
第8章|夏の見える場所
学校前から出る無料循環バスは、私たちが乗り込んだ時にはもう半分以上埋まっていた。
扉が閉まるたび、冷房より先に熱気が入ってくる。
首にタオルを掛けた近所のおばさん。折り畳み椅子を抱えた家族。見覚えのある中学生。
その間に、島では見たことのない人が混ざっている。
同じ黒いTシャツを着た二人組。
背中に白い文字で、Aosagi。
「去年、こんなに混んでなかったよね」
花音が窓の外を見ながら言った。
「去年は座れた」
芽衣が答える。
「二人とも毎年来るの?」
「島の人はだいたい来るよ」
二人にとっては、説明するほどのことでもないらしい。
バスが坂を上る。
窓の向こうで海が低くなり、空だけが広くなっていく。
会場は浜辺ではない。
海を見下ろす丘の上に、夏の二日間だけ特設ステージが組まれる。
バスを降りた途端、焼きそばの匂いがした。
島野菜。かき氷。古本。貝殻の小物。
テントの間を歩くたび、匂いと呼び込みの声が入れ替わる。
ステージでは年配の男の人が演歌を歌っていた。
その次に出てきた名前も知らない芸人は、マイクの音量だけが大きくて、何を言っているのか半分くらい聞き取れない。
「去年もこんな感じ?」
「こんな感じ」
花音が迷わず答えた。
その普通の島の行事に、今年だけ別の熱が重なっている。
ローカルテレビ局の車が二台。
ステージ前には大きなカメラ。
会場の後ろには簡易の柵が増え、Aosagiのタオルを持った人たちが場所を取っていた。
キャリーケースを引いたまま歩く人までいる。
岳はステージ横のドラムを見ていた。
「去年よりセット大きくない?」
「そこから見るの?」
花音が聞く。
「ノエルさんのドラム見に来たから」
「Aosagiじゃなくて?」
「Aosagiだけど、俺はドラム見る」
湊も、まだ楽器の置かれていないギターアンプから目を離さない。
「渚さん、今日は何使うんだろ」
花音がすぐ反応した。
「湊、渚さん好きだよね」
「好きっていうか、ギターが」
「白いギター買ったのも?」
「たまたま」
耳だけが少し赤い。
私以外の四人は、大会で優勝する前からAosagiを知っている。
それでも今日は全員、何度もステージを見た。
一年前より遠くへ進んだ三人が、もう一度この島で鳴らす。
それを待っている。
午後、司会者がAosagiの名前を読み上げた。
ざわついていた丘が、一度だけ息を吸った。
次の瞬間、歓声が上がる。
最初にノエルさんが出てきた。
広い肩を揺らし、ドラムの前へ座る。
次に渚さん。
手には白いギターがある。
湊が無言で一歩前へ出た。
最後にリアム先輩が現れる。
さっきまでとは違う高さの歓声が、丘を覆った。
明るい茶色の髪。
細い肩。
低い位置に構えたベース。
何度も見ているはずの姿だった。
音楽室なら、窓際に座っている。
聞けば短く答える。
必要なところまで教えると、また一人でベースを弾く。
その人が、今は何百人もの視線の真ん中に立っていた。
マイクの前で海を背にし、客席を見渡す。
視線がこちらを通った。
目が合った気がした。
そう思った瞬間には、もう別の場所を見ている。
ノエルさんがスティックを鳴らした。
一、二、三、四。
三人の身体が同時に動く。
最初の音が出た。
胸の前の空気まで押された。
普段見ている上級生のバンドも上手い。
でも、これは違う。
ノエルさんのドラムが曲を前へ蹴る。
渚さんのギターがその勢いを横へ曲げる。
リアム先輩のベースが二人の間を走り、次の場所を開けていく。
三人しかいない。
なのに、どこにも隙間がない。
一定の速さを守っているわけでもなかった。
少し前へ出る。
次の瞬間には引く。
誰かが押せば、残りの二人が受け取る。
三人の呼吸で曲そのものが揺れている。
リアム先輩が歌い始めた。
客席は、もう次に何をすればいいか知っている。
腕が上がる。
手拍子が重なる。
サビで声が一つになる。
ステージと客席の境目が消えていく。
私は拍手をするのを忘れていた。
隣で花音が声を上げる。
岳はノエルさんの手元から目を離さない。
湊は渚さんが足元を踏むたびに視線を動かす。
芽衣は、リアム先輩と一緒に歌う客席を見ていた。
四人とも驚いている。
でも、初めてではない。
私だけが、今まで知らなかったリアム先輩を見ている。
曲の途中で渚さんがリアム先輩を見る。
リアム先輩も一度だけ目を返す。
後ろでノエルさんが次の展開へ入った。
言葉はない。
それでも三人には通じている。
同じバンドに入りたいわけではない。
三人の間へ入りたいわけでもない。
それなのに、胸の奥が少し痛んだ。
理由を考える前に、次の曲が始まった。
ライブが終わる。
最後の音が消えるより先に、歓声が戻ってきた。
テレビ局の人とスタッフが三人を囲む。
柵の向こうから、いくつも名前が飛ぶ。
リアム先輩の姿は、すぐに人の中へ消えた。
さっきまであんなに大きく見えていたのに、見えなくなるのは一瞬だった。
「やっぱりドラム、意味分からない」
岳が最初に口を開いた。
「手、何本あるんだろ」
「二本でしょ」
花音が答える。
「そういう意味じゃない」
湊は誰もいなくなったステージを見ていた。
「渚さん、去年より音変わってた」
「そこまで分かるの?」
「動画も見てるから」
「隠れ渚ファン」
「隠れてない」
芽衣が私の顔を覗き込んだ。
「汐音は、初Aosagiどうだった?」
言葉を探す。
上手かった。
すごかった。
どちらも違う気がした。
「全然違った」
それだけ言うと、芽衣は笑った。
「でしょ」
数日後、音楽室へ行くと、リアム先輩はいつもの窓際でベースの弦を拭いていた。
制服。
窓際。
いつものベース。
丘の上にいた人と同じ顔が、何事もなかったみたいにそこにいる。
前ならそのまま歩いていけた。
今日は一度、足が止まった。
あの歓声が、まだ二人の間に残っている気がする。
廊下の掲示板に貼られた夏祭りのポスターを思い出した。
芽衣と花音とは、今年も行こうと話している。
リアム先輩が顔を上げる。
「何?」
立ち止まっている理由まで見つかった。
窓際へ行く。
「夏祭り、行きますか」
「今年の?」
「来年の話はしてません」
リアム先輩は少し考えた。
「その週末、東京にいる」
「そうなんですか」
「スタジオ入るから」
布が弦を滑る音だけが続いた。
窓の外では、蝉がうるさい。
「分かりました」
声は思ったより普通に出た。
リアム先輩が、弦を拭く手を止める。
「誘ってくれたの?」
「今のは、そのつもりです」
「そっか」
ほんの少し、口元が緩んだ。
その顔を見たら、さっきまで遠かった窓際が少しだけ元へ戻った。
夏祭りには芽衣と花音と三人で行った。
夕方になっても、アスファルトには昼の熱が残っている。
提灯が一つずつ点き始め、屋台の明かりが人の顔を赤くした。
花音は最初にかき氷を買い、食べ終わる前に焼きそばも持っていた。
「それ、両方食べるの?」
「夏祭りだから」
答えになっていない。
芽衣は射的で小さなキーホルダーを取った。
「汐音もやる?」
「当たる気しない」
「やる前から?」
結局やらされて、一発も当たらなかった。
花音が笑う。
芽衣も笑う。
私も笑った。
屋台を一周して、また同じ場所を通る。
写真も何枚か撮った。
帰る頃には、花音が買った焼きそばの匂いまで服に残っていた。
楽しかった。
それとは別に、人の波が割れるたび、その向こうへ目が行った。
明るい茶色の髪がないか探す。
東京にいると知っているのに。
家へ戻り、シャワーを浴びても、祭りの音がまだ耳の奥に残っていた。
枕元のスマートフォンを取る。
午前二時を少し過ぎている。
SNSを開く。
南風島の祭りの投稿が、まだ途切れず流れていた。
浴衣で並ぶ友達。
屋台の前で笑う家族。
提灯の下で肩を寄せる二人。
指を滑らせる。
知らない町の花火。
海辺で肩を寄せる二人。
夜のコンビニでアイスを持つ誰か。
また浴衣。
また海。
何度か指を動かすと、数日前の丘の写真まで混ざった。
ステージ上のリアム先輩。
白いギターを持つ渚さん。
ドラムの前で笑うノエルさん。
指が止まる。
今日撮った写真を開く。
花音が大きく笑っている。
芽衣は少し目を閉じている。
私も笑っていた。
三人で笑った時のことも覚えている。
楽しかった。
写真を閉じる。
SNSへ戻る。
また知らない二人が流れてくる。
そのたびに、今日にはいなかった人のことを考える。
リアム先輩がいたら、どの屋台で止まっただろう。
何を食べただろう。
それだけ考えて、次へ送る。
気づけば、同じような夏の写真を何枚も見ていた。
画面を消す。
暗くなったスマートフォンを枕元へ置く。
数秒して、また手が伸びた。
その数日後、花火大会の日が来た。
夕方から芽衣と花音に合流する予定で、ベッドの上へ服を二枚並べていた。
白い方を手に取る。
戻す。
もう一枚を持ち上げる。
どちらを着るか決まらないまま、スマートフォンが鳴った。
画面に出た名前を見て、手が止まる。
リアム先輩。
〈今日、花火行ける?〉
一度読む。
もう一度読む。
どうして私なのかは分からない。
それでも、指は先に動いた。
〈行けます〉
送信したあとで、ベッドの上の二枚が目に入った。
芽衣と花音との約束を思い出す。
三人の画面を開く。
少しだけ指が止まった。
〈ごめん。今日、二人と行けなくなった〉
既読が二つ並ぶ。
返事を待つ数秒だけ、部屋が妙に静かだった。
最初に返ってきたのは芽衣。
〈リアム先輩?〉
〈うん〉
すぐに花音から続く。
〈じゃあ行ってきな
明日アイスおごって〉
芽衣からも返ってきた。
〈こっちは二人で行くから
明日、詳しく聞かせてね!〉
画面を見たまま、息が抜けた。
その直後、リアム先輩からもう一通届く。
〈家の近くまで行く
着いたら連絡する〉
〈10分くらい〉
窓を開ける。
まだカブの音は聞こえない。
ベッドの上の二枚を見る。
さっきまで決められなかったのに、今度は迷わず白い方を取った。