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読むギャラリー #01 アンリ・ルソーは地面から少し浮いていた。

    カノマコト

    私はジャングルを見た
    ――地に足のつかない画家

    アンリ・ルソーは、自分を大きく描いた。
    一八九〇年のことだった。
    セーヌ川がある。橋がある。船がある。エッフェル塔がある。空には気球まで浮かんでいる。
    その全部を押しのけるようにして、画面の真ん中にアンリ・ルソーが立っていた。
    黒い服。
    立派な髭。
    ベレー帽。
    右手には筆。
    左手にはパレット。
    どう見ても、パリより本人の方が重要だった。
    アンデパンダン展でその絵を見た男が笑った。
    「ずいぶん大きく描きましたね」
    ルソーは絵と男を見比べた。
    「誰を?」
    「あなたですよ」
    「私は画家ですから」
    「それで?」
    「画家は大きいでしょう」
    男はもう一度笑った。
    ルソーは笑わなかった。
    彼には昔から一つの癖があった。
    大事なものは大きくなる。
    興味のないものは小さくなる。
    遠くにあるから小さい、近くにあるから大きい、などという世間の決まりは、彼の絵の中ではあまり力を持たなかった。
    旗が好きなら旗が大きくなる。
    新しい乗り物が好きなら飛行船が空を横切る。
    女が好きなら女が大きくなる。
    そして植物が好きになってからは、葉っぱが世界そのものになった。
    逆に、どうでもいいものは雑だった。
    とくに靴がいけなかった。
    ルソーの描く人間は、しばしば地面から少し浮いた。
    「この人、立ってないじゃないか」
    展覧会で誰かが言った。
    「浮いてるぞ」
    また笑い声が起きた。
    ルソーは絵を見た。
    確かに浮いていた。
    少し考えた。
    「立っていますよ」
    それで終わった。
    直さなかった。
    *
    当時のルソーは、まだパリ市の職員だった。
    後世には「税関吏ルソー」と呼ばれることになるが、国境で密輸品を摘発していたわけではない。パリへ入ってくる商品から税を取る入市税関の職員である。
    朝、仕事へ行く。
    夕方、帰る。
    暇ができるとルーヴルへ行く。
    絵を見る。
    家へ帰って描く。
    誰にも習っていなかった。
    だから上達するのに時間がかかった。
    というより、不思議なことに、あまり上達しなかった。
    十年前に浮いていた人間は、十年後にも浮いていた。
    遠近法もなかなか直らなかった。
    人体も妙だった。
    普通なら、それを「才能がない」と言う。
    ただし本人だけは、別の意見だった。
    四十歳のころ、ルソーは美術行政を担当する大臣に手紙まで出している。
    自分には才能がある。
    ただ、まだ世に出してくれる人がいない。
    誰かが自分を押し出してくれれば、芸術に専念できる。
    だいたいそういう内容だった。
    返事らしい返事は来なかった。
    ルソーは気にしなかった。
    大臣が見る目を持っていない可能性もある。
    その程度に考えた。
    四十九歳で役所を早期退職した。
    これで画家になれる。
    正確には、それまでも本人は画家のつもりだったから、
    これで一日中画家でいられる。
    その違いだった。
    金はなかった。
    名声もなかった。
    注文もほとんどなかった。
    だが、自信だけはすでに巨匠だった。
    *
    彼がパリ植物園へ通うようになると、絵はさらにおかしくなった。
    温室に入る。
    眼鏡が曇る。
    ルソーは眼鏡を外した。
    巨大な葉がぼんやりと重なった。
    一枚。
    その後ろに一枚。
    さらに一枚。
    緑の後ろに別の緑。
    黄緑。
    青緑。
    黒に近い緑。
    黄色を含んだ緑。
    ルソーは動かなくなった。
    係員が三十分後に戻ってきても、まだ同じ葉を見ていた。
    「ムッシュー」
    返事がない。
    「ムッシュー・ルソー」
    「ああ」
    「何をしているんです」
    「見ています」
    「それは分かります」
    ルソーは柵の中へ片足を入れた。
    「入らないでください」
    「裏が見えないんです」
    「何の?」
    「葉の」
    「葉の裏を見る必要がありますか」
    ルソーは係員を見た。
    本気で言っているらしい。
    この男は葉を一度も描いたことがないのだ。
    そう思った。
    家へ戻ると、昼間見た葉を描いた。
    だが、どうも小さい。
    もっと大きくした。
    隣に別の葉を足した。
    植物園にはなかった葉だった。
    構わず描いた。
    赤い花を置いた。
    それもなかった。
    黄色い花も咲かせた。
    翌日、動物園へ行った。
    虎を見た。
    じっと見た。
    帰って虎を描いた。
    何かがおかしい。
    もう一度動物園へ行った。
    もっとよく見た。
    帰って描き直した。
    前よりおかしくなった。
    ルソーは長いこと絵を見た。
    「こっちの方が虎らしいな」
    そう言った。
    それから虎は、見たこともない森の中へ入った。

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    アンリ・ルソー《熱帯嵐のなかのトラ》1891年


    やがて人々が尋ね始めた。
    「ムッシュー・ルソー。あなた、熱帯へ行ったことがあるんでしょう?」
    「熱帯?」
    「メキシコですよ。軍隊時代に」
    ルソーは黙った。
    軍隊にはいた。
    メキシコには行っていない。
    フランスから出たことすらなかった。
    「やっぱりそうでしょう」
    男は勝手に納得した。
    「でなきゃ、こんな森は描けない」
    ルソーは自分の絵を見た。
    巨大な植物。
    絡み合う蔓。
    奇妙な花。
    暗闇から覗く獣の目。
    行った覚えはない。
    しかし、不思議なことに、見覚えはあった。
    「まあ」
    ルソーは言った。
    「そんなところです」
    それが始まりだった。
    一度話すと、二度目には話しやすくなる。
    三度目には匂いがついた。
    四度目には音が加わった。
    湿った土。
    夜の虫。
    遠くの獣。
    五度目には暑さまで思い出した。
    もちろん、存在しない記憶だった。
    だが人間は、実際に起こったことだけを記憶するのだろうか。
    毎晩見る夢は、一度も起こっていない。
    それでも翌朝には覚えている。
    ならば、絵の中で何度も歩いた森を「見た」と言って、何が悪い。
    ルソーは、そのあたりの境界をあまり気にしなかった。

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    アンリ・ルソー《蛇使いの女》1907年


    肖像画を描くときだけは、驚くほど几帳面だった。
    モデルを立たせる。
    巻尺を取り出す。
    身長を測る。
    肩幅を測る。
    腕を測る。
    脚を測る。
    頭も測る。
    「そこまで測るんですか」
    アポリネールが尋ねたことがある。
    「似せなければいけないからね」
    ルソーは真剣だった。
    やがてアポリネールと恋人のマリー・ローランサンを描いた。

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    アンリ・ルソー《詩人に霊感を与えるミューズ》1909年


    完成した絵を見た二人は黙った。
    測ったはずだった。
    ずいぶん測った。
    なのに、どこかおかしい。
    ローランサンが実物より大きく見える。
    人物の釣り合いも妙だった。
    ところがルソーが気にしたのは、そこではなかった。
    花だった。
    詩人を表す花を間違えた。
    それが問題だった。
    人物の不自然さより、花が違う方が重大だった。
    もう一枚描くことにした。
    今度は花を直した。
    人物は、だいたい同じだった。
    ルソーにとって、それで修正は完了した。
    *
    彼は女にもよく恋をした。
    妻を愛した。
    妻が死ぬと悲しんだ。
    再婚した。
    また妻を亡くした。
    それでも恋をやめなかった。
    六十代半ばになって、レオニーという未亡人に夢中になった。
    求婚した。
    断られた。
    また求婚した。
    あまりに相手にされないので、ルソーは友人たちに頼んだ。
    自分がちゃんとした画家であることを書面にして証明してほしい。
    恋愛に推薦状を導入したのである。
    友人たちは困った。
    ルソーだけは真剣だった。
    「将来性のない男だと思われているんだ」
    六十四歳だった。
    将来性という言葉に、友人の一人は少し黙った。
    だがルソーにとっては正しかった。
    画家に年齢などあるものか。
    まだ描いていない傑作があるなら、その人間には将来がある。
    レオニーには、とうとうその理屈は通じなかった。
    *
    金にも弱かった。
    というより、世間に弱かった。
    一九〇七年、知人の企てた銀行詐欺に巻き込まれ、逮捕された。
    「なぜ偽名を使った?」
    取調官が尋ねた。
    「使えと言われたので」
    「怪しいと思わなかったのか」
    「思いませんでした」
    「なぜ?」
    ルソーは考えた。
    「忙しかったんです」
    「何に」
    「絵です」
    取調官はしばらく彼を見た。
    牢獄に入れられた。
    そこでルソーが困ったのは、灰色ばかりだったことである。
    壁。
    床。
    鉄格子。
    毛布。
    緑がない。
    ある夜、壁の染みに葉を見つけた。
    目を細めた。
    染みの後ろにもう一枚。
    その奥にも一枚。
    目を閉じる。
    森が現れた。
    開ける。
    壁。
    閉じる。
    森。
    開ける。
    壁。
    何度か繰り返していると看守が言った。
    「何をしている」
    「絵を見ています」
    「どこにある?」
    ルソーが目を開けた。
    「いま消えた」
    看守は去った。
    翌日から、その看守は必要以上に近寄ってこなくなった。
    *
    一九〇八年十一月、パブロ・ピカソがルソーのために宴会を開いた。
    場所はモンマルトルのバトー=ラヴォワール。
    ピカソは二十七歳。
    ルソーは六十四歳。
    親子ほど違った。
    ピカソは若いころから何でも描けた。
    人体。
    手。
    足。
    遠近。
    光。
    形。
    見たものを正確に描くことなど、少年のうちに終わらせていた。
    その男が、古物商でルソーの絵を見つけた。
    安かった。
    買った。
    そして手放さなかった。
    宴にはアポリネールやブラック、マリー・ローランサン、ガートルード・スタインらが集まった。
    料理は来なかった。
    ピカソが仕出し屋に日を間違えて伝えたからだ。
    酒だけはあった。
    誰かが詩を読んだ。
    誰かが歌った。
    ルソーはヴァイオリンを弾いた。
    あまり上手ではなかった。
    拍手が起こった。
    半分は本気。
    半分は面白がっていた。
    その境界は曖昧だった。
    ルソーは上機嫌だった。
    やがてピカソのところへ行った。
    「パブロ」
    「なんです、先生」
    「われわれ二人が、この時代でいちばん偉大な画家だ」
    近くで誰かが笑った。
    ルソーは続けた。
    「君はエジプト風で、私は現代風だ」
    今度はもっと大きな笑いが起こった。
    ピカソも笑った。
    だが少しして、壁に掛けたルソーの絵の前に立った。
    ルソーが隣へ来た。
    「おかしいかね?」
    ピカソは絵を見たまま言った。
    「おかしい」
    ルソーは少し傷ついた顔をした。
    「でも」
    ピカソは続けた。
    「僕には描けない」
    ルソーがピカソを見た。
    「なぜ?」
    ピカソは答えなかった。
    答えられなかったのかもしれない。
    ピカソには、正しく描く技術があった。
    正しく描いたものを壊す技術もあった。
    何十年もかけて、見ることを学んだ。
    そして今は、学んだものを忘れようとしていた。
    だが目の前の老人は違った。
    最初から、世界を正しく見ていなかった。
    あるいは、
    世界を正しく見る必要がなかった。
    「先生」
    「なんだね」
    「どうして人の足が浮くんです?」
    ルソーは自分の絵を見た。
    「浮いているか?」
    「少し」
    「そうかな」
    「遠近も変です」
    「そうかね」
    「人物の大きさもおかしい」
    「大事な人は大きくなるんだよ」
    ピカソは黙った。
    ルソーはそれを、冗談ではなく言っていた。
    だからピカソは、もう笑わなかった。
    *
    一九一〇年。
    アンリ・ルソーは六十五歳になっていた。
    アトリエには巨大なキャンバスがあった。
    《夢》。
    高さ二メートルあまり。
    幅は三メートル近い。
    緑。
    その後ろに緑。
    その奥にも緑。
    現実にはありえないほど巨大な葉。
    実際には水面へ浮かぶはずの植物が、空へ向かって立っている。
    花。
    猿。
    鳥。
    獅子。
    象。
    蛇。
    そして森の真ん中には、裸の女がソファに横たわっていた。
    ジャングルにソファ。
    どう考えてもおかしい。
    だが画面の中では、それ以外の置き場所など考えられなかった。

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    アンリ・ルソー 《夢》 1910年


    ルソーは葉を描いた。
    一枚。
    また一枚。
    別の緑。
    少し黄色。
    少し青。
    暗い緑。
    明るい緑。
    葉だけは、決して適当に描かなかった。
    何十年描いても人間の足は浮いた。
    遠近法は最後まで怪しかった。
    だが葉だけは、年を取るほど増えていった。
    まるで彼が一生かけて、世界に足りない植物を補充しているようだった。
    ある日、若い男がアトリエを訪ねた。
    絵を見ていた男が尋ねた。
    「どうして森の中にソファが?」
    ルソーは当然のように答えた。
    「女が夢を見ているからです」
    「夢?」
    「パリのソファに横になっている。でも夢の中では森にいる」
    男は絵へ近づいた。
    「この植物は何という名前ですか」
    「知りません」
    「こちらは?」
    「それも知りません」
    「実在するんでしょう?」
    「しないかもしれない」
    男は笑った。
    「あなたらしい」
    その言い方に、ルソーも少し笑った。
    男はしばらく《夢》を見ていた。
    そして言った。
    「一つ、聞いてもいいですか」
    「どうぞ」
    「メキシコの話です」
    筆が止まった。
    「あなたは若いころ軍隊でメキシコへ行き、そこでジャングルを見た。皆そう言っています」
    ルソーは黙った。
    長い沈黙だった。
    窓の外から馬車の音がした。
    「行っていないよ」
    男が振り返った。
    「え?」
    「メキシコには行っていない」
    「一度も?」
    「一度も」
    「では、ジャングルは?」
    「植物園」
    「これ全部が?」
    「動物園にも行った」
    「それだけ?」
    「新聞も見た。図鑑も見た。博覧会も」
    男は《夢》を見た。
    巨大な森。
    「でも、こんな場所はどこにもありませんよ」
    「そうだろうね」
    「あなたは一度も、本物のジャングルを見たことがない?」
    ルソーは窓の外を見た。
    パリだった。
    屋根。
    煙突。
    石畳。
    馬車。
    街路樹。
    どこにでもある午後。
    風が吹いた。
    街路樹の葉が一枚揺れた。
    その後ろに、もう一枚。
    さらにその後ろ。
    葉が増えた。
    煙突が消えた。
    屋根が消えた。
    舗道が消えた。
    巨大な葉の陰から猿がこちらを見た。
    赤い花が咲いた。
    白い花も咲いた。
    遠くで獅子が瞬きをした。
    月が昇った。
    蛇使いが笛を吹いている。
    ルソーには聞こえた。
    「ムッシュー?」
    男の声でパリが戻った。
    「どうしました?」
    「いや」
    ルソーは《夢》へ向き直った。
    「君の言う通りだ」
    「何がです?」
    「私は、本物のジャングルを見たことがない」
    男は手帳を開いた。
    ルソーは筆を取った。
    まだ一枚、葉が足りなかった。
    「でもね」
    「はい?」
    「それは少し変なんだ」
    「何が?」
    ルソーは緑の絵具を取った。
    植物園にも図鑑にも存在しない葉を描き始めた。
    「私は何度も行ったからね」
    男はペンを止めた。
    ルソーはもう答えなかった。
    その年の九月、アンリ・ルソーは死んだ。
    六十六歳だった。
    正式な美術教育を受けることはなかった。
    フランス国外へも出なかった。
    最後まで貧しかった。
    絵の人物は、最後まで少し浮いていた。
    遠近法も、最後までおかしかった。
    そして最後まで、自分が画家であることだけは、一度も疑わなかった。
    人々は長い間、彼の絵を見て笑った。
    足が地面についていない、と。
    たぶん、その通りだった。
    アンリ・ルソーは、少し地面から浮いていた。
    だから行けたのだ。
    地面を歩いていては、
    決してたどり着けない森へ。

    END

    ※本作はアンリ・ルソーの生涯と作品に関する史実・逸話をもとにしたフィクションです。人物の会話、内面、場面構成、最後の訪問者との対話などには創作を含みます。

    #読むギャラリー #アンリルソー#美術#絵画#アート#短編小説#美術エッセイ


     
     
     
    小説家・カノマコト。日常の小さな機微から、昭和の街、歴史の闇、AIの未来まで。短い物語と連載小説を書いています。絵画クイズなど、読んで、遊んで楽しめる企画も制作中。初めての方は固定記事へ。https://note.com/shu37564/n/n97768bf2b3ea

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