
第3章|秘密の旋律
音楽オタクは、ときどき初対面の距離感を壊す。
失礼だからじゃない。好きなものの話になると、順番とか体裁とか、そういうものが一気に後ろへ下がるだけだ。
駅前の喧騒の中で、ピアノの音だけが妙に輪郭を持っていた。
ストリートピアノ。
誰でも弾ける、誰のものでもない鍵盤。
そこから流れていたのは、有名なアニメソングのはずだった。
でも、サビの手前で曲が少しだけ逸れた。
「……あ」
ルナは足を止める。
借用している。
しかも、ただ目立たせるためじゃない。気づくか気づかないかのところで一瞬だけ景色を変えて、すぐに戻す。
もっと綺麗に整えることもできそうなのに、少しだけ危ないまま残している。
それが、妙によかった。
演奏しているのは、年の近そうな女の子だった。
派手な弾き方ではない。
むしろ逆で、動きは驚くほど小さい。
それなのに、ストリートピアノから出ているとは思えないくらい音が綺麗だった。
駅前に置かれたピアノなんて、だいたい癖がある。
鍵盤の重さも揃っていないし、響きも場所によってばらつく。
ペダルの返りが鈍いこともあるし、少しだけ音程の怪しい鍵盤が混じっていることもある。
なのに、その子の音には濁りがなかった。
楽器の癖を、最初から知っているみたいな弾き方。
鳴りすぎる音は触れ方で抑え、
痩せる音はほんの少しだけ長く残す。
力で押さえ込むんじゃない。
癖ごと、うまく手なずけている。
ルナは少し近づいて、思わず見入った。
ファの♯を、ほとんど使わない。
偶然じゃなかった。
その鍵盤だけ、わずかに調律が狂っているのだと気づくまでに、ルナは少し時間がかかった。
普通なら気にも留めない程度のずれだ。
でも、その子は最初の数小節でそれを見抜いていたらしい。和音の置き方も、旋律の逃がし方も、そこを避けるように変わっていた。
――いや、違う。
一度だけ。
ほんの一度だけ、その音を使った。
サビに入る直前。
避けても成立する場所で、
その子はわざと、少しだけ狂ったファの♯を混ぜた。
傷みたいな音だった。
綺麗に整っていた空気に、細いひびが一瞬だけ走る。
でも、そのひびのせいで、次の一音が妙に生きる。
上手い、だけでは少し足りなかった。
速く弾けるとか、難しいフレーズを外さないとか、そういう類の話ではない。
音の出方に、長い時間の積み重ねがそのまま残っている感じがした。
曲が終わる。
拍手は起きなかった。
起きる前に、その子がさっと立ち上がったからだ。自分の音がちゃんと街に着地したことを確かめたら、それで十分、みたいな立ち去り方だった。
ルナは、その背中に声をかけていた。
「ピアノ、すごかった」
とルナが言う。
「上手いっていうより、楽器の機嫌ごと弾いてる感じがした」
その子が少しだけ目を細める。
「……何それ」
「ファの♯、狂ってたよね」
ルナは言う。
「ほとんど避けてたのに、一回だけ使った」
彼女の表情が、そこで初めて少し変わった。
「そこまで聞いてたんだ」
「聞こえた」
「普通は、あれ気持ち悪いで終わる」
ルナは少し笑う。
「でも終わらなかった。わざとでしょ。あそこで一回だけ、不安定にした」
彼女は数秒だけ黙ってから、ほんの少し口元を緩めた。
「避け続けるともったいないから」
と彼女は言う。
「個性のある子はね、“ここぞ”って時に輝くの」
ルナは一瞬、言葉の意味を測るみたいに絢音を見る。
「ピアノの話?」
「半分」
彼女は肩をすくめる。
「置き場所が合えばちゃんと効く」
「……それ、ちょっと分かる。むしろ、それが音楽の面白いところ」
「でしょ」
彼女は言う。
「欠点って、消せるなら消した方がいい時もあるけど」
「でも、残した方がその子らしいなら、私はそっちの方が好き」
「名前は?」
とルナが聞く。
「絢音」
「私はルナ」
絢音はその名前を、ただ名前として受け取った。
知っているふうでも、知らないふうでもなく、その場の流れのまま聞いた感じが、少しよかった。
「バンドマン?」
「ギター」
「……歌も?」
「うん。そっちもやる」
「へえ」
その「へえ」は、ただの相づちじゃなかった。
「今の返し方、プレイヤーっぽいと思った」
と絢音は言う。
「どこが?」
「音楽の面白いところ知ってる人なんだなって」
ルナは少し笑う。
吹き抜けを風が抜けて、鍵盤のふたに街の光が薄く映る。
「絢音って、こういうとこでよく弾くの?」
「たまに」
「練習?」
「半分。半分は確認」
「何を」
「今の自分が、外でちゃんと鳴るかどうか」
ルナは少しだけ黙った。
部屋で成立する音と、外で成立する音は少し違う。
正しいだけでは届かないし、勢いだけでも残らない。
今の一言は、その差を知っている人の言葉だった。
「今の、自分の曲?」
とルナが聞く。
「うん、ほとんど即興だけどね」
「いっぱい書く?」
「いっぱいではないかな。でも、勝手にたまる」
「いいな」
「そっちは?」
「私も書く」
「へえ」
今度の「へえ」は、さっきより温度が高かった。
「じゃあ聴いてみたい」
と絢音が言う。
「ルナの途中のやつ」
途中のやつ。
その言い方に、ルナは少しだけ黙る。
まだデモのままの曲が頭に浮かんだ。
歌とギターだけの、途中の曲。
うまく説明できない感情が、まだ行き先を決めきれずに止まっている曲。
「ある」
とルナは言った。
「でも、まだ途中」
「途中の方が面白いことあるよ」
絢音は当たり前みたいに言う。
「完成品って、良くも悪くも言い訳できないし。途中の方が、どこを残したいのか見えるから」
その言葉は、すとんと落ちてきた。
途中のものを途中のまま人に見せるのは、少しだけ怖い。
でも目の前のこの人は、その怖さごと面白いと言った。
「今からスタジオ行くんだけど」
とルナは言う。
絢音が目を上げる。
「来る?」
自分でも少し急だと思った。
でも、こういうものは急な方がいい時がある。
整えてから言うと、少し遅くなる気がした。
絢音は一拍だけ考えた。
「見に行くだけでも?」
「もちろん」
「変なバンドじゃない?」
「そこは保証できない」
「正直だね」
「大事だから」
絢音は小さく笑った。
「じゃあ、行く」
その返事は軽かった。
街の中でたまたま聞こえたピアノ。
たまたま止まった足。
たまたま始まった会話。
そういう偶然は、あとから振り返ると少しだけ意味ありげに見える。
でも、その瞬間はだいたい拍子抜けするくらい普通だ。
二人は並んで歩き出した。
渋谷の夜は相変わらず雑に明るい。
人の流れも、信号も、看板の光も、誰かの出会いなんか気にしていない顔をしている。
そういうところがいい、とルナは思う。
世界の方で意味をつけてこないから、こっちは勝手に意味を見つけられる。
「てか」
と絢音が言う。
「初対面でスタジオ誘うの、普通しないよね」
「そう?」
「たぶん」
「音の話が通じたから」
「雑な口説き文句みたい」
「違うよ」
「違わない感じで言ったよ」
ルナは少しだけ笑って、肩をすくめた。
たぶん、違わないのかもしれない。
少なくとも音楽に関しては、人は少し簡単に誰かを好きになる。
スタジオまでの道は、思ったより短かった。
まだ何も形にはなっていない。
それでも、止まっていた空気に少しだけ別の風が入った気がした。