙ってから、私を見る。
「汐音。ちゃんと、俺のパートだった?」
「湊だったよ」
湊の眉が少し下がる。
「ならよかった」
通話が終わる。
リアム先輩はレスポールをケースへ戻した。
「ありがとうございました」
「俺、湊の真似してただけだよ」
「先輩、大人しく弾けるんですね」
「俺のこと、何だと思ってるんだよ」
六月のSECOND LINEでは、三人がリアム先輩の音へ引っ張られた。
今日は逆だった。
先輩は最後まで、湊の場所から出なかった。
最後の出演者を待つ間、花音がスマートフォンを私たちへ見せた。
ステージの短い動画が、島のイベント公式アカウントへもう上がっている。
リアム先輩の代打を驚くコメントが並ぶ。
それ以上に、芽衣が歌い終えて笑った数秒が共有され始めていた。
〈インナーカラーの子かわいい〉
〈Q-RANのボーカル誰?〉
〈島の高校生?〉
芽衣は画面を見て固まる。
「曲じゃなくて、私?」
「曲も聞かれてるよ」
花音が慰めるように言う。
「でも芽衣ちゃんって書かれてる」
「やめて」
閉じる印に触れた指は、そのまま動かない。
私は、さっきの演奏をもう一度再生した。
芽衣が画面の中央で笑い、客席の視線をさらう。
その後ろで、リアム先輩は一歩下がったまま湊のフレーズを鳴らしている。
再生が終わるまで、Q-RANの曲はQ-RANのまま鳴っていた。