
第7章|少しだけじゃない
夏休みが近づく頃、間違いだけで曲は止まらなくなった。
芽衣が息を継ぐ場所を見失っても、次の言葉から戻る。
花音の低音が一つ抜けても、岳の拍は残る。
湊のピックが弦をかすめても、誰もその音へ引っ張られない。
六月のライブで動かなくなった私の指も、今は岳のドラムを探せば曲の中へ戻れる。
失敗した日は消えない。
ただ、そのあとに演奏した日の方が多い。
終業式を数日後に控えた朝、父のJazzmasterをソフトケースへ移し、背負って家を出た。
黒いケースの先が頭の上まで伸びる。電動自転車へまたがると、背中のギターがいつもより大きく感じた。
いつもの坂を下る。
転んだら、自分より先に父のギターを心配する気がした。
駐輪場で自転車を止める。
ケースを背負ったまま、少しだけ校舎を見た。
昨日まで、私はキーボードを弾く人だった。
今日これを見せたら、ギターも弾く人になる。
弾けないのに。
「汐音、それ何?」
入口で花音に見つかった。
「見れば分かるでしょ」
「ギターなのは分かる。弾けるの?」
「少しだけ」
音楽室の床でケースを開く。
三色のボディーが、黒い内張りの中から現れた。
「思ってたより格好いい」
花音がしゃがみ込む。
「何を想像してたの」
「汐音が持ってるから、もっとピアノっぽいやつ」
「ギターにピアノっぽいのある?」
湊はヘッドを覗き込んだ。
「ジャズマスターじゃん」
「有名なの?」
「有名」
声だけで、知っているのが分かる。
「湊のは?」
「ストラト。去年買った」
「どうして白?」
湊は少し間を置いた。
「……渚さんのギターが白かったから」
「同じのにしなかったんだ」
「そこまでやるのは恥ずかしいだろ」
扉が開き、リアム先輩が入ってくる。
床を囲む私たちを見て、中心のギターへ視線を落とした。
「お父さんのギター、ついに持ってきたんだ」
顔を上げる。
「ギターの話、しましたっけ」
リアム先輩の目が、一瞬だけ止まった。
「前に話してなかったっけ」
「してないと思います」
「じゃあ、何かと混ざった」
それだけ言って、私の前へしゃがむ。
芽衣も花音も気にしていない。
湊だけが一度顔を上げ、すぐにギターへ視線を戻した。
私が手を離すのを待ってから、リアム先輩はJazzmasterを持ち上げる。
弦を一本ずつ鳴らす。
つまみを回す。
ブリッジへ目を近づけ、もう一度弦を鳴らした。
「ちゃんと調整してある。弦も新しい」
「新しいんですか」
「うん」
「ずっと納戸にあったのに?」
リアム先輩が私を見る。
「弦は、放っておくとこういう状態では残らない」
それ以上は言わない。
父は数か月前、母にも知らせず一人で島へ来ていた。
祖父は、物置を開けていたと言っていた。
あの時、このギターに触れたのかもしれない。
新しい弦へ目を落とす。
どうして今になって手入れしたのかは分からない。
どうしてリアム先輩が最初から父のギターだと知っていたのかも分からない。
「弾くの?」
ギターが私の手へ戻る。
「家で少しだけ練習しました。そのつもりで持ってきました」
「じゃあ弾いてみれば」
リアム先輩は窓際へ戻ろうとする。
「少し見てもらえますか」
呼び止めると、花音と湊が私を見る。
リアム先輩だけは驚かない。
「いいよ」
ストラップを肩へ通す。
家で覚えたコードを押さえた。
一本だけ鳴らない。
次へ移る途中で、左手が置いていかれる。
「少しだけだね」
「だから言ったじゃないですか」
リアム先輩は私の左手を見る。
「ピアノなら、出したい音は分かるんだよね」
「分かります」
「なら、同じ音をここで探せばいい」
鍵盤で知っている和音を、六本の弦へ折り畳む。
言われた場所へ指を置く。
今度は全部の弦が鳴った。
「これなら分かります」
「でしょ」
一つ教えると、リアム先輩は黙る。
私が次を探すのを待ち、違った時だけ場所を示した。
三つ目のコードは、自分で見つけた。
「覚えるの早いね」
何でもない言い方だった。
もう少し弾けるようになりたくなった。
それから終業式までの数日、父のギターを背負って学校へ通った。
リアム先輩は、頼めば教えてくれる。
向こうから様子を見に来ることはない。
質問を持っていけば、必要なところだけ答える。
その先は私に残す。
分からないことが増える。
窓際まで行く理由も増える。
それが少し嬉しかった。
放課後のQ-RANでも、私がギターを持つ曲を試すようになった。
その日はJazzmasterを音楽室のアンプへ直接つなぐ。
湊のストラトと私のJazzmasterでは、同じコードでも最初から音が違う。
湊の音は柔らかく広がる。
私の音は乾いて、弾いた場所がそのまま見える。
「もう少し歪ませてもいいかも」
湊が言った。
最初の給料の使い道が決まった。
夏休みに入ると、岳の家の海の家で働き始めた。
砂の上を何往復もする。
注文を運ぶ。
空いた皿を下げる。
帰る頃には、ふくらはぎが重い。
最初の給料を受け取った翌日、そのお金は新品のマルチエフェクターに変わった。
黒い箱を、音楽室の床へ置く。
「本当に買ったんだ」
湊がしゃがみ込む。
「父のギターにつなぐ最初の機械くらい、自分で買いたかったから」
家のヘッドホンでは、思ったとおりに鳴った。
音楽室のアンプへつなぐ。
同じ設定なのに、出てきた音はまるで違う。
高いところだけが硬い。
欲しかった歪みは薄い。
湊と二人で設定を変える。
戻す。
また変える。
近づかない。
「分からん」
湊が床へ座り込んだ。
花音が窓際を見る。
リアム先輩が一人でベースを弾いている。
「聞けば?」
「リアム先輩、Googleじゃないんだぞ」
湊は苦笑する。
「そんな気軽に聞きに行くなよ」
冗談みたいな言い方なのに、声には遠慮の方が多い。
「私、聞いてくる」
マルチを持ち上げる。
「え、行くの?」
花音が聞いた。
「何が?」
「普通に話しかけるの」
「いつも話してるし」
「それが普通じゃないんだって」
窓際を見る。
リアム先輩は、話しかけてはいけない人には見えない。
こちらから行かなければ、その距離はずっと縮まらない。
今は、手の中に理由まである。
「家と同じ音になりません」
「家では何で聞いた?」
「ヘッドホン」
「今は?」
「このアンプです」
リアム先輩は接続を見る。
シールドを差し替え、設定を一つ切った。
「弾いて」
家で作ったフレーズを弾く。
さっきより近い。
「同じところを二回通してた」
説明はそれだけ。
「これで家と同じになりますか」
「ならないよ」
「また最初から?」
「ここで鳴らす音は、ここで作る」
完成した音は渡してくれない。
どこからやり直せばいいかだけを残して、リアム先輩は窓際へ戻る。
私たちはもう一度、五人で音を出した。
湊のコードへ、私の乾いた音を重ねる。
花音のベース。
岳のドラム。
芽衣の声。
ヘッドホンで一人で作った音とは違う。
今は、こっちの方がいい。
五人の中に置いた時だけ鳴る音だった。
曲が終わる。
岳の最後の一打が消えた。
「もう、少しだけじゃないね」
窓際から声が来る。
「何がですか」
「ギター」
初めて見てもらった日に私が言った「少しだけ」を、リアム先輩は覚えていた。
「まだ少しです」
「じゃあ、文化祭までにもう少し」
ベースをケースへしまい、私を見る。
「夏のライブ、来る?」
「行きます」
「そっか」
それだけ言って、音楽室を出ていった。
何のライブなのかは、まだ知らなかった。