
第6章|ガラスのルール
土曜日、四人は初めて小さなリハーサルスタジオに入る。
ちゃんとしたドラム、ちゃんとしたベース、ちゃんとした音量。
ルナの曲は、初めて“バンドの音”になる。
その帰り道、トウマに連れられて歌った街の隙間で、ルナの中の透明なルールが音を立てる。
土曜日の昼、
私は小さなリハーサルスタジオの前に立っていた。
ビルの地下へ続く階段。
壁に貼られたバンドのフライヤー。
古い階段の隅に積もったほこり。
扉の向こうから漏れてくる、誰かの歪んだギター。
それだけで、
もう帰りたくなるくらい緊張した。
「顔、固いよ」
隣でユイナが笑う。
「固くない」
「固い。石像。渋谷駅前に置いたら待ち合わせ場所になる」
「ならない」
「“ギター少女前集合ね”って」
「やめて」
ユイナは楽しそうに笑い、
スティックケースを肩にかけ直した。
その後ろから、ユウがベースを背負って現れる。
いつもより少しだけ荷物が多い。
エフェクターらしき小さなケースまで持っていた。
「早い」
ユイナが言う。
「遅れる理由がない」
「こういうとき真面目だよね」
「こういうとき以外も真面目」
「自分で言うんだ」
ユウは何も返さず、
階段の下へ視線を向けた。
「トウマは?」
私が聞くと、
ユイナはスマホを見る。
「来るって。たぶん」
その言葉に、
私は少しだけ笑ってしまった。
たぶん。
最近、その言葉だけで、
誰のことか分かるようになっていた。
数分後、
階段の上から声がした。
「ごめん、遅れた!」
振り返ると、トウマが片手を上げて走ってくる。
キャップのツバが少し曲がっていて、
息は切れているのに顔だけはやけに明るい。
「遅い」
ユイナが言う。
「でも来た」
「それで全部許されると思ってるでしょ」
「ちょっと思ってる」
「最悪」
トウマは笑いながら、
私のギターケースを軽く指で叩いた。
「ルナ、緊張してる?」
「してない」
「早い」
「何が」
「否定が」
ユイナが吹き出した。
「うつってる」
「うつってない」
「うつってるよ、トウマに」
「嫌だ」
トウマが「ひどくない?」と言う。
それだけで、少しだけ肩の力が抜けた。
地下へ降りると、
受付の奥からアンプの匂いがした。
金属と木と、
少しだけ汗が混じった匂い。
店員さんが時間を確認して、
短く説明してくれる。
私は何度も頷いたけれど、
半分くらい頭に入ってこなかった。
スタジオの扉が開く。
中には、
本物のドラムセットがあった。
ユイナが一瞬だけ黙った。
いつもの彼女なら、
すぐに何か言うはずなのに。
シンバル。
スネア。
キック。
床に伸びるマイクケーブル。
壁の吸音材。
その全部を見たユイナの横顔が、
少しだけ知らない人みたいに見えた。
「……久しぶり」
彼女は誰に言うでもなく、小さく呟いた。
私は聞こえなかったふりをした。
たぶん、そうした方がいい気がした。
ユウは淡々とベースを取り出し、
アンプへケーブルを差す。
トウマはスタジオの隅に荷物を置き、
床の広さを確かめるみたいに軽く足を動かした。
「ここで踊る気?」
ユイナが聞く。
「場所あるし」
「邪魔しないでよ」
「邪魔にならない天才だから」
「自分で言うな」
私はギターを取り出した。
ストラップを肩にかける。
ピックを握る。
マイクの前に立って、音を出す。
じゃん、と鳴った音が、
壁にぶつかって返ってきた。
路上とは違う。
私の音が、
ちゃんと部屋の中に残る。
それだけで、
少し怖かった。
「ルナ」
ユウが言う。
「いつもの曲でいい?」
私は頷く。
ユイナがドラムに座った。
スティックを軽く回し、
ペダルを踏む。
どん、とキックが鳴った。
段ボール箱とは全然違う音だった。
当たり前なのに、
その当たり前に胸が跳ねる。
「じゃあ、いくよ」
ユイナが言った。
彼女の声が、
いつもより低く聞こえた。
かん、かん、かん、かん。
カウント。
私は最初のコードを鳴らした。
すぐに、
ユウのベースが入る。
その下から、
ユイナのドラムが来た。
キック。
スネア。
ハイハット。
私の曲が、
一気に大きくなった。
大きくなる、というのは、
音量だけの話ではなかった。
奥行きができる。
影ができる。
風が生まれる。
自分の手元だけで鳴っていたはずの曲が、
急に知らない景色へ走り出す。
私はその背中を追いかけるみたいに歌った。
最初は少し遅れた。
でも、ユイナのリズムが拾ってくれる。
ユウの低音が待ってくれる。
トウマの足が、目の端で拍を刻んでいる。
ひとりじゃない。
そう思った瞬間、
声が少しだけ太くなった。
サビに入る。
ユイナが強く叩く。
ユウのベースが前に出る。
トウマがくるりと身体を回す。
私は思わず笑いそうになり、
それをそのまま声に混ぜた。
終わりのコードを鳴らしたあと、
しばらく誰も喋らなかった。
アンプの小さなノイズだけが残っている。
「……」
ユイナがスティックを握ったまま、
ぽつりと言った。
「楽しい」
その一言が、
全部だった。
トウマが両手を上げる。
「はい、バンド決定!」
「早い」
私が言う。
「いや今ので決定でしょ」
「何も決まってない」
「決まった。俺の中では」
「トウマの中だけで決めないで」
ユウが小さく言う。
「でも、悪くなかった」
「それ最高評価でしょ」
ユイナが笑う。
「違う」
「今日はもう無理。最高って言ったことにする」
「言ってない」
私はギターを抱えたまま、
何も言えずにいた。
楽しかった。
怖いくらい、楽しかった。
たぶん私は、
今までずっと、
自分の曲を誰かに壊されるのが怖かった。
でも違った。
誰かの音が入ると、
曲は壊れるんじゃなくて、
知らない方向へ開いていく。
十三歳の私は、
そのことを初めて知った。
スタジオを出ると、
夕方の渋谷は少しだけ湿った匂いがした。
短い雨が降ったあとらしく、
アスファルトに薄く水の跡が残っている。
ビルの窓には、夕焼けとネオンが一緒に映っていた。
「やばかったね」
ユイナが言った。
「それ、さっきから十回くらい言ってる」
ユウが返す。
「十一回目も言う。やばかった」
「語彙」
「楽しい時の語彙は減るの」
トウマは前を歩きながら、
さっきのサビに合わせて軽くステップを踏んでいた。
「ルナ」
「何?」
「今の、外でやろう」
「外?」
「うん。すぐそこ」
トウマは当然みたいに言って、
駅の方ではなく、少し外れた道へ入っていった。
「すぐそこって、どこ」
「いい場所」
「また適当なこと言ってる」
「適当じゃない。音が上に抜ける」
その言い方だけ、少し真面目だった。
そこは、渋谷の駅から少し離れた、
商業ビルと古い劇場の間にある、ぽっかり空いた空間だった。
人通りは少ない。
でも、街頭パフォーマンスをする人が時々集まる場所なのか、
壁際には座り込んだ跡や、踏まれて黒くなった床の丸い跡が残っていた。
秘密基地ではない。
私たちの場所でもない。
でも、
音を置いたら、街が少しだけ返事をしてくれそうな場所だった。
「ここ?」
「ここ」
トウマは得意げに頷いた。
「最初の日みたいにさ」
その一言で、
胸の奥が少しだけ熱くなった。
最初の日。
誰も立ち止まらなかった日。
ギターケースを閉じることもできずに、
ただ街の端で固まっていた日。
その中で、
トウマだけが言った。
もう一曲歌ってよ。
私はギターケースを見た。
さっきスタジオで鳴った音が、
まだ身体の中に残っている。
強いドラム。
低いベース。
壁に跳ね返った自分の声。
その熱が消えるのが、
少しだけもったいなかった。
「……少しだけ」
私が言うと、
トウマが笑った。
「うん」
その「うん」は、
たぶん最初から信じていた人の声だった。
私はギターを取り出した。
ユイナは少し離れて壁にもたれる。
ユウはベースケースを足元に置き、黙ってこちらを見ている。
トウマは正面に立った。
あの日と同じように。
私は最初のコードを鳴らした。
音は思ったより大きく響いた。
商業ビルの壁に当たって、
古い劇場の方へ少し膨らんで、
路地の入口へ逃げていく。
自分の声も、
少し遅れて返ってきた。
スタジオの音とは違う。
コンビニ前の音とも違う。
街の裏側だけが、
こっそり聴いているみたいだった。
トウマは踊らなかった。
ただ、
まっすぐ聴いていた。
その顔を見たら、
私はあの日のことを思い出した。
でも、あの日とは違った。
一番が終わるころ、
足を止める人がいた。
劇場から出てきたらしい大人。
スマホを持った女の人。
制服姿の高校生。
仕事帰りの男の人。
ひとり。
ふたり。
三人。
曲が進むにつれて、
その数は少しずつ増えていった。
気づけば、
十人くらいの小さな輪ができていた。
大きな人だかりではない。
歓声が上がったわけでもない。
でも、確かに誰かが聴いていた。
あの日、
誰も立ち止まらなかった私の前に、
今は人が立っている。
その真ん中に、
最初に立ち止まってくれたトウマがいる。
それだけで、
声が少しだけ前へ出た。
サビに入る。
ユイナが小さく膝を叩く。
ユウが静かに拍を取る。
トウマが一歩だけ後ろへ下がり、
その輪の外側から私を見た。
まるで、
この場所を私に明け渡すみたいに。
私は歌った。
スタジオで覚えた音を、
もう一度、自分の声だけで鳴らすみたいに。
曲が終わると、
小さな拍手が起きた。
ぱらぱらと、
でもちゃんと私に届く音だった。
トウマが笑った。
「ほら」
「ほらって何」
「届いてる」
それを言われた瞬間、
胸の奥がきゅっとなった。
私は返事をしないまま、
もう一度コードを鳴らした。
誰かが帰る前に。
この輪がほどける前に。
今の音が消える前に。
もう少しだけ、
歌っていたかった。
二曲目に入ると、
さっきより人が近くなった。
誰かがスマホを下ろす。
誰かが腕を組む。
誰かが隣の人に小さく何かを言う。
怖い。
そう思った。
でも、
歌うのをやめたい怖さではなかった。
見られている。
聴かれている。
届いている。
その全部が怖くて、
その全部が嬉しかった。
サビに入ろうとした、その時だった。
「君たち!」
低い声がした。
ギターの音が止まる。
振り返ると、
警備員の制服を着た男の人が、こちらへ近づいてきていた。
「ここ、許可なしの演奏は禁止だよ。
すぐ片づけて」
やばい。
その二文字だけが、頭の中で大きくなった。
学校に連絡されたらどうしよう。
親に言われたらどうしよう。
ギターを取り上げられたりするんだろうか。
私は反射的に頭を下げようとした。
「あ、すみま——」
その瞬間、
トウマが私の手首を掴んだ。
「ルナ、走るぞ」
「え?」
「走る」
トウマはもう笑っていた。
怒られているのに、
逃げ道を最初から知っていたみたいな顔だった。
「止まりなさい!」
警備員の声が背中に飛ぶ。
ユイナが叫んだ。
「トウマ、ほんと最悪!」
「今さら!」
「今さらじゃない!」
ユウがベースケースを持ち上げる。
「右」
「何で冷静なの!」
「人が少ない」
「そういう問題じゃない!」
でも、
全員もう走っていた。
ギターを抱えて、
濡れた地面を蹴って、
商業ビルの横を抜ける。
背後で警備員がもう一度、
「止まりなさい!」と叫んだ。
その声は、
ビルの壁に跳ね返って、
すぐに遠くなった。
足音は追ってこなかった。
止まれ、という言葉だけが、
街の音に混ざって薄くなっていく。
私は振り返れなかった。
怖かった。
でも、怖いだけではなかった。
心臓が鳴っている。
さっきのドラムより大きく。
さっきのベースより近く。
自分の身体の真ん中で、
どんどん鳴っている。
私たちが足を止めたのは、
駅から少し外れた細い路地だった。
誰も追ってこなかった。
本当に、誰も。
ユイナは膝に手をついて、
大きく息を吐いた。
「……ほんと、バカ」
「ごめん」
トウマが言う。
「謝るなら最初からやるな」
「それは無理」
「無理じゃない」
「無理だった」
ユイナは呆れた顔で笑った。
私はまだ、
胸の奥がうるさかった。
「なんで追ってこなかったの」
そう聞くと、
トウマは肩で息をしながら笑った。
「さあ」
「さあって」
「来なかったじゃん」
それだけだった。
トウマはそれ以上、説明しなかった。
ユウがベースケースを壁に立てかける。
「捕まえる方が面倒なんだと思う」
「面倒?」
「注意した。逃げた。終わり。
それで済むなら、その方が早い」
ユイナが顔を上げる。
「じゃあ逃げてよかったってこと?」
「よくはない」
ユウはすぐに言った。
「でも、トウマは分かってた」
私はトウマを見る。
トウマは知らん顔で、
キャップのツバを直していた。
「……そうなの?」
「たぶん」
「またそれ」
「便利だから」
トウマは軽く笑った。
その笑い方が、
少しだけ知らない人みたいに見えた。
止まりなさい。
まだ耳の奥に残っている。
でもその声は、
もうここには届いていなかった。
私はギターを抱えたまま、
その場にしゃがみ込んだ。
それから、
なぜか笑ってしまった。
最初は小さく。
すぐに、止まらなくなった。
「ルナ?」
ユイナが驚いた顔をする。
「ごめん、なんか……」
言葉にならなかった。
怖かったのに。
まだ心臓が痛いくらい鳴っているのに。
笑っていた。
トウマが隣に座り込んで、
濡れた空を見上げる。
「最高だな」
「どこが」
ユイナが即座に突っ込む。
「いや、最高じゃん。
ルナ、今、すごい顔してた」
「どんな顔」
「生きてる顔」
その言葉が、
まっすぐ胸に刺さった。
生きてる顔。
そんな顔を、
私はしていたのだろうか。
正しい場所で、
正しい時間に、
正しい声の大きさで歌う。
怒られたら止まる。
止まりなさいと言われたら、止まる。
謝りなさいと言われたら、謝る。
私はずっと、
そういうものを守らなきゃいけないと思っていた。
でもその夜、
少しだけ分かってしまった。
大人の言葉は、
いつも本心と同じ形をしているわけじゃない。
止まりなさい、という声が、
本当に私たちを捕まえたい声とは限らない。
絶対だと思っていたルールは、
案外、ガラスみたいなものなのかもしれない。
透明で、
硬そうで、
向こう側が見えるくせに、
触れるまでは壁みたいに思えるもの。
そして、
割れる時だけ音がする。
怖くて、
危なくて、
少しだけきれいな音が。
しばらくして、
私たちは裏通りを抜け、駅の方へ歩いた。
誰もさっきのことを責めなかった。
ユイナは何度か「ほんとバカ」と言ったけれど、
声は笑っていた。
ユウは「次は場所を先に確認した方がいい」と真面目に言った。
トウマはそれを聞いて、
「次もやる前提?」と笑った。
私は黙って歩きながら、
手の中のピックを握っていた。
空はもう夜だった。
ビルの窓に、
街の明かりが細かく映っている。
世界はさっきと同じはずなのに、
少しだけ味方みたいに見えた。
駅の改札前で別れる時、
トウマがこちらを見た。
「明日も来る?」
私は少しだけ迷って、
それから頷いた。
「来る」
今度は、
たぶんではなかった。
トウマは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、待ってる」
その言葉を聞いて、
私はギターケースの肩紐を握り直した。
明日も、
きっと私は走る。
濡れた靴のまま、
それでも前へ進むために。