
第1章|青のあとで
全国決勝への切符を手にしたその日、少女は未来と現在の間で揺れていた。喜びと不安が入り混じる夏の午後──その青さの先で、運命は静かに歪み始める。
――2033年7月29日/島のスタジオ
それは、きっと人生の頂点だった。
それとも、終点だったのかもしれない。
スタジオの中で、音だけが膨らんでいた。
リアムのベースが床を震わせ、ノエルのドラムが壁際まで押し寄せてくる。
私のテレキャスターは、その波に噛みつくみたいにかき鳴らされる。
最後のコードが天井にぶつかって、ゆっくり消えていく。
汗が首筋をつたうのを感じながら、私は息を整えた。
「……来たぞ、渚」
ノエルの声で、空気が変わった。
彼はスマホを見つめたまま、少しだけ硬い表情で画面をスクロールしている。
その横顔を見て、胸の奥がひゅっとすぼまる。
「どっち?」
自分でも驚くほど、声が小さくなった。
ノエルは黙ってスマホを差し出す。
そこには、短い文章が浮かんでいた。
「全国高校バンドオーディション決勝進出、おめでとうございます。」
時間が、ほんの一瞬止まる。
スタジオの古いエアコンの音だけが、やけにはっきり聞こえた。
「……マジで?」
私の口から出た声なのか、誰か別の人の声なのか、判別できない。
先に動いたのはリアムだった。
「うおおおおお! 行ったじゃん、決勝! やべえ、これ、全国だぞ!?」
彼はベースを抱えたまま、子どもみたいに床をどんどん踏み鳴らす。
その目はもう、見たこともないステージのことを考えている。
ノエルは、ようやく顔を上げて笑った。
「……なあ、アオサギ、ここまで来たんだな」
それは誰かひとりに向けた言葉じゃない。
三人まとめて抱きしめるみたいな声だった。
ああ、そうか。
この瞬間は、ちゃんと三人のものなんだ。
そう頭では分かっているのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。
「……やったんだよ、アオサギ」
気づいたときには、涙がこぼれていた。
自分で驚くくらい、ぽろぽろと。
窓の外では、夏の雲がゆっくり形を変えている。
スタジオの薄いガラス越しに見える空は、どこまでも青かった。
この島からあのステージへ。
白いテレキャスターを下げて、三人で立つ自分たちを想像してみる。
想像できる。
けれど同時に、胸のどこかがきゅっと締まった。
──この先、どうなるんだろう。
高校三年の夏。
卒業したら、島を出るのか、このまま残るのか。
音楽を選ぶのか、実家の「しおはま」を継ぐのか。
どれもちゃんと考えなきゃいけないことなのに、
私はずっと、考えるふりだけして目をそらしてきた。
この決勝進出が、全部の答えを催促してくる気がして、息が少し浅くなる。
三人でずっと続けていけたらいい。
本当は、それだけでいいはずなのに。
でも、リアムはきっとどこまでも音楽を追いかける。
ノエルだって、チャンスがあれば島を出るかもしれない。
そのとき、自分はどうしたいんだろう。
まだ何も決めていない。
決められないまま、気づけばここまで来てしまった。
「ちょっと……外の空気、吸ってくる」
自分でも驚くくらい自然に、その言葉が出た。
「渚?」
ノエルが椅子から半分立ち上がる。
「……平気。ちょっとだけ。頭ん中がさ、ぐるぐるしてるから」
笑ってみせると、ノエルは心配そうな顔をしつつも、それ以上は何も言わなかった。
リアムは「戻ってきたら次の曲決めようぜ」と、いつもどおり手を振る。
その何気ない仕草が、なぜか胸に刺さる。
ギターをスタンドに立てかけ、私はスタジオを出た。
◇
スタジオのドアを閉めると、湿った夏の空気が一気に押し寄せてきた。
川へ続く細い道を、私はなんとなく選ぶ。
いつも散歩に使っている道。
考えごとをするとき、自然と足が向く場所。
風が背中の汗をなでていく。
アスファルトの照り返しと、遠くで鳴くセミの声。
「決勝進出……か」
声に出してみる。
嬉しい。
本当に、嬉しいはずだ。
でも、胸の奥で何かがうずく。
それに名前がつかない。
今までの“いつもの日々”が、急に遠ざかっていく気がした。
放課後にスタジオへ集まって、
ノエルの家の残り物をつまみながらくだらない話をして、
リアムが新しいフレーズを見つけては、みんなで騒ぐ。
ああいう時間が、このままずっと続いてほしい。
でも、きっとそうはいかない。
この島の外に、どんな世界が待っているのか。
その世界にアオサギがいるのか。
私がいるのか。
考えれば考えるほど、足元だけがふわふわする。
「……なんで、素直に喜べないんだろ」
自分に問うても、答えは出てこない。
若さって、きっとこういうごちゃごちゃしたものの塊なんだろう。
頭のどこかでそんなことを思いながら、私は川沿いのカーブを曲がる。
そのときだった。
視界の端で、水面が不自然に揺れた。
川の真ん中あたりに、白いものが浮かんでいる。
ビニール袋……じゃない。
小さな肩。小さな頭。
子どもだ。沈みかけている。
「――っ!」
考えるより先に、身体が走り出していた。
サンダルを蹴り飛ばし、草むらを駆け降りる。
足元の石がごつごつ当たるのも気にしていられない。
岸辺から水へ飛び込む。
冷たさが一気に全身を締めつけた。
さっきまで汗をかいていた肌が、一瞬で凍りつく。
息が詰まる。それでも腕を伸ばす。
濁った水の中、白い腕が揺れていた。
手を伸ばす。指先が触れる。
「大丈夫、大丈夫だから……!」
水音にかき消されて、声は自分にも聞こえない。
あと少し。もう少し近づけば──。
そう思った瞬間、足にあったはずの感触が消えた。
苔のついた石が、ぬるりと滑る。
身体の重心が後ろに引っ張られ、視界がぐにゃりと回転した。
空が水の底に沈み込んでいく。
どっちが上か分からなくなる。
喉に水が入り、胸の奥が燃えるように痛い。
息が、吸えない。
声を出そうとしても、泡が口からこぼれるだけだった。
──ノエル。
心の中で名前が浮かぶ。
助けて、なんて言葉は出てこない。出したくなかった。
でも、あの声が頭の奥で響く。
「リアム、渚。おまえらは前で好きに暴れてろ。
俺が後ろでなんとかすっから。……背中、預けてんだから」
リハーサル帰りに、冗談半分で言ったあの言葉。
くだらなくて、でもすごく嬉しかった。
もう一度聞きたい。
もう一度、三人で音を鳴らしたい。
手を伸ばそうとする。
けれど、指先から先に力が抜けていく。
世界が、水の色に溶けていった。
◇
渚が川に沈んだのは、オーディション決勝進出の知らせが届いた、その日の夕方だった。
ノエルが呼び止めた。
けれど、渚は笑って首を振った。
「大丈夫だよ。ちょっとだけだから」
その「ちょっと」が、ようやく動き出した未来に、静かに割り込んでいく。
小石を投げ込まれた水面みたいに、あとからあとから波紋を広げながら。
翌日、教室に渚の姿はなかった。
白いテレキャスターも、
スタジオの隅に立てかけられたまま、音を鳴らさない。
それでも、彼女の残したフレーズや笑い声や、
あの日の汗の匂いは、そこかしこにこびりついている。
確定してしまったはずの過去が、
どこかでまだ決まりきらずに揺れている──
そんな、説明のつかない感覚だけが、
この島の夏の空気の中に、静かに残っていた。