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唐にはどんな化け物がいるんだろう?/漫画『巡礼の印』第2話(巻末歴史解説付)

不遇のバンドマン竜星が立ち寄ったライブハウス。
そこではめずらしい楽器によりペルシア音楽が演奏されていた。
自分が過去につくった曲とそっくりなメロディ。

きづくとそこは奈良時代の平城京。

高官でも貴族でもない中級官人の広成はなぜ遣唐使を目指すのか。
そこには大切なひとたちの死が関係していた。


第2話本編(ビューア)

平群広成 - Wikipedia


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ビューアが落ちるときは

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★巻末歴史解説シリーズ「遣唐使とは?」

平城京は日本の都であると同時に、
唐を通じて遠い世界の文化が届く場所でもありました。
音楽、仏教、書物、制度、衣装、器物。
奈良の都に入ってくるものの多くは、
海の向こうの巨大な国・唐とつながっていました。

では、その唐へは誰が行ったのでしょうか。

その答えが、遣唐使です。

遣唐使は、遣隋使から続く道だった

遣唐使の前には、遣隋使がありました。

6世紀末から7世紀初め、
中国大陸では長い分裂を終わらせた隋が力を持ちます。
日本列島の政権も、その巨大な国と外交関係を結び、
制度や文化を学ぼうとしました。

有名なのは、607年に派遣された小野妹子です。
聖徳太子の時代の遣隋使として知られ、
翌608年には隋の使者・裴世清が日本を訪れました。
さらに608年の派遣では、高向玄理、南淵請安、僧旻らが
留学生・学問僧として海を渡ります。

彼らは長く大陸に滞在し、隋の滅亡と唐の成立を見ました。
そして帰国後、日本の政治改革や仏教、学問に大きな影響を与えていきます。

618年に隋が滅び、唐が成立すると、
日本の使節も「遣唐使」と呼ばれる時代へ移ります。
最初の遣唐使は630年。
そこから9世紀まで、途切れながらも何度も使節が派遣されました。

遣唐使とは、突然始まったものではありません。
遣隋使から続く、「海の向こうの大国を見て、日本を作り変える」長い流れの中にありました。

何をしに唐へ行くのか

遣唐使の仕事は、ひとことで言えば外交です。

大使や副使たちは、朝廷を代表して唐へ向かい、国書や贈り物を届け、
唐の皇帝のもとで儀礼を行いました。
これは、日本が東アジアの国際秩序の中でどのようにふるまうかを決める、たいへん重要な仕事でした。

けれど、遣唐使の役割はそれだけではありません。

一行には、官人、通訳、船を動かす人々、医師、陰陽や暦に関わる人々、
留学生、留学僧などが加わりました。
彼らは唐で学び、見聞し、必要な書物や知識を持ち帰ります。

持ち帰られたものは多岐にわたります。

  • 律令や官僚制度の知識

  • 儀礼、礼法、朝廷運営の作法

  • 仏教の経典、教義、寺院制度

  • 暦、天文、医薬、音楽、工芸の知識

  • 書物、文書、漢詩文の教養

  • 朝鮮半島や大陸情勢についての情報

つまり遣唐使は、「唐のまねをするため」だけに行ったのではありません。

世界の中心と見なされた唐を観察し、その制度や文化を日本に合う形で取り入れ、国を強くする。
そのための国家プロジェクトでした。

広成たちの前にいた人々

広成たちが生きる少し前にも、重要な遣唐使がいました。

たとえば702年の派遣です。大宝律令ができた直後の時代で、
日本が律令国家として形を整えたあと、唐へ正式な使節を送ります。
この一行には粟田真人、山上憶良、道慈らがいました。

粟田真人は使節の中心人物として唐へ渡った官人です。
山上憶良はのちに『万葉集』にも作品を残す歌人として知られます。
道慈は僧で、帰国後に仏教界で重要な役割を担いました。

そして、広成たちの直前の世代として特に大きいのが、
717年の遣唐使です。

このときの一行には、のちの歴史に名を残す若者や僧がいました。

阿倍仲麻呂。
吉備真備。
玄昉。
井真成。

阿倍仲麻呂は唐に留まり、唐の官人として仕えたことで知られます。
日本を出た若者が、長安の都で唐の知識人たちと交わり、
そのまま大陸に人生を置くことになった人物です。

吉備真備は、唐で幅広い学問を修めた人物です。
帰国後、政治や教育に関わり、日本の朝廷で大きな存在になっていきます。

玄昉は僧として唐へ渡り、仏教を学びました。
帰国後は経典や仏教知識をもたらし、
奈良時代の仏教と政治の中心に近づいていきます。

井真成は、長く名前が知られていなかった留学生です。
西安で墓誌が発見されたことで、
唐の都で亡くなった日本人留学生として注目されるようになりました。

彼らは同じ船団で海を渡りながら、
それぞれまったく違う運命をたどりました。
帰る者、帰れない者、政治の中心へ入る者、大陸で命を終える者。

遣唐使とは、制度や文化を運ぶ船であると同時に、
人の人生を大きく変えてしまう船でもあったのです。

まとめ

732年の平城京で、唐は遠い国でありながら、とても近い存在でした。

朝廷の制度も、貴族の教養も、寺院の仏教も、都に響く音楽も、
唐という巨大な世界とどこかでつながっています。

その唐へ向かう使節に選ばれることは、名誉でした。
未来を開く道でもありました。

けれど、その海の向こうへ行った人々の全員が、
同じように帰ってこられたわけではありません。

次回は、遣唐使の旅そのものを見ていきます。

彼らはどこから船に乗り、どんな海を越え、
どんな危険の中で唐へ向かったのでしょうか。


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