
ワヤカグラ‼︎第一幕 「桃色夜叉」 #10 そして、夜は明ける。
#10 そして、夜は明ける。
「とりあえず、そこに寝かしとけ」
喫茶ルパンの駐車場に、低い声が落ちた。
夜の空気には、まだ排気ガスと血の匂いが残っている。
「俺は姐さん迎えに行ってくる。お前らは先帰っとれ」
「おう。にしても、こいつが噂の姐さんの彼氏なんか」
ひとりが、喫茶店の扉にもたれかける青年を見下ろす。
「あんま強そうには見えんな」
「ダチって言っとらんかった?」
「アホか。建前じゃろーが」
「こんなひょろガキのどこがええんじゃ」
「てめぇは鏡見てから出直してこい」
「あ? なんか言ったか」
「静かにしろ。起きたら面倒だ」
単車のエンジン音が、一つ、また一つと遠ざかっていく。
静寂。
喫茶店の扉にもたれかかっていた青年は、ゆっくり目を開けた。
そして。
何事もなかったように立ち上がる。
「まったく。好き放題言ってくれるな」
口元の血を指で拭い、携帯電話を取り出した。
慣れた手つきで番号を押す。
「車を回してください。えぇ、お願いします」
短く告げ、電話を切る。
青年は空を見上げた。
春の月が、薄く雲を透かしている。
その顔を片手で覆った。
「あぁ、最高だ」
漏れた声は、ため息にも祈りにも似ていた。
「あのゴミのせいで、動画は撮り損ねてしまいましたけど」
先ほどまでいた廃倉庫を思い返す。
白い特攻服。
赤く火照った肌。
月明かりの下へ立つ鬼姫。
怒りに満ちた、けれどどこまでも美しい姿。
「あんな綺麗なのに」
青年は小さく笑う。
「どうして皆、逃げるんでしょうね」
両手を広げる。
もう一度、その光景を抱きしめるように。
静かに目を閉じた。

◇
鬼が去った廃倉庫には、かすかな呻き声だけが残っていた。
砕けたシャッター。
ひしゃげた鉄骨。
割れたコンクリート。
さっきまでそこにいた熱は、ゆっくり夜風へさらわれていく。
止めを刺されたはずの男が、わずかに目を開けた。
呼吸するだけで痛い。
身体は動かず、芋虫みたいに床を這うことしかできない。
「おうおう。生きとったか」
陽気な声。
麦わら帽子の大男が、壊れたシャッターの隙間から入ってくる。
「これはまた、アホなことしとったみたいじゃの」
男は床の亀裂を見下ろした。
嬉しそうに。
楽しそうに。
「ケンタのやつが知ったら殺されるで」
しゃがみ込み、鬼姫の残した傷跡へ触れる。
「鬼の姫さん。ありゃ、バケモンじゃな」
言葉とは裏腹に、その声には歓喜が混じっていた。
「……まぁ、やり合うことになっても、別に負ける気はせぇへんけど」
静かに笑う。
倒れた男は震えながら、その笑みを見上げることしかできなかった。
「お前さんも、よかったな」
大男は視線を向ける。
「最後の一撃。わざと外してもろうて」
鬼姫の踵は、男の頭を砕かなかった。
ほんの少し逸れ、床を破壊しただけだった。
「姫さんも、優しいとこあるんやな」
男の意識が沈みかける。
「おいおい。さすがにお陀仏かい」
大男は頭を掻いた。
「自業自得やな」
そして、ふと思い出したように笑う。
「にしても、あん兄ちゃん。きっしょいな」
倒れた男の目がかすかに動いた。
「拉致されても怖がる素振りも見せん。あの状況で、目ぇキラキラさせて笑っとったで」
大男は肩を揺らす。
「鬼の姫さんも大概じゃが、あれはあれでワヤじゃの」
出口へ向かう。
「岡山。楽しそうな町じゃのぉ」
数歩進み、足を止めた。
少し考えるように天井を見る。
そして。
「病院くらいは送っちゃるか」
戻ってくると、男をひょいと担ぎ上げた。
小さな呻き声。
「文句言える立場か。黙っとれ」
夜の倉庫街に、男の笑い声が残った。

◇
黒塗りの外車が、駅外れの通りで静かに停車した。
運転席には、黒いスーツ姿の女性が座っていた。
顎のラインで切り揃えられた、ボブに近い短髪。
化粧気の薄い顔立ち。
煙草の匂いひとつしない、秘書みたいに整った女だった。
女はエンジンを切ると、自ら車を降り、後部座席のドアを開ける。
「若様。着きました」
「あぁ、ありがとうございます」
後部座席の青年は、甘い夢から現実へ戻るように目を開けた。
青年が車を降りる。
女は静かに続けた。
「党首様からの言伝です」
「なんでしょう」
「あまり自由にやりすぎるな、とのことでした」
「わかっています」
青年は短く返した。
「それと……あまり、あの者たちと関わるのは控えた方がよろしいかと」
「それも祖父の言葉ですか?」
「いえ」
「なら、黙っていてもらえますか」
声音は穏やかだった。
だからこそ冷たい。
女は小さく頭を下げる。
「失礼いたしました」
青年は柔らかく笑った。
「いえ、大丈夫です」
そして、商店街の方へ歩き出す。
「ありがとうございました。帰りもお気をつけて」
振り向きもせず手を振る。
女は、その背中を静かに見送っていた。

◇
BARアラモット劇場には、殺伐とした空気が流れていた。
シオンとジンヤ。
仲が良いのか悪いのか。
出会ってから三時間。
少しの来客時間を除き、二人の口喧嘩はほとんど止まっていない。
マスターのアライは限界だった。
場の空気も。
酔い具合も。
全部限界だった。
カランカラン。
もう閉店しようかと本気で悩んでいた、その時。
新たな客が扉を開けた。
イオリだった。
アライの目が輝く。
助かった。
これで少しは空気が変わる。
そう思った。
しかし。
イオリはカウンターへ座るジンヤを見るなり、一歩下がった。
そのまま無言で扉を閉めようとする。
「待って!! イオちゃん待って!!」
アライは酔っ払いとは思えない速度で飛びついた。
「お願いじゃけぇ!! ここおって!! 助けて!!」
数秒後。
イオリは店内へ戻ってきた。
どうやら涙ながらの説得に負けたらしい。
シオンがグラスを傾ける。
「久しぶりね。その様子だと、うまくいったのかしら?」
「えぇ、まぁ」
イオリは穏やかに笑った。
「見たかったものは見れました」
「ふーん」
頬杖をつきながら、シオンの口角が上がる。
その奥で。
ジンヤの瞳は、イオリをじっと見ていた。
まるで山道で、見慣れない獣の足跡でも見つけたように。
イオリも気づいている。
だが何も言わない。
劇場の夜は長い。
珍しく落ち着いた店内で、アライはまた酒を飲み干した。
◇
あの夜から四日が経った。
翌日。
気まずそうに出勤したトウカへ、佐藤達は泣きついた。
どうやら彼女達は、トウカの安否が心配で一睡もできなかったらしい。
目元には、化粧でも隠しきれないクマが浮かんでいた。
話によると、あの日の市道での騒ぎは、居眠り運転による単独事故として報道されたそうだ。
怪我人なし。
暴力事件については、何一つ報じられなかった。
店長には怪我が治るまで出勤停止を命じられた。
「まずは怪我を治してください。客商売ですしね」
昨日あんなことがあったのに。
この店の人達は、いつも通り接してくれる。
そして今日。
痛みもほとんど消え、トウカは仕事へ復帰した。
「お、おはようございます」
扉を開ける。
店長達が固まった。
やっぱり、来るべきじゃなかったのかもしれない。
そう思った瞬間。
全員が一斉に駆け寄ってきた。
「いやいやいや!! 怪我もう治ったの!?」
「普通に大怪我だったよね!?」
「若いっていいわねぇ」
「若さで済む怪我じゃないでしょこれ!」
どうやら皆、全治一か月くらいを想定していたらしい。
四日で出勤してくるとは思っていなかったのだろう。
開店前作業を放り出し、事情聴取が始まる。
店長は代わりに店内を走り回っていた。
「おはようございます!」
入口から爽やかな声。
「あ、イオリくんおはよう!」
佐藤へ軽く会釈し、イオリは真っ直ぐトウカの方へ歩いてくる。
あの日。
イオリが攫われた日。
私の正体を見られてしまった日。
それ以来の再会だった。
どうしよう。
気づかれているだろうか。
怒っているかもしれない。
軽蔑されているかもしれない。
トウカは目を伏せることしかできなかった。
「先日はすみませんでした!」
イオリが勢いよく頭を下げる。
「えっ?」
「あの日、一緒に帰る約束だったのに。本当にすみません」
深々と頭を下げたまま続けた。
「よく覚えてないんですけど、公園で待っていたはずなのに、気づいたらここにいて。店も閉まっていましたし」
顔には青黒い痣。
首元には湿布。
それでも詳しく語ろうとはしない。
私を心配させないため。
彼なりの優しさなのだと、トウカは思った。
「私のほうこそ、ごめん」
謝りながらも。
胸の奥で、ほんの少しだけ安心してしまう。
その様子を、喫茶店の面々がニヤニヤ眺めていた。
「なんでトウカさんが謝るんですか?」
イオリが顔を上げる。
そしてようやく包帯へ気づいた。
「ていうか、え? トウカさん、その怪我どうしたんです!? 大丈夫なんですか!?」
慌てるイオリ。
佐藤達はますますニヤニヤする。
店長がフライパンを軽く叩いた。
カン、カン。
「はいはい皆さん。そろそろ仕事戻ってください」
店長は笑う。
「今日も元気に営業しますよ!」
カランカラン。
扉が開く。
「いらっしゃいませ!」
トウカの声が店内へ響いた。
少しだけ震えていた。
けれどそれは。
確かに彼女自身の声だった。

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第一章 桃色夜叉編 完
