
第16章|Summer Triangle
六月のミニライブが終わってからも、リアム先輩が学校にいる日は増えなかった。
東京でのライブ。
録音。
撮影。
夏休み中の移動。
卒業後の準備。
一つ予定が終わると、その先に別の予定がある。
SOUND ISLANDに二人でいても、先輩はスマートフォンを見る時間が長くなった。
私がJazzmasterで短いコードを鳴らしても、ベースは同じフレーズを繰り返している。
間違えてはいない。
私の音も聞いていない。
「先輩」
「うん」
「今、何を弾いてたか分かってる?」
指が止まる。
「同じフレーズ」
「何回?」
「三回くらい」
「分かってるんだ」
「考えなくても弾けるから」
それが余計に腹立たしかった。
体だけここに残しても、先輩は演奏できる。
私といる時間まで、考えなくても続くものだと思っているみたいだった。
放課後に一緒に帰る。
白いカブで丘へ行く。
寒ければスタジオへ来る。
同じピアノの鍵を持つ。
周囲から付き合っていると思われるほど近いのに、私たちの関係には名前がない。
先輩の腰へ腕を回してカブに乗ることはできる。
二人きりで何時間も過ごすこともできる。
でも、隣に座った時にもう少し近づいていいのかは分からない。
手が触れそうになった時、そのままでいていいのかも分からない。
付き合っていれば、そんなことを考えなくて済むのだろうか。
そう思うこと自体が、今の関係を壊しそうで嫌だった。
先輩は三年生になった。
来年の春には島を出る。
窓際の椅子も、丘のベンチも、このスタジオも、今と同じようには使えなくなる。
私は終わりを知っているから、今ある時間を大事にしようとしていた。
リアム先輩は、終わりの先ばかりを見ているように見えた。
「これ、聴いて」
Jazzmasterをスタンドへ戻し、スマートフォンを取り出す。
「汐音の曲?」
「違います」
「Q-RANでやる曲?」
「それでもない」
「じゃあ何?」
「私が好きな曲」
YouTubeに表示された題を読む。
「Summer Triangle」
「知ってますか」
「知らない」
「私も、誰の曲か知らないです」
「好きなのに?」
「誰が作ったか知らないと、好きになっちゃ駄目なの?」
「そういう意味じゃないけど」
私たちが生まれる前から残っている音源だった。
歌っている人も、録音した場所も分からない。
それでも夏が近づくと、決まって再生したくなる。
再生ボタンを押す。
エコーの効いたギターが、短いロックのリフを繰り返す。
残響が広がり、その後ろでピアノが強い和音を置いた。
ドラムは真っすぐ進まず、裏拍で軽く跳ねる。
ベースは急がない。
少し後ろから曲を引っ張り、明るい音の中へ終わりの気配を残している。
歌が始まる前に、リアム先輩のスマートフォンが震えた。
先輩の目が、伏せた画面へ向かう。
私は再生を止めた。
ギターの残響が途中で切れる。
「何で止めるの」
「聴いてないから」
「聴いてたよ」
「また次の予定を見ようとした」
「通知が来ただけ」
「先輩はいつもそう」
声が思ったより強くなった。
「ここにいても、次のライブのことを考えてる。学校にいても東京のことを考えてる。私といても、卒業したあとのことばっかり」
「決めておかないと間に合わないこともあるから」
「私は、間に合わなくなる前の話をしてる」
リアム先輩が黙った。
言ってしまってから、心臓が速くなる。
島を出ないでほしいわけではない。
Aosagiをやめてほしいわけでもない。
先輩が未来へ進むことを、邪魔したいわけではなかった。
「先輩が卒業する日は決まってるでしょ」
「うん」
「だから、それまでは今のままでいたいと思ってる」
「今のまま?」
「こうやって一緒にいること」
それだけではなかった。
もっと近くにいたいと思うこともある。
先輩の方から触れてくれたらいいのにと思うこともある。
でも、それを口にしたら、今のままではいられない。
関係の名前までは言えなかった。
答えを聞けば、残っている時間まで変わりそうだった。
「先輩は、私がずっとここにいると思ってる」
リアム先輩の目が、ようやく私へ向く。
「思ってないよ」
「思ってる」
「何で」
「いなくならないから、今見なくてもいいと思ってる」
返事はなかった。
私が窓際へ行けば話す。
丘へ誘えば連れていく。
スタジオへ来れば扉を開ける。
拒まれたことはない。
でも先輩から見れば、私はいつも同じ場所にいる。
未来の予定を考えている間も待っている後輩。
今までと同じ距離で、卒業までいる相手。
私は、その時間が減っていることを毎日知っているのに。
リアム先輩がスマートフォンを手に取った。
また通知を見るのかと思った。
先輩は電源を切り、バッグの中へ入れた。
ファスナーを最後まで閉じる。
「最初から聴かせて」
「連絡は?」
「あとで返す」
もう一度、再生ボタンを押した。
エコーの効いたリフが鳴る。
今度は、リアム先輩の視線は動かなかった。
裏拍で跳ねるドラム。
後ろへ引くベース。
夜空を広げるギターの残響。
その中で、ピアノはロックの強さを失わず、何度も景色を塗り替える。
歌は明るい。
夏の終わりまでの時間が短いと知っているから、余計に明るく聞こえる。
私は何度も聴いた曲なのに、今日は音が違っていた。
隣にリアム先輩がいる。
本当に聞いている。
それだけで、知っているはずの曲が新しくなる。
途中で先輩が小さく言った。
「これ、ずっと一人で聴いてたの?」
「音楽は一人でも聴くでしょ」
「そうじゃなくて」
少し迷い、それ以上は聞かなかった。
曲は夏の終わりへ進んでいく。
先輩は未来を見ていた。
私は今だけを見ていた。
その間へ、私たちが生まれる前の曲が流れている。
過去の音が、二人を別々の方向へ連れていくのではなく、同じ場所へ戻していく。
最後の音が消えた。
リアム先輩は、すぐにバッグへ手を伸ばさなかった。
「いい曲だね」
「それだけ?」
「汐音が好きなの、分かる気がする」
「どこが?」
「明るいのに、終わる時間が最初から入ってるところ」
胸の奥を見つけられたような気がした。
「そんな曲でした?」
「俺には、そう聞こえた」
壁際の時計を見る。
いつもなら次の予定を確認する。
今日は見ただけで、ソファへ座り直した。
私との間には、一人分もないくらいの隙間が残った。
近づこうと思えば、すぐ近づける。
私は動かなかった。
リアム先輩も動かなかった。
「もう一回聴く?」
今度は先輩から聞いた。
「通知、まだ来てますよ」
「うん」
「返さなくていいんですか」
リアム先輩が私を見る。
「今は、こっち」
それ以上の言葉はなかった。
付き合おうとも、好きだとも言わない。
春になれば島を出ることも変わらない。
それでも、先輩はバッグを開かなかった。
私は曲を最初へ戻した。
過去から残ったギターが鳴る。
先輩は未来を見ない。
二人の間の隙間も、そのままだった。
曲が終わったあとも、先輩はすぐには帰らなかった。
その日の帰る時間まで、二人とも同じ今にいた。