
第5章|ノエル、125ccの夏
幼なじみの渚をカブの後ろに乗せた瞬間、ノエルは夏が永遠に続けばいいと願った。
言葉にしなくても通じる距離が、逆に未来をそっと遠ざけていく。
そんな優しい日常のすぐ外側に、名もなき青年の影が静かに滲みはじめ、
二人だけの夏が、どこか微かにきしむ音を立てて動き出していた。
――2033年7月27日/島の道
セミの声は、島の夏を肯定するように鳴いていた。
ノエルはおんぼろのカブを転がしながら、
いつもより少しだけアクセルを開けた。
ただの風なのに、今日の風はやけに胸の奥をくすぐってくる。
──明日、オーディションの結果が出る。
たったそれだけで、島の景色が少し違って見えた。
海の青さも、道端の草のにおいも、
子どものころから見慣れた全部が、
今はどこか“特別な一日の前触れ”みたいに感じられる。
そんなとき、坂の上に渚の姿が見えた。
逆光に透ける髪、肩に下げたギターケース。
小さく手を振るだけで心臓が跳ねるのは、もう何年も前からだ。
「おーい、渚!」
渚はこちらを向いて、太陽みたいに笑った。
「ナイスタイミング! 送ってってー!」
その明るさに弱い。
何度でも乗せてやりたいと思う。
渚が後ろにまたがる気配でカブが少し沈んだ。
ふっと背中に触れる指先の感触だけで、ノエルの心臓は忙しくなる。
「行くぞー。落ちんなよ」
「落ちないよ、ノエルの運転なら」
その一言だけで、夏が一段明るくなる気がする。
風を切るたびに、渚の笑い声が背中越しに伝わってくる。
ただ走っているだけなのに、世界の中心がここにあるような気がした。
「ノエル。もしさ、うちら本当に売れちゃったらどうする?」
渚がぽつりと呟いた。
「……どうするって?」
「ドームとか、ワールドツアーとか。
そしたらもう、この島に帰って来れないかもよ?」
渚の声は明るいのに、言葉の奥に小さな影があった。
ノエルは笑いながら言う。
「そんときゃ“しおはま”にサイン色紙並べとけよ」
「いいねぇ。三人で書こうね」
風が二人の間を走り抜ける。
その隙間には、恋でも友情でも家族でもない、
名前のつけられない“特別ななにか”が居座っていた。
言葉にしたら壊れそうで、壊れてほしくなくて、
だから二人とも黙っていた。
沈黙さえ心地よかった。
南風ストアに寄ると、いつものおばちゃんが手を振った。
「渚ちゃん、ノエルくんに送ってもらったの?
ほんと仲いいわねぇ、あんたたち」
「ちがうってば、たまたま!」
と笑う渚を見て、ノエルは胸のあたりがあたたかくなる。
買ったガリガリ君を食べながら歩いていると、
おばちゃんが思い出したように言った。
「そういえばねえ、最近変な男が島をうろついてるって噂よ。
でっかいカメラ持って、あちこちで写真撮ってるって」
ノエルと渚は思わず顔を見合わせた。
「観光客じゃないの?」
「どうも違うらしいのよ。学校の裏でも見たって話」
少しだけ空気がひんやりする。
だが渚は肩をすくめて笑った。
「まあ、夏だしね。変な人くらい来るよ」
ノエルも笑った。
笑うしかなかった。
けれど心の奥にわずかな違和感が残る。
カメラを持った男──
昨日リアムが会ったという“旅人”の影と、
どこか重なる気がした。
港へ出ると、夕日が海を金色に染めていた。
渚は堤防に腰掛け、アコギを抱えて弾き語りをしていた。
その姿は、何もかもを照らすみたいにきれいだった。
歌声も、風の匂いも、
ぜんぶが「終わらない夏」の証拠みたいだった。
そんな渚の向こう側を、一人の青年が通り過ぎた。
黒いリュック。
疲れた表情。
渚の方に向けられた一瞬の視線だけが、妙に鋭かった。
ノエルの背筋がわずかに冷える。
(……あいつ、まだ島にいたのか)
渚は気づかず歌い続けている。
ノエルはしばらくその景色を見つめた。
胸の奥の小さなざわめきは、波音に紛れて聞こえなくなった。
でも確かに感じていた。
──今日の渚の笑顔は、少しだけ眩しすぎた。
まるで、
何かに奪われる前の光みたいに。