
【連続小説】『問屋街の次女』 第四章「三日分の給金」
その封筒には、次の試練が入っていました。
水色のブラウスは、朝になっても、袖口だけが乾いていませんでした。
東京の六月は、雨が降らなくても、洗濯物に湿り気を残すようです。
私は袖口へ手拭いを当て、その上から叔母に借りたアイロンを押しました。じゅっ、と小さな音がして、湯気が上がりました。
「焦がさないでよ」
台所から志津叔母さんが言いました。
「焦げたら、紺色を着ます」
「似合わないと言われたんでしょう」
「どうして知ってるの」
「ゆうべ、自分で三度も言ってたわよ」
私はアイロンを持ち上げました。
水色は、焦げていませんでした。
人から似合うと言われた服を着るのは、少し気恥ずかしいものです。自分で似合うと思って着るより、その人の目まで一緒に身につけるような気がします。
けれども私は、水色のブラウスへ腕を通しました。
仕事のためです。
そう思うことにしました。
叔母は、味噌汁をよそいながら、
「お昼は?」
と尋ねました。
「何か買います」
「東京のものは高いわよ」
「日当が出ます」
「まだ貰ってもいないお金を、もう使うの?」
叔母は、梅干しを入れた握り飯を二つ、竹の皮で包んでくれました。
働く前から人に弁当を作らせています。
これでは、自立というものも、ずいぶん手のかかる食べ物です。
東和洋装へ着いたのは、八時十分でした。
早すぎました。
遅刻をするなと言われると、私はたいてい早く着きすぎます。人間には、ちょうどよく出来ないことがいくつかあります。私は時間と、父への返事がそうでした。
店の前では、鉛筆を耳にはさんだ男の店員が、雨戸を外していました。
「早いね、問屋の娘さん」
「長谷川です」
「小坂です」
きのうは名乗らなかったくせに、私が名を言うと、小坂さんも名乗りました。
名前は、相手に求めると返ってくるものらしいのです。
「手伝います」
「水色、似合うじゃない」
「雨戸を手伝います」
私は一枚を持ち上げました。
褒められたときに、ありがとうと言えない女は可愛げがない、と母なら言うでしょう。可愛げで雨戸は軽くなりません。
けれども、少しうれしかったのです。
八時半になると、宇野さんはもう二階の裁断台に型紙を広げていました。
私のブラウスを見ると、
「そのほうがましね」
と言いました。
東京の女は、褒めるときにも半分しか褒めません。残りの半分は、相手が自分で足すのでしょう。
「三日間、何をすればいいですか」
「仕事」
「どの仕事ですか」
「空いている手が見つけるのよ」
宇野さんは裁断台の端に置かれた束を指しました。
昨日、山川さんが注文した格子のワンピースの伝票でした。灰色と白、茶色と白、紺色と白を六枚ずつ。合計十八枚。
「在庫を数えて。足りない分は生産へ回す。七月の二日までに埼玉へ着かせます」
「はい」
「返事だけは一人前ね」
私は一階へ降り、吊られた服の品番を確かめました。
格子のワンピースは、灰色が三枚、茶色が四枚、紺色が二枚ありました。同じ品番でも、大きさは一つではありません。東和洋装では、小さいものからS、M、Lと呼び分け、札にもその一文字を小さく打っていました。日本中で通じる決まりではなく、この店の型紙を見分けるための印です。同じMでも、よその会社へ行けば、身幅も丈も違うのでしょう。私は色と、この店で決めた寸法記号を表にし、注文分から在庫を引きました。
十八から九を引く。
九枚作ればよい。
それだけのことでした。
数字は東京弁を使いません。
昨日、私はそう思いました。
数字は、方言の代わりに、時々うそをつきます。
いいえ、うそをつくのは人間です。数字は、言われたとおりに並んでいるだけです。
私が作った表を、二階の裁断係の松井さんが見ました。髪を頭の後ろで丸く留めた、五十歳くらいの女の人です。裁ち鋏を握る右手の親指が、左より太く見えました。
「寸法が違うよ」
松井さんが言いました。
「注文は十八枚です」
「十八人が同じからだをしてるのかい」
伝票を見ると、山川さんの注文は、Sが四枚、Mが八枚、Lが六枚でした。在庫の九枚には、Lが一枚しかありません。
作るのは九枚。
けれども、私が書いた色ごとの枚数では作れません。
「すみません」
私は表を書き直しました。
「謝るのは服が出来てからでいいよ。先に手を動かして」
松井さんは、型紙を重ねながら言いました。
私は急いで鉛筆を動かしました。
岐阜の店では、反物にからだはありませんでした。
一反は一反。十反は十反です。
出来上がった服には、腕の長い人、胸の厚い人、腰の細い人が入ります。札に書かれた一文字の向こうに、まだ会ったことのない女のからだがありました。
午前十時前に、電話が鳴りました。
小坂さんが取り、二言三言話したあと、受話器を押さえました。
「宇野さん、山川洋品店です。きのうの格子、追加だそうです」
宇野さんは二階から降りてきて、受話器を取りました。
「はい、宇野です。ええ。……もう店頭へ? まあ、早いこと」
こちらを見て、指で伝票を書く真似をしました。
私は電話台へ帳面を広げました。
「灰色、S二、M六、L四。茶、S二、M四、L四。紺、S二、M六、L四」
宇野さんの声を追って、数字を書きました。
「合計は?」
「三十四枚です」
「今のだけで」
私は足し直しました。
十二、十、十二。
「三十四枚です」
「最初の十八と合わせて?」
「五十二枚」
「納期は最初の分が七月二日。追加は七月八日。承知しました」
宇野さんは受話器を置きました。
「売れたんですか」
私は尋ねました。
「きのう持ち帰った見本を、店へ出したそうよ。昼までに二枚売れて、四人が取り置きを頼んだ」
「二枚しか売れてないのに、三十四枚も?」
「二枚売れたからよ」
商売には、売れた数より、売れ方を見る目が要るのだそうです。
岐阜の父なら、同じことを言ったかもしれません。
「長谷川さん」
宇野さんが言いました。
「あなたが選んだ服よ」
胸の中で、何かがふくらみました。
誇らしさというものは、もっと静かにやって来るのかと思っていました。実際には、椅子を蹴って立ち上がる子供のようでした。
「はい」
「だから、浮かれてないで、生地を数えて」
子供はすぐ座らされました。
格子の生地は、三階の棚にありました。
灰色、茶、紺。それぞれ芯棒へ巻かれ、端に残りの長さを書いた札が刺してあります。
灰色、十一ヤード。
茶、十四ヤード。
紺、九ヤード。
合わせて三十四ヤード。
色ごとに必要な枚数を出し、見本のM寸に使った量を台帳で調べました。
一着、三ヤード四分の一。
在庫の九枚を除くと、新しく作るのは四十三枚。
四十三掛ける三・二五。
百三十九・七五ヤード。
足りません。
色を別にすれば、もっと足りません。
私は数字を二度確かめ、宇野さんへ見せました。
「不足は?」
「百六ヤードほどです。ただ、色ごとの不足は、灰色がいちばん多くて——」
「同じものが、まだ問屋に残っているかしら。あなた、聞いてみて」
「どこの生地ですか」
「岐阜」
私は顔を上げました。
宇野さんが、帳面の仕入れ先を指しました。
〈長谷川商店 岐阜市問屋町〉
父の店でした。
字が読めなかったのではありません。
読んでも、自分の家の名だと思わなかったのです。東京の会社の仕入れ台帳にあると、長谷川商店は、私の家ではなく、一軒の問屋でした。
「あなたのところ?」
「はい」
「知らなかったの」
「この生地を東京へ出していたことは」
父は、店のことを私に話しませんでした。
正しく言えば、父は話していたのです。どこへ何を出した、どの得意先が遅れた、今年は先染めが動く。食卓でも帳場でも、そういう話をしていました。
私は、女には決めさせない話だと思って、聞かないことにしていました。
聞かせない父と、聞かなかった私の、どちらが悪いのでしょう。
たぶん、どちらもです。
「電話して、在庫を聞いて」
宇野さんが言いました。
「私が?」
「ほかに誰がいるの」
昨日も聞いた言葉でした。
昨日は、うれしく聞こえました。
今日は、逃げ道を閉める言葉に聞こえました。
電話台の前へ座り、岐阜の番号を交換手へ告げました。
呼出音を待つあいだ、受話器が汗で滑りました。
やがて、聞き慣れた男の声がしました。
「はい、長谷川商店」
父でした。
「お父さん」
返事がありません。
遠くで、店の電話がもう一つ鳴っていました。荷車の音もしました。東京の受話器から、岐阜の店の午前が聞こえました。
「千代か」
「はい」
「何かあったか」
その声で、私は、自分が黙って働いていることを思い出しました。
昨日までは、言わないでおくつもりでした。三日で辞めさせられたら恥ずかしいからです。
恥ずかしさは、ずいぶん勝手な理由です。人をだますときにも、自分を守る名前をつけます。
「仕事の電話です」
私は言いました。
「何や」
「東京の、東和洋装から」
「ほんなら、店の名を先に言え」
私は受話器を握り直しました。
「東和洋装の長谷川です」
言ってから、東和洋装の長谷川ではない、と思いました。
三日だけの長谷川です。
父は、それを知りません。
「先日お願いした先染めの格子ですが、追加でお願いしたいのです。在庫はございますか」
「品番は」
台帳を見て答えました。
「Gの二一七。灰、茶、紺です」
「数量は」
「三色合わせて、三反半あれば」
私は、足りない百六ヤードへ裁ち落としの分を足し、百二十五ヤードなら充分だと考えました。
電話の向こうで、紙を繰る音がしました。
「各色か」
「いえ、全部で」
「灰二反、茶一反、紺一反ならある」
「では、灰ニ反、茶一反、紺を半反」
「切れ言うんか」
父の声が低くなりました。
反物は、長いままなら売れます。半分に切れば、残り半分は売りにくくなります。
そんなことは、知っていました。
知っていて、電話をするまで考えませんでした。
「必要なので」
「そっちの必要で、こっちに切れを残すんか」
私は返事が出来ませんでした。
宇野さんが、横から手を出しました。
私は受話器を渡しました。
「代わりました。東和洋装の商品部、宇野です」
宇野さんの声は、さっきまでと違いました。低く、ゆっくりしていました。
「いつもお世話になっております。このたびは追加分で、急なお願いを申し上げます。……ええ。灰ニ反、茶一反、紺一反で結構です。残りはこちらで持ちます。単価は前回と同じ、支払いは月末締めの翌月十日で。鉄道小荷物の急行扱いにしていただけますか」
私が三反半と言ったものを、宇野さんは四反買いました。
父と、値段と、支払いと、送り方を決めました。
電話を切ると、宇野さんは受話器を置いたまま、私を見ました。
「あれは商談じゃないわ」
「在庫は聞きました」
「買う人と売る人の都合を決めるのが商談よ。あなたは、自分の足りない分を、お父さんに頼んだだけ」
「すみません」
「謝るのは服が出来てから」
松井さんと同じことを言いました。
この会社では、謝ることまで、あと回しでした。
四反あれば、生地は足りる。
私はそう思いました。
そして、その日の午後、それも違うとわかりました。
松井さんが、私の必要量の表を裁断台へ置きました。
「これ、誰が出したの」
「私です」
「見本のM寸だけで掛けたね」
「一着三ヤード四分の一です」
「それはMの無地使いなら、だよ」
「無地じゃありません」
「だから言ってるの」
松井さんは格子の生地を広げ、型紙を置きました。
前身頃の中心に、白い線を通す。
左右の脇で、灰色の四角が同じ高さになるようにする。
襟も、ポケットも、柄を合わせる。
一枚を少しずらすたび、使えない幅が生まれました。
「花柄なら、空いたところへ袖を入れられる。これは入らない。格子が曲がると、着た人のからだまで曲がって見えるよ」
松井さんは、端に〈L〉と書かれた型紙を重ねました。この店でL寸と呼んでいる、いちばん大きな型紙です。
M寸より、身頃が広い。
袖も、腰も違います。
「それから、この生地は水を通すと詰まる。地直しの分を見た?」
私は黙りました。
「傷もある。織り疵まで服にするつもり?」
「いいえ」
「じゃあ、もう一度」
裁断台のまわりに、女たちが集まりました。
縫製の堀さんは、ポケットの柄を合わせるなら左右で八インチ余計に見ると言いました。
仕上げの宮下さんは、蒸気を当てて縮む分を忘れるなと言いました。
出荷を担当する小坂さんは、予備を二枚作らないと、汚れや針傷が出たとき納品数が欠けると言いました。
「予備まで売るんですか」
私が尋ねると、
「売らないために作るんだよ」
松井さんが言いました。
売らない服にも、生地が要るのでした。
一着ずつ型紙を置き、S、M、Lの数を分け、色ごとに足しました。
三ヤード四分の一ではありません。
Sは三ヤード半。
Mは三ヤード四分の三。
Lは四ヤードと少し。
地直し、柄合わせ、織り疵、予備。
足していくと、私の見積もりより四十ヤード近く増えました。
父の店から四反届いても、灰色と紺が足りません。
私は、もう一度、全部を足しました。
何度足しても、足りませんでした。
数字は怒りません。
ただ、逃がしてくれません。
「お父さんのところへ、もう一度電話します」
私は言いました。
「同じものは、もうないんでしょう」
宇野さんが言いました。
「別の生地を探してもらいます」
「別の生地で、同じ品番の服を作るの?」
「似た格子なら」
「山川さんは、見本を見て注文したのよ」
宇野さんは怒鳴りませんでした。
怒鳴られたほうが、楽だったかもしれません。
「あなたは電話で、七月八日に三十四枚届けると言ったわ」
「はい」
「その約束を守るのは誰?」
「私です」
「あなた一人で、三十四枚縫える?」
私は、ミシンの前に座る女たちを見ました。
「縫えません」
「裁てる?」
「いいえ」
「生地を織れる?」
「いいえ」
「運べる?」
「全部は」
「なら、あなた一人の約束じゃない」
ミシンの音が止まっていました。
部屋にいる全員が、私たちの話を聞いていました。
恥ずかしくて、顔を上げられませんでした。
私は昨日まで、父が私に仕入れをさせないことを、信用していないからだと思っていました。
信用とは、任せることだと思っていました。
違うのかもしれません。
一人の口から出た数字が、何人の手と時間を動かすのか、知っていること。
その重さまで相手に渡すこと。
それが、任せるということなのかもしれません。
私は、まだ軽すぎました。
「どうすればいいですか」
その言葉を口にしたとたん、自分がいっそう軽くなった気がしました。
宇野さんは、すぐには答えませんでした。
松井さんが、灰色の格子へ型紙を置き直しました。
「襟とポケットを別布にするなら、少し浮くね」
「見本と変わります」
私は言いました。
「変わるよ」
「白い無地なら?」
堀さんが、生地棚から木綿の白を持ってきました。
格子の上へ重ねると、襟だけが明るく浮きました。
「汚れが目立つ」
宮下さんが言いました。
「取り外せるようにしたら?」
若いミシン係の早苗さんが言いました。
「洗うときに外せるし、別の襟もつけられる」
「ボタンが増える」
「四つです」
「三十四枚なら百三十六個」
「予備も」
「また予備」
女たちが笑いました。
私は笑えませんでした。
松井さんが、私の肩を軽く叩きました。
「間違えた人が、いちばん暗い顔をしてどうするの。暗い顔じゃ、生地は伸びないよ」
「すみません」
「それはあと」
また言われました。
裁断台の上で、格子の服が少しずつ変わっていきました。
襟を白い無地にする。
ポケットは格子のまま、柄を斜めに取る。左右を同じ向きにすれば、柄合わせが要らず、見た目にも違いが出ます。
袖口の裏にも白を使う。折り返せば明るく見える。
必要な格子は減りました。
白い生地と、ボタンと、縫う手間は増えました。
一つを減らすと、別の一つが増えます。
商売は、帳尻を合わせる仕事なのかもしれません。
ただし、帳尻の向こうには、いつも誰かの手がありました。
「山川さんに聞きます」
宇野さんが電話をかけました。
見本と違うこと。
納期を守るための変更であること。
取り外しの襟をもう一枚つけること。
値段は上げないこと。
最後の一言に、私は顔を上げました。
「上げないんですか」
電話を切ってから尋ねました。
「こちらの見積もり違いで、得意先に払わせるの?」
「でも、白い生地とボタンと手間が」
「うちが払うの」
「損です」
「そうよ」
宇野さんは、何でもないように言いました。
「商売は、損をしない仕事じゃない。どの損を自分で引き受けるか決める仕事よ」
父も、そうしてきたのでしょうか。
私は、父が損をしたところを見たことがありません。
いいえ、見せなかっただけかもしれません。
私たちは夕方まで、型紙を置き直し、必要量を計算しました。
父の店から届く四反で足りることがわかりました。
ぴったりではありません。
灰色が六ヤード、茶が九ヤード、紺が四ヤード残ります。
その残りまで売る方法を考えるのが、次の仕事だと宇野さんは言いました。
会社を出たのは、七時を過ぎていました。
初日から残業でした。
私がさせた残業です。
荻窪へ帰ると、叔母が冷えた麦茶を出してくれました。
握り飯は、一つだけ食べて、一つは鞄に残っていました。
竹の皮を開くと、梅干しの赤が飯へにじんでいました。
「失敗したの」
叔母が尋ねました。
「どうしてわかるの」
「成功した人は、もっと大きな声で疲れたと言うわ」
私は残った握り飯を食べました。
冷たく、少し硬くなっていました。
「生地の量を間違えました」
「足りなかった?」
「足りなくなるところでした」
「なら、まだ失敗してないじゃない」
「みんなに直してもらいました」
「それが嫌なの?」
「自分で働きに行ったのに」
叔母は麦茶を飲みました。
「一人で何でも出来ることを、働くっていうの?」
私は返事をしませんでした。
東京へ来れば、私は一人になると思っていました。
父の娘でも、母の娘でも、縁談のある女でもない、ただの長谷川千代になれる。
けれども一人で働くために、叔母に握り飯を作ってもらい、父の店から生地を送り、知らない女たちに計算を直してもらいました。
ただの長谷川千代は、ずいぶん大勢の人で出来ていました。
「お父さんには話したの?」
「仕事の電話をしました」
「怒った?」
「店の名を先に言え、と」
叔母は笑いました。
「兄さんらしいわね」
「お父さんが兄さん?」
「私にとっては義理の兄さんよ。あなたが生まれる前から、お父さんだったわけじゃないの」
父にも、父でなかった時間がある。
そんな当たり前のことを、私は初めて聞いたような気がしました。
「明日、怒られるかもしれません」
「宇野さんに?」
「お父さんに」
「電話で?」
「生地の送り状に、何か書いてくるかも」
「商売の荷物に、娘への小言を書くような人?」
「書きません」
「じゃあ、怒られないわよ」
叔母は簡単に言いました。
怒らないことは、許すことと同じではありません。
父は、ときどき、怒るより遠いところへ行きます。
二日目、私は七時五十五分に会社へ着きました。
さらに早くなりました。
失敗をすると、人は早起きになります。早く行けば昨日を取り戻せるわけではありません。それでも、寝ているよりはましです。
私は一階を掃き、前日の伝票を揃え、格子のワンピースを、この店の寸法記号ごとに分けた一覧へ作り直しました。
S、M、L。
灰、茶、紺。
在庫、裁断、縫製、仕上げ、出荷。
一枚の服が、欄を一つずつ移っていきます。
帳面の上では、服は真っ直ぐ進みます。
実際には、糸が切れ、針が折れ、襟がずれ、人が咳をします。
十時すぎ、岐阜から電話がありました。
「長谷川さん」
小坂さんに呼ばれ、私は受話器を取りました。
父かと思いました。
伊藤さんでした。
店の番頭です。
「千代ちゃん、えらいところから注文してきたな」
「仕事の電話です」
「そうやった。長谷川さん」
伊藤さんは、わざとらしく言い直しました。
「四反、昼の荷で出します。灰の一反だけ、同じ品番やけど織った日が違う。並べると、白が少しだけ明るい」
「どれくらい違いますか」
「見ればわかる。着れば、わからん」
「それでは困ります」
「ほう」
伊藤さんの声が、少しうれしそうになりました。
「何が困る」
「左右の身頃に別の反を使ったら、色が違って見えます。同じ服の部品は、同じ反から取ってくださいと、札に書いてください」
「わかった。ほかは」
「反ごとに、巻き始めへA、Bと印をつけてください。送り状にも書いて」
「誰に教わった」
「仕事をしてる人です」
「千代ちゃんも、仕事しとるんやろ」
返事に困りました。
伊藤さんは、電話の向こうで笑いました。
「旦那さん、何も言わんかったけどな」
「はい」
「きのう、あんたが電話してきてから、四反とも倉から出して、自分で耳を見とった」
「お父さんが?」
「仕事の電話や。余計な話は、帰ってから聞き」
電話は切れました。
父が、格子の耳を見ている姿を思いました。
私のためではありません。
東和洋装へ売る商品のためです。
そう思うと寂しくなり、同時に、少しうれしくなりました。
娘の頼みでなく、商売の品として送ってくれる。
私は初めて、父と同じ帳面の上に立ったような気がしました。
ほんの端でしたけれど。
その日は、格子のワンピースの見本を作り直しました。
白い取り外し襟をつけ、ポケットの格子を斜めにしました。袖口を折り返すと、白が細くのぞきます。
早苗さんが仮縫いをし、私が着ました。
「どうして私が」
「その服を選んだ人でしょう」
宇野さんが言いました。
M寸は、私には腰が少しゆるく、肩はちょうどでした。
私は伝票と鉛筆を右のポケットへ入れ、左へ鍵束を入れました。
両腕を上げました。
裾は持ち上がりません。
そのまま、しゃがみました。
背中もつれません。
白い襟だけが、私の顔を少し明るく見せました。
「きれいね」
早苗さんが言いました。
「服が?」
「両方って言ってほしい顔してる」
「してません」
女たちが笑いました。
宇野さんは笑わず、私の後ろへ回り、背中の布を指でつまみました。
「ここ、余るわね」
「私が薄いんです」
「服のせいを着る人にさせないの」
背中のダーツを半寸深くすることになりました。
服は、出来上がっているように見えても、誰かが着ると、また直すところが見つかります。
人も同じかもしれません。
一人で立っているときには、どこが余っているのか、自分ではわかりません。
昼休み、女たちは裁断台のまわりで弁当を食べました。
私は叔母の握り飯を開きました。
早苗さんが、私の縁談のことをどこかで聞いたらしく、
「結婚したら、岐阜で洋品店をやれば?」
と言いました。
「相手は洋品店じゃありません」
「何屋さん?」
私は答えかけて、やめました。
水野さんの家のことを、私は詳しく知りませんでした。父から聞いたのは、堅実な家で、達夫さんは真面目で、これから商いを広げる気がある、ということです。
相手の人柄より、商売の見込みのほうを多く聞いていました。
「まだ、わかりません」
私が言うと、女たちは笑いました。
「便利な言葉ねえ」
叔母と同じことを言いました。
「東京に残るの?」
今度は堀さんが尋ねました。
「あさって帰ります」
「せっかく仕事を覚えたのに」
「二日で覚えた顔をしないの」
松井さんが言いました。
「この人、きのう一反ぶん間違えたんだから」
みんながまた笑いました。
私も笑いました。
失敗を、人に笑われることが、少しだけ平気になっていました。
笑える失敗にしてくれたのは、その人たちです。
午後、山川洋品店から電報が来ました。
〈シロエリノヘンコウヨシ コンヨンマイヲ ハイニヘンコウ〉
紺を四枚、灰色へ変更。
「また変わりました」
私は言いました。
「売れるものは、こちらの都合どおりには動かないのよ」
宇野さんは、うれしそうでも、困ったようでもありませんでした。
すぐに色ごとの生地の残りを確かめ、変更どおりに出来ると山川さんへ電話しました。
私は、紺から灰へ四枚を移しました。
今度は寸法を聞き、予備を見て、反ごとの色の違いまで欄へ加えました。
それでも、松井さんに見せました。
「合ってますか」
「自分では?」
「合っています」
「じゃあ、そう言いな」
私は言い直しました。
「合っています。確認してください」
松井さんは表を見て、
「よし」
と言いました。
たった二文字でした。
その二文字で、昨日から胸の奥にあった重いものが、少し動きました。
なくなりはしませんでした。
夕方、宇野さんは、新しい格子のワンピースを着た私を屋上へ連れていきました。
東の空に、薄い煙が広がっていました。建物のあいだから、看板と煙突と、干されたシャツが見えました。
東京タワーは見えません。
東京に来て、まだ一度も見ていません。
「似合うわね」
宇野さんが言いました。
「今度は半分じゃないんですね」
「何が?」
「褒め方です」
「半分よ。服は似合うと言ったけど、あなたがきれいとは言ってない」
私は黙りました。
宇野さんは笑いました。
「悔しい?」
「少し」
「なら、まだ大丈夫」
屋上の縁に並び、しばらく風に当たりました。
「どうして、私に三日働けと言ったんですか」
私は尋ねました。
「使えそうだったから」
「使えましたか」
「使う前より、手間が増えたわね」
「生地のことですか」
「それだけじゃない。あなたは、知っていることと、知らないことの境目がわかってない」
私は返事をしませんでした。
「問屋の帳場を知っている。反物も触っている。電話も伝票も出来る。だから、服のことも半分はわかると思っている」
「半分も、わかっていませんでした」
「そうね」
「そこは否定してくれないんですか」
「否定してほしい?」
叔母と同じ言い方でした。
「でも」
宇野さんは続けました。
「知らないとわかったあと、逃げなかった」
私は、屋上から問屋街を見下ろしました。
荷物を積んだ自転車が、狭い通りを走っていました。
写真の中の私が見ていたのも、自転車でした。
「雇ってくれますか」
言ってしまいました。
明日まで待つつもりでした。
大事なことほど何でもないように言いたかったのに、声は少し震えました。
宇野さんは、すぐには答えませんでした。
「明日で三日目でしょう」
「はい」
「三日働いたら、帰る約束ね」
「帰ってから、また来ます」
「誰と話して?」
「父と」
「お父さんが反対したら?」
「それでも来ます」
「なら、どうして話すの」
私は黙りました。
反対されても来る。
それは強い言葉に聞こえます。
けれども、初めから人の話を聞かないと決めているだけなら、強さではありません。
父に言わず東京へ来た私と、何も変わりません。
「働くことと、逃げることを一緒にしないほうがいい」
叔母の言葉が、今ごろ戻ってきました。
使わなかった言葉も、色褪せずに残ることがあります。
「わかりません」
私は言いました。
「便利な言葉ね」
宇野さんまで言いました。
三日目の朝、岐阜から生地が届きました。
灰、茶、紺の四反は、茶色い紙に包まれ、荒縄で固く縛られていました。送り状の差出人欄には、長谷川商店とありました。
父の字でした。
品名、数量、単価。
それだけです。
小言も、娘への言葉もありません。
灰色の反には、AとBの札がついていました。
〈左右身頃、同反使い〉
伊藤さんの字で書かれていました。
その下に、父の字で一行ありました。
〈耳に一寸のゆがみあり。地直し注意〉
手紙ではありません。
仕事の注意です。
私は、その一行を二度読みました。
「お父さん、何て?」
早苗さんが尋ねました。
「地直しに注意しろ、と」
「それだけ?」
「それだけです」
私は送り状を畳みました。
それで充分なような気もしました。
充分でないような気もしました。
朝から、生地を広げ、反ごとの色を確かめました。
伊藤さんの言ったとおり、灰色のAとBは、並べると白の明るさが少し違いました。別々に見ればわかりません。
松井さんは、AからSとMを、BからLを取ることにしました。一着の中で混ぜなければ、同じ売場へ並んでも不自然ではありません。
私は反ごとに札を作り、裁断した部品を一組ずつ紐でまとめました。
右前身頃。
左前身頃。
後ろ身頃。
袖。
襟。
ポケット。
服は、ばらばらになると、からだより頼りなく見えました。
一組でも混ざれば、別の色の服になります。
私は札を読み上げ、早苗さんが確かめました。
昼までに、最初の十二枚ぶんが裁ち上がりました。
午後にはミシンが一斉に動きました。
足踏みの音が、床から机へ、机から腕へ伝わります。
私には縫えません。
だから、糸を配り、ボタンを数え、出来た襟へ品番の札をつけました。
誰にでも出来る仕事でした。
誰にでも出来る仕事を、間違えず、次の人が困らないようにする。
それが、思っていたより難しいのです。
三時ごろ、一枚目が出来ました。
灰色の格子に、白い襟。斜めのポケット。
昨日までの服とは違います。
私が最初に選んだ服とも違います。
宇野さんが生み、松井さんが布を裁ち、早苗さんと堀さんが縫い、山川さんが売り、父の店が生地を出した服です。
私の服ではありません。
けれども、私がいなければ、同じ形にはならなかったかもしれません。
そう思うことは、許されるでしょうか。
私は、その服をハンガーへ掛けました。
「どう?」
宇野さんが尋ねました。
「売れると思います」
「着る人は?」
私は服を見ました。
「朝、店を開ける人。棚の上へ手を伸ばす人。帰りに買い物をして、家で襟だけ外して洗う人」
「きれいに見える?」
初めてこの店へ来た日、格子の服を選んだ私に向けられたのと同じ問いでした。
「見えます」
今度は、恥ずかしくありませんでした。
「働いているからじゃありません。この服を、自分で選んだからです」
宇野さんは、服の白い襟を整えました。
「少しは、服の話が出来るようになったわね」
少し、でした。
私は、その少しがうれしかったのです。
五時半になると、ミシンの音が順番に止まりました。
出来上がったのは七枚でした。
残りは、明日から作ります。
私は明日、いません。
仕事というものは、自分がいなくなっても続くのでした。
それは寂しく、頼もしくもありました。
片づけが終わると、宇野さんが私を二階へ呼びました。
裁断台の上に、茶封筒が置かれていました。
表には、〈長谷川千代殿〉と書いてあります。
「三日分」
宇野さんが言いました。
封筒の中には、千円札が一枚と、百円札が何枚か入っていました。金額は、最初に聞いていませんでした。
多いのか少ないのか、わかりません。
自分の手で初めて稼いだ金は、もっと重いものだと思っていました。
紙は、やはり紙の重さしかありません。
「私、生地を間違えました」
「知ってるわ」
「みなさんの残業も増やしました」
「知ってる」
「それでも、貰っていいんですか」
「三日働いたでしょう」
「失敗した時間も?」
「失敗してるあいだも、会社の時間を使ったわ。だから給金を払うし、次は同じ失敗をさせない」
「次?」
私は顔を上げました。
宇野さんは、私を見ました。
「次があると思った?」
「今、次と言いました」
「世の中の話よ」
この人は、ときどき意地が悪い。
意地が悪い人に認められたいと思うのは、どうしてでしょう。
やさしい人に褒められるより、値打ちがあるような気がするからです。
それも、つまらない意地かもしれません。
「雇っていただけませんか」
私は言いました。
今度は声が震えませんでした。
宇野さんは、首に掛けた巻尺を外しました。
「今は、雇いません」
胸の中で、何かが落ちました。
昨日、ふくらんだものと、同じものかもしれません。
「役に立たないからですか」
「半分は」
「あとの半分は?」
「あなたが、まだ帰っていないから」
「帰りの切符は持っています」
「そういう意味じゃない」
宇野さんは、裁断台の上の写真を取りました。
岐阜の駅の方を見ている私です。
「あなたは、岐阜で返事をしなければならないことを、いくつも置いたまま来たんでしょう」
「父のことですか」
「お父さんだけじゃない。縁談も、お母さんも、店も。置いてきたものがあるから東京へ来たのか、東京へ来たいから置いてきたのか、自分で決めなさい」
「決めたら?」
「そのとき、もう一度来ればいい」
「雇ってくれますか」
「そのとき考えます」
便利な言葉を使いました。
私は笑いました。
宇野さんも笑いました。
「写真は返します」
「持っていてください」
自分でも、意外な言葉でした。
「どうして」
「次に来たとき、同じ顔をしていないか、見てください」
宇野さんは写真の裏を見ました。
〈一枚だけです。三浦〉
「一枚しかないんでしょう」
「写真は一枚でも、顔は変わります」
宇野さんは、写真を裁断台の引き出しへしまいました。
「なくしても知らないわよ」
「困ります」
「なら、取りに来なさい」
私は給金の封筒を鞄へ入れました。
一階では、女たちが帰り支度をしていました。
早苗さんが、白い替え襟を一枚、私へ差し出しました。
「これ、余ったから」
「貰えません」
「不良品よ。ボタン穴が少し曲がってる」
見ると、四つ目の穴だけ、ほんの少し斜めでした。
「わかりません」
「着れば、もっとわからない」
伊藤さんと同じ言い方でした。
私は替え襟を受け取りました。
「ありがとうございます」
今度は言えました。
外へ出ると、問屋街の店々が雨戸を閉め始めていました。
三日前、吊られた服が、たくさんの女のように見えました。
今は、その後ろにいる人の手が見えるような気がしました。
布を織る人。
売る人。
裁つ人。
縫う人。
運ぶ人。
着る人。
一枚の服は、誰か一人の考えだけでは出来ません。
だからこそ、誰か一人の間違いで、大勢が困ります。
私は鞄の中の封筒を、上から押さえました。
三日分の給金は、紙の重さしかありません。
けれども、その紙に触ると、三日間に動いた人の手が、みな一緒に入っているようでした。
荻窪の家へ帰ると、叔母は、私の鞄を見て言いました。
「荷物、出来てるわよ」
二階には、私の着替えが畳まれ、叔母の風呂敷に包まれていました。
「追い出すの?」
「帰るんでしょう」
「もう少しいろと言うかと思った」
「言ってほしい?」
「別に」
「なら、言わない」
叔母は、私の真似が上手でした。
夕食は、最初の晩と同じ茄子の味噌汁でした。赤味噌ではありません。
東京へ来た夜には薄いと思った味が、今日はちょうどよく感じました。
人の舌は、五日で東京へ寝返ります。
「仕事は?」
叔母が尋ねました。
「雇ってもらえませんでした」
「そう」
「驚かないの?」
「雇われた顔じゃないもの」
「どんな顔?」
「もう一度行く人の顔」
叔母は味噌汁を飲みました。
「帰ったら、どうするの」
「父と話します」
「縁談は?」
「達夫さんとも」
初めて、その人の名を自分から口にしました。
水野達夫さん。
父が選んだ家の息子ではなく、私が返事をしなければならない一人の人です。
「何て言うの」
「まだ、わかりません」
「それでいいのよ」
叔母は言いました。
「便利な言葉でも、わからないときに使えば、嘘じゃないわ」
翌朝、叔母は駅まで来ませんでした。
「荻窪くらい、一人で行けるでしょう」
「東京駅までは?」
「もう迷っても、誰かに聞けるでしょう」
玄関で、叔母は私の襟を直しました。
水色のブラウスに、早苗さんから貰った白い襟をつけていました。四つ目のボタン穴は、少し斜めです。
「澄江姉さんには、私からは何も言わない」
「お母さんが聞いても?」
「千代ちゃんから聞いて、って言う」
「お母さん、怒るよ」
「私じゃなく、あなたにね」
叔母は笑って戸を閉めました。
自立を促す人は、見送りまで自分で行けと言います。
東京駅のホームには、三浦さんがいました。
来るとは聞いていませんでした。
首からカメラを下げ、柱のそばに立っていました。
「どうして」
「志津さんに時間を聞きました」
叔母は、私には何もしていない顔をして、人の見送りだけ用意していました。
「仕事は?」
「取材です」
「何の?」
「岐阜の問屋の娘が、東京で三日働いて帰る」
「記事にしないでください」
「まだ何も聞いてません」
「写真も」
三浦さんは、カメラへ手をかけました。
「撮りません」
「どうして」
「一枚だけですから」
私は笑いました。
汽車が入ってくるまで、二人でホームを歩きました。
三浦さんは私の鞄を持ちませんでした。
私も、渡しませんでした。
「雇われたんですか」
「雇われませんでした」
「残念ですね」
「はい」
私は、きちんと残念だと言いました。
残念でないふりをすると、三日間までなかったことになるような気がしたのです。
「でも、給金を貰いました」
「何に使うんですか」
「まだ決めてません」
「お父さんに見せる?」
「見せます」
「返せと言われたら?」
「返しません」
それだけは、わかっていました。
汽車がホームへ入りました。
窓が一枚ずつ、私たちの前を通り過ぎました。
「また東京へ来ますか」
三浦さんが尋ねました。
「まだ、わかりません」
「便利な言葉ですね」
みんなが、同じことを言います。
「三浦さんは?」
「何がですか」
「また岐阜へ来ますか」
三浦さんは、少し考えました。
「まだ、わかりません」
「便利ですね」
汽車が動き出すと、三浦さんは手を上げました。
私は窓を開けませんでした。
開けて何か言えば、聞こえなかった言葉まで、別れの言葉になってしまいそうでした。
ただ、白い襟へ触れました。
四つ目のボタン穴は、少し斜めでした。
東京の建物が後ろへ流れ、やがて低くなりました。
私は鞄から茶封筒を出し、膝の上へ置きました。
数えてはいません。
会社で一度見たからです。
何度も数えると、金額だけが三日間の値打ちになるような気がしました。
窓の外を見ながら、父に何を言うか考えました。
黙って東京の会社で働いたこと。
父の店へ勝手な頼み方をしたこと。
生地の量を間違えたこと。
宇野さんに雇われなかったこと。
もう一度、東京へ行きたいこと。
どれから話しても、その次が難しくなります。
話は、型紙のようには並べられません。
きれいに置いたつもりでも、どこかで重なり、どこかに使えない隙間が出来ます。
私は、全部をうまく話すことを諦めました。
失敗した人間は、せめて、失敗していないように話そうとします。
それが、次の失敗になるのかもしれません。
岐阜駅へ着いたのは、日が暮れてからでした。
ホームの灯が、濃くなった空気の中に浮いていました。
汽車を降りる人、迎えに来た人、荷物を運ぶ人が、改札へ向かって歩いていました。
私は人の流れの中を、一人で歩きました。
改札の向こうに、父がいました。
迎えに来るとは聞いていませんでした。
白い半袖のシャツに、店で使う黒い腕抜きをつけたまま立っています。仕事の途中で来たのでしょう。
父は、私の水色のブラウスと、白い襟を見ました。
それから、私の鞄を見ました。
「荷物は、それだけか」
「はい」
「持つ」
「自分で持てます」
「そうか」
父は歩き出しました。
私は、その隣へ並びました。
駅舎を出ても、父は何も聞きませんでした。
東京はどうだったとも、なぜ黙って働いたとも、宇野という女は何者だとも言いません。
駅前には、自転車が何台も通りました。
私はそのうちの一台を目で追いました。
「送った生地」
父が言いました。
「はい」
「足りたか」
「足りました」
「そうか」
また黙りました。
父と私は、同じ店へ帰るのに、まだ別々の道を歩いているようでした。
私は鞄を開け、茶封筒を出しました。
父が足を止めました。
「何や」
私は封筒を両手で持ちました。
謝るのは、仕事が終わってからでいい。
東和洋装の女たちは、そう言いました。
私の東京での仕事は、もう終わっています。
けれども、父との話は、これから始まります。
「三日分、働いてきました」
第四章 了
第五章「帰ってきた娘」へ