
第28章|行き先の名前
条件が良い話ほど、少しだけ怖い。
手を伸ばせば届きそうな未来は、だいたい一番きれいに見える。
だからこそ、どこへ行くかは自分で決めないといけない。
打ち上げのはずなのに、誰もちゃんと気が抜けていない。
グラスの音もある。
笑い声もある。
料理も運ばれてくる。
でも、場の空気はどこか落ち着かない。
みんな、ただ飲みに来た顔をしていなかった。
今日ここに呼ばれたのは、打ち上げ半分、打ち合わせ半分。
たぶん全員、そう思っている。
ユイナはさっきからストローを噛んだまま、まだ一口目を飲んでいない。
絢音はノンアルのグラスを手元で回しながら、何かを待っている顔をしている。
カイはスマホを見ているふりで、たぶん一言も聞き漏らさないつもりだ。
Aosagiのマネージャーもいた。
ノエルは最初から少し楽しそうで、渚は静かで、リアムだけが妙に機嫌のいい顔をしていた。
機嫌のいいリアムというのは、たいてい何かを先に知っている人の顔だ。
ルナは向かいに座るその顔を、何度か見てしまう。
ときどき妙に近い距離でこちらを見てくる。
その視線の意味までは分からないけれど、何かを量っているのではなく、何かを確かめている目だった。
「じゃ」
とリアムが言う。
「乾杯の前に、大事な話だけ先にしようか」
「やっぱり打ち上げじゃないじゃん」
とユイナが言う。
「打ち上げだよ」
「絶対ちがう」
「打ち上げ兼説明会兼相談会」
「もう会議なんだよそれ」
少しだけ笑いが起きた。
でも、全員の視線はリアムに集まったままだった。
「順番にいくね」
リアムは指を一本立てる。
「一個目。二月の三連休にAosagiとSlowRushでツーマンをしないか?」
ルナの背筋が、少しだけ伸びる。
「会場、もう押さえてある」
「早っ」
ユイナが言う。
「で、どこ?」
カイが聞く。
「Zephyr Tokyo」
リアムが会場名を口にした瞬間、テーブルの空気が静かに止まった。
ルナは一瞬、聞き間違えたかと思った。
その会場は、誰でも知っている箱だった。
大きい。
大きすぎる。
今の自分たちが“次にやるかも”と想像するには、まだちょっと早い場所。
「……そこ?」
ルナが最初に言った。
ユイナはストローを噛むのをやめた。
絢音が目を丸くする。
カイがスマホから顔を上げる。
「ちょっと待って」
ユイナが言う。
「そこって、キャパ……」
「二千」
リアムがあっさり答える。
「二千!?」
今度はユイナがほとんど叫んだ。
ノエルが笑う。
渚は静かなまま、グラスの位置だけ少し直した。
「取れたの?」
絢音が珍しく先に聞いた。
「あの規模の箱って、そんな急に取れるんですか」
「タイミングが良かった」
リアムは軽く言った。
「その言い方、いちばん怪しい」
ユイナが言う。
ルナも同じことを思った。
けれど、先に口を開いたのはユウだった。
「……いや」
ユウが静かに言う。
「普通に考えて、今からじゃ無理です」
その声で、場の空気が少し締まる。
「特に三連休の並びなら、あの箱は一年以上前から押さえてないと取れないはずです」
リアムの代わりに、マネージャーが答える。
「正確には、今から押さえたわけじゃない」
と言った。
「Aosagi側で前から動いていた枠です。三連休の企画はもともとあった」
ユウが小さく息を吐く。
「ですよね」
「察しがいいね」
とリアムが笑う。
それで十分だった。
偶然空いていたわけではない。最初から誰かのために用意されていた未来の一部を、こちらにまで広げたのだ。
「それで」
リアムが二本目の指を立てる。
「二個目」
「初日がAosagiとSlowRushのツーマン」
とリアムが続ける。
「最終日はAosagiのワンマンファイナル。で――」
そこで少しだけ間を置く。
「自信があるなら、中日、SlowRushのワンマンで使っていいよ」
リアムは本当に何でもないことみたいに言った。
ルナは言葉の意味を頭の中で一回並べ直す。
SlowRush。
単独。
Zephyr Tokyo。
二千。
「……単独?」
とやっと言う。
「うん、単独」
リアムは頷く。
「流れとしては綺麗だと思う」
「綺麗で済む話?」
とユイナが言う。
「規模、知ってる?」
「知ってるよ」
とリアムは笑う。
「だから“自信があるなら”って言ってる」
全員の視線が自然にユウへ向く。
ユウはすぐには答えなかった。
その沈黙は迷いというより計算だった。
客数、宣伝、箱代、リスク。熱より先に数字を見なければいけない人の沈黙。
「……今のままだと」
ユウがようやく口を開く。
「単独で実際に集められるのは、多く見ても八百くらいだと思います」
その数字は、場の空気を一気に現実に引き戻した。
二千に対して八百。
悪い数字じゃない。
むしろ、ここまで来たこと自体がすごい。
でも、会場の半分にも届かない。
「安く貸してもらえるとしても」
ユウは続ける。
「それだとたぶん大赤字です」
誰も茶化さない。
「二千の会場って、空席が空席以上に見えるんで」
ユウは続ける。
「埋まってないことそのものが演出になる。今の自分たちの現在地が、かなり分かりやすく出る」
それは謙遜じゃなかった。
現実だった。
マネージャーがそこへ静かに足す。
「逆に言えば、告知期間が三か月近く取れるのは大きいです。今週中に発表できれば、十分勝負になる」
「今週中」
とユイナが繰り返す。
「決断に優しくない世界だな」
「優しかったら、たぶん話にならない」
とカイがぼそっと言った。
リアムはグラスの縁を指でなぞりながら、軽い調子のまま言った。
「でもさ。チャンスの神様は待ってくれないよ?」
その一言が、妙に真ん中に入ってきた。
ルナの胸がどくんと鳴る。
待ってくれない。
それは本当にそうだと思う。
今の空気。
今の勢い。
今の関係。
今の音。
あとから同じ条件が揃うとは限らない。
むしろ、二度と揃わないかもしれない。
「もっと売れてからなら、二千なんて簡単かもしれない」
リアムが言う。
「でもその時には、今のSlowRushじゃない。今だから意味があることってあるよ」
「……」
「怖いまま決めるしかない時って、あるんだよ」
ユウは黙ったまま、テーブルの上に視線を落としていた。
ルナは隣で、その横顔を見る。
頭の中ではたぶん、数字と熱がぶつかっている。
赤字。
空席。
失敗した時の痛さ。
でも、それでもやる意味があるかもしれないという予感。
たぶん人は、そういう二つの間で決める。
「……やる?」
とルナは小さく言った。
誰に向けた言葉だったのか、自分でもよく分からない。
でもその一言で、ユウがほんの少しだけ笑う。
「たぶん」
とユウは言う。
「こういうのって、考えすぎると一生決められない」
「そうそう」
とリアムがすぐに言う。
「そこまで分かってるなら、あと必要なのは腹だけ」
「勢いじゃなくて?」
「勢いだと怒られそうだから言い換えた」
「最悪の配慮だな」
でも次の瞬間には、ユウはもう顔を上げていた。
「……やります」
その言葉が落ちた瞬間、場の空気が変わる。
半分は勢いだった。
でも、勢いだけで言える言葉でもなかった。
「いい返事」
とリアムが笑う。
「責任取ってくださいよ」
とユウが言う。
「俺はSlowRushならやれると思ってるよ!責任は取らないけど」
そこでようやく、ちゃんと笑いが起きた。
ユイナは両手で顔を覆ってから、指の隙間から言う。
「いや待って、ほんとに? 二千?」
「今さら?」
とカイ。
「今さらだよ!」
絢音はまだ少し呆然としていたけれど、やがて小さく笑った。
渚は静かにグラスを持ち上げる。
ノエルは最初からこうなる気がしていたみたいな顔で笑っている。
ルナだけが、少し遅れて実感した。
決まった。
まだ何も始まっていないのに、もう引き返せない場所まで来た気がする。
「最後。三個目」
とリアムがまた指を立てる。
「レーベルの話。うち、来る気ない?」
短い言い方だった。
でも、言っていることは重い。
Aosagiのいる場所。
規模の大きい宣伝、流通、スタッフ。
いま自分たちに足りないものが、かなりの割合で埋まる未来。
ルナは反射みたいにユウを見る。
ユウは、今度もすぐには答えなかった。
その沈黙は、さっきのワンマンの時とは少し違った。
もう答えはあるけれど、どう言うかを選んでいる沈黙だった。
「条件はいいと思う」
リアムが続ける。
「今の流れなら、そのまま大きくしていける。スタッフもつくし、物販も宣伝も制作も整理できる」
事実だった。
ユウ一人で抱えてきたものの多くが、今より軽くなるかもしれない。
そして話の順序がうまいなとユウは思った。
赤字のワンマンを覚悟した後に出してくる、交渉として最高にうまい。
レーベルの後ろ盾があれば赤字も集客も宣伝も話がまるで違う。
「……ありがたいです」
ユウが言った。
静かな声だった。
でも、その一言だけで、ルナには続きがなんとなく分かった。
「でも」
ユウは続ける。
「今は、行きません」
少し驚いた表情の渚とノエル。
リアムは驚かなかった。
「理由、聞いていい?」
「さっきワンマンやるって言ったばっかりなんで」
ユウは前を見たまま言う。
「まずは今の五人で、今のままどこまで行けるかをやりたいです」
それだけでも十分だった。
でもユウは、さらに続ける。
「それに、先に返したい場所がある」
「Rustline?」
とリアムが言う。
ユウは頷く。
「何者でもなかった俺たちを、最初に面白がってくれた場所なんで」
その言い方は静かだった。
けれど、ルナの胸には強く残る。
オンボロのハイエース。
雑な段取り。
胡散臭いサングラスの社長。
格好いいとは言いづらい。洗練ともほど遠い。
でも、自分たちを最初に信じたのは、たしかにあの人だった。
リアムはそこで、やっと少しだけ笑った。
「いい選び方だね」
ユイナが目を細める。
「褒めてる?」
リアムは肩をすくめた。
「かなり」
無理に引き止めもしないし、馬鹿にもしない。
その短さの中に、納得と少しの残念さと、でも嫌じゃない気持ちが全部入っていた。
「いいと思う」
と渚が言う。
「選ぶ理由がちゃんとしてるなら、それでいい」
「でもツーマンは絶対やろうね」
とノエルが笑う。
「そこまで断られたら普通にへこむ」
「そこはやる」
とユイナが即答する。
「ていうか、もう決まっただろ」
とカイが言う。
また少しだけ笑いが起きる。
ホテルへ戻る道で、ユウはいつもより少しだけ口数が少なかった。
「大丈夫?」
とルナが聞く。
「うん」
「いや、うんの声してないけど」
「してるよ」
少し歩いてから、ユウはぽつりと言った。
「……めちゃくちゃ良い話だったな」
「今さら?」
「今さらだよ。規模、全然違うし」
「さっき超かっこよく断ってたのに」
「内心では普通に“もったいな……”って思ってた」
「正直だなあ」
ユウは少しだけ肩をすくめた。
「だって、あんな条件そうそうないだろ」
「うん」
「もしこの先Rustline行って、社長と灰皿投げ合って喧嘩別れとかしたら、あの時Aosagi側行っとけばよかったって思うかもしれないし」
「最悪の想像するのやめて」
ルナが笑う。
二人で少しだけ笑った。
笑いながら、でもルナには分かっていた。
ユウは惜しいとは思っている。
条件の良さも、規模の差も、現実的な意味も、全部分かっている。
それでも、その決断に迷いは一ミリもない。
「……でも」
ユウが少しだけ真面目な声で言う。
「たぶん俺、あの人のとこでやりたいんだよ」
それだけで十分だった。
ホテルのエレベーターを待ちながら、ルナはスマホのメモを開く。
Together We Rise
その下に、短く書き足す。
ここまで来れたのは君がいたから
今日のことをそのまま言うなら、それだった。
旅を重ねて出会った景色。
笑った日も、涙の日も。
途中で拾ってくれた人。
大きな場所から差し出された、まぶしすぎる未来。
それを見たうえで、それでも選んだ行き先。
全部ひっくるめて、今のSlowRushなんだと思う。
まだ歌詞になるかは分からない。
でも、その一行は今日の自分たちにちゃんと似ていた。