
プロローグ|その話をする夜
沖縄フェス帰りの渚を迎えた照人のスタジオで、何気ない夜が始まる。
オリオンビールとゴーヤチャンプルーを囲むうち、渚はふとルナに問いかけた。
「バンドって、最初どうやって始まったの?」
その一言が、十三歳の春へ続く扉を開く。
照人のスタジオに着いたとき、
テーブルの上だけ、やけに沖縄だった。
ゴーヤチャンプルー。
ラフテーらしき皿。
ちんすこうの箱。
そして、オリオンビール。
「……なにこれ」
私が靴を脱ぎながら言うと、
ソファに座っていた渚が、得意げに缶を持ち上げた。
「沖縄」
「見れば分かる」
「今日、沖縄のフェスだったから」
「いや、普通さ。沖縄帰りの人に沖縄料理出す?」
私が照人を見ると、
ミキサー卓の前にいた彼は、何でもないことみたいに言った。
「日帰り弾丸だろ?」
渚が、ぱっとこちらを向く。
「そう!午後着いて、ライブして、ちんすこう買って、トンボ帰り!」
「やっぱり」
照人は見透かしたように笑った。
「朝、生放送出てたから。ちゃんと沖縄で何か食べる時間ないと思って」
「だからわざと?」
「せっかくなら、帰ってから沖縄にしてやろうかと」
「……そういうところ、ほんと抜け目なく優しいよね」
私は笑いながらテーブルの前に座った。
渚がちんすこうの箱を押してくる。
「お土産。塩味。空港で一番それっぽいやつ買った」
「選ぶ時間なかったんだね」
「なかった。というか空港着いた時点で、帰りたくなさすぎて現実見たくなかった」
「じゃあ、このオリオンビールも沖縄で?」
私が缶を指すと、
照人が即答した。
「近所のスーパーで買ってきた」
「夢がない」
「夢より冷えてる方が大事だろ」
「正論だけどさあ」
渚は不満そうに言いながら、
しっかりその缶を飲んでいた。
スタジオの空気はゆるかった。
仕事終わりの機材の熱がまだ少し残っていて、
壁際にはギターケースが二本。
テーブルの上には食べかけの皿と、湿気た夜の匂いを連れてきた紙袋。
私はオリオンビールのプルタブを開けた。
軽い音がして、泡が縁まで上がる。
「沖縄、どうだった?」
「海が青かった」
渚は即答した。
「語彙」
「いやほんとに。会場の裏からちょっと見えたんだけど、びっくりするくらい青かった。あと、空が広い。音が上に抜けてく感じした」
「フェスは?」
「最高。ただし滞在時間より移動時間の方が長い」
「売れっ子」
「忙しいだけ」
渚はそう言って笑い、
ゴーヤチャンプルーをつまんだ。
しばらくは、そんな話をしていた。
沖縄のこと。
今日のライブのこと。
空港で買ったちんすこうが思ったより重かったこと。
照人がなぜかゴーヤチャンプルーの店選びだけ妙に真剣だったこと。
話はどこにも向かわず、
だから気楽だった。
渚が二本目の缶に手を伸ばしたのは、
その少しあとだった。
「そういえばさ」
缶を開ける音に混じって、
彼女が何気なく言う。
「ルナって、バンド最初どうやって始めたの?」
私は飲みかけた缶を少しだけ止めた。
「SlowRush?」
「うん。今さらだけど、ちゃんと聞いたことないなって」
照人もこちらを見る。
「たしかに。ルナが十三歳から路上で歌ってたのは知ってるけど、バンド組んだきっかけまでは聞いてない」
「でしょ?」
渚が少し身を乗り出す。
「ユウとユイナって、ルナより年上じゃん。そもそもどこで会ったの?最初からバンドやるつもりだったの?」
「誰が誘ったんだろうな」
照人も続ける。
「ユイナ?それともルナから?」
「私、なんとなくユイナが押し切った気がする」
「分かる」
「何その共通認識」
私が言うと、二人が笑った。
でも、答えるまでに少しだけ時間がかかった。
テーブルの上のオリオンビールが、スタジオの照明を鈍く映している。
十三歳の春。
渋谷。
まだギターケースの方が大きく見えた頃。
あの街で、私は三人と出会った。
いや。
最初に出会ったのは、
三人じゃなかった。
「……始まり方だけなら、ちょっと変だったよ」
「聞きたい」
渚が言う。
「長くなるけど」
「今日は長い話の日でしょ」
照人が笑った。
私は缶をテーブルに置いた。
「じゃあ、話すね」
スタジオが、少しだけ静かになる。
その静けさの向こうから、
遠い春の渋谷が戻ってきた。
あの頃の私は、まだ十三歳だった。
誰にも届かない歌を抱えて、
スクランブル交差点の端で、
ひとり震えていた。