
<私とあなたの存在理由について>
医師としての日々の外来は、出会いと別れの連続です。整形外科医になって三十年以上が過ぎ、死別した方々も数知れません。その間、人はなぜ生きなければならないのかを、強く意識し続けてきました。本稿は、ささやかなるその思索の記録です。
◽️想い出の味
昨秋、学生時代を過ごした第二の故郷に帰郷しました。毎年、母校バドミントン部のOB会には参加していたものの、スケジュールの都合で、どうしても長い間立ち寄ることのできていない中華そば屋がありました。二十代の想い出が目一杯詰まった忘れ難き店。辛いことの方が多かった当時、自分にとっては癒しを求めた特別な空間でした。卒業してから三十年の間、二、三度行ったのが精一杯でしたが、今回はどうにか店に赴くチャンスができました。馴染みのマスターに手渡す土産を途中のサービスエリアで調達し、久々の再会を期待しつつ、車を走らせたのでした。
店に近づいたとき、何やら嫌な予感がしました。遠くから見えるはずの看板に、灯りがありません。おかげで少し通り過ぎてしまいました。ナビで確認すると、廃業しているとのこと。翌日、ショックを抑えきれぬまま、当時お世話になっていた近くの喫茶を訪ねました。幸い、そこでこの中華そば屋に何が起こったのかを知らされることとなりました。店の主人が病気で他界したのだとか。コロナ禍での出来事でしたが、コロナ感染が原因ではなかったようでした。
もう二度と想い出の味に浸ることができないと思うと、切ない気分でした。自分にとっては、間違いなくソウルフードだったからです。陽気で快活なマスターと、マスターには不釣り合いなほど美しい奥様、年老いたお母様の姿が走馬灯のように脳裏をよぎりました。残されたご家族がどうされているのか知る由もありませんが、幸せに暮らされていることを祈らずにはいられませんでした。
そういえば、数年前には、頻繁にお世話になっていた鰻屋の主人が病気で引退してしまい、看板メニューだった鰻のタタキを食べることができなくなっていました。子供の頃には当たり前のように食べていた祖母の手料理の味も、忘れるほどになりました。今となっては、ハンバーグが絶品だったという記憶が残されているだけです。今回、最も想い出深いラーメンの味を失って今更ながらに気づいたことがあります。それは、こうして人は一つ一つ、かけがえのない味わいとの訣別を余儀なくされるということです。
どんなに評判のラーメンを食べても、どんなに有名な鰻料理を食べても、そして、どれほど高級なハンバーグを食べても、もはや想い出の味を超えることは決してありません。同じ料理を食べても、何か物足りず味に集中できない今日この頃。認めたくはありませんが、少し歳をとったのかもしれません。マスターに買った土産は、自宅へ持って帰ることにしました。
◽️命の尊厳
子供のころ、食卓に並んだタラコを目の前にして、その一粒一粒が命だという事実にうちのめされ、食事がのどを通らなくなったことがありました。その後すぐに輪廻転生の思想を知って救われた気になったものでしたが、どうして救われたのか、当時の自分にはよくわかりませんでした。
自殺や殺人など不祥事のあった学校の教育者が、「命の尊さと大切さを伝える教育を徹底したい」だとか、「命が一番大切」だとかのたまう様をテレビで観ると、命は本当に一番大切なのかと首を傾げずにはいられません。そもそも、命が一番大切という主張には何の根拠もないからです。命の価値が相対的であるおかげで、我々は他の命を犠牲にしてこれを食し、自らの命をつなぐことができるのです。緊急時において供給できる医療資源に限りがあれば、人同士の間ですら命の選別は不可避となってしまいます。
命それ自体に普遍的で絶対的な価値があるわけではないという厳然たる事実に抗えないからこそ、人は自ら命を絶ち、他人を殺めずにはいられないわけです。ひとたび戦争が始まれば、人殺しの数が多くなるだけ英雄扱いです。故に、命が一番大切だから自殺や殺人が駄目なのだと言われても、何の説得力もありません。命の尊厳を語るには、命の絶対的な価値を説く道理が必要不可欠なのです。
古来、目に見える生命現象を超えた霊的存在としての生命こそが命の本質で等価なのだと宗教は伝えてきました。そして、それを前提としてはじめて、あらゆる生命に絶対的な価値が付与されることになります。命の尊厳は、人は何のために生きるのかという宗教的希求を満たす信仰によってしか説明不能な概念なのです。かつて幼少時代の私が救われたのは、輪廻転生する霊的な命の存在を無意識に悟ったからだと思います。
◽️想い
確かに生きることは重要ですが、生きることが一番大事なわけではありません。時には命を懸けて何かに立ち向かう勇気が試される場面もあるからです。人間の命など、放っておいても高々数十年で朽ち果てる程度の代物です。けれども、人の想いはそれを受け継ぐ者がある限り生き続けます。志半ばにして旅立った友人、知人たちの人生が、寿命を全うした他の誰かに劣るとは到底思えません。彼らの想いを受け継ぐ者が絶えない限り、その人生の価値が損なわれることは決してないと信じます。
かつて福島原発事故に際し、現場に残ってメルトダウンと戦い続けた東電の職員たちは、何かの宗教的な信条に毒されていたのでしょうか。放射線被曝のリスクを背負って職務を全うし続けた彼らは、一時の感情的な昂りや単なるヒロイズムから現場を離れなかったのでしょうか。私はそうは思いません。命を賭しても守らねばならないものがあるという使命感や責任感が、あのように尊い自己犠牲を生んだのだと思います。彼らにだって自分以外にも守るべきかけがえのない家族はあった筈なのです。
それは自分の命や、それに近しい命だけが一番大事だという合理性を超えた崇高な価値観の体現でした。何かによってつくられた錯覚ではなく、日本人が先祖代々、連綿と受け継いできた伝統的な精神です。その精神のおかげで、福島原発の被害は最小限に食い止められました。それはおそらく、日本だからこそ可能だった奇跡の一つでした。自分の命や、自分に近しい人たちの命だけが一番大事だというのは、我々が知らないうちに毒されてしまった近代合理主義の発想に他なりません。本当に大切なのは人の想いです。そして想いこそが、人の心に火を灯し続ける力なのです。その火が絶えない限り、人の命が終わっても、その生は終わることはありません。
◽️日本の宗教
かつて我が国にとって仏教は外来宗教でした。古来の神々を信奉する物部氏と、仏教側に立つ蘇我氏との間で権力闘争が繰り広げられた結果、蘇我氏が勝利して仏教が広まったに過ぎません。しかしながら、日本の伝統的な信仰の方が、仏教を吸収してしまいました。これを習合と呼び、日本には外来宗教を次々と習合し、取り込んできた歴史があります。その根本精神は和です。即ち、習合は対立よりも調和を重んじる思想が日本人の根底にあったからこそ可能だった芸当でした。
伝統的な神道は宗教の在り方としての最終形態であり、理想形だと考えられます。三大宗教との際立った相違点は教祖の不在です。森羅万象の全てに神の宿りを容認する信仰は文化に溶け込んでいて、そもそも宗教としての体裁を保っていません。開祖も経典も教団もないため、垣根がありません。そのおかげで教条主義や原理主義に陥ることを免れているだけでなく、宗教特有の排他性とも本質的に無縁です。過去に廃仏毀釈が行われたのは例外的としても、他の宗教にみられる攻撃性が皆無なのです。伝統的な日本文化に内包された神道の教えだけで、庶民が平穏な日常を暮らすのにはほとんど過不足ないはずでした。けれども、近代合理主義という新興宗教の台頭によって、その教えの大切な部分が否定され、文化的に希薄になってしまったことが、現代人の心の病の引き金になっているのではないでしょうか。
一方、世界を見渡すと、日本神道に類似した思想には古代インドの思想を伝えるヴェーダを挙げることができます。日印間には思想的な共通点が多く、相互に内容を補完できるかもしれません。ヴェーダは経典を意味する言葉ですが、神道と同様に開祖は存在しません。また、秘儀秘術の類は特別な家系のみに口伝で継承されており、同じく口伝によって特別な叡智が継承されている古神道と似ています。両者に脈打つ太古の叡智については、知るべき人々とそうでない人々が区別されており、おそらくそれは用い方一つで薬にも毒にもなるためだと考えられます。
またヴェーダには、神の意識に到達し、転生を終えたはずの御霊が世界を救うべく再び地上に聖者として降臨するという発想があります。日本における聖者として想起されるのは空海で、空海は日本最古のダムとなる利水施設、満濃池を建造し、人々の生活を救済しました。日本の聖者は庶民の暮らしに密接に関わってきたのです。そのためか、当時から日本は信心深い人たちの国だったのかもしれません。そして、だからこそ、その意味するところが不明になりながらも伝統的な祭祀や祭事が陰に日向に守られてきたのではないでしょうか。こうして文化に溶け込んできた日本の宗教の精髄は和心にあり、過去から連綿と繰り返される世界中の宗教的な対立は、和をもって尊しとなす我が国の思想がこれを収めることになるのが必然であるように感じられます。あらゆる宗教に真理への道しるべとなる叡智が内包されていて、宗教は山の頂へと続く登山道の入り口のようなものです。その目指すところは一つであると誰もが素朴に信じられるなら、争いは霧散するに違いありません。
◽️実在とは何か
ベルの不等式の破れにより、量子物理学によって証明されたこの世界の究極の神秘は、この宇宙が一体であり、互いに影響を及ぼし合っているという事実です。これは、この地球で起こる出来事と、宇宙の果てで起こる出来事とが、影響の大小はあっても、互いに関わりあっているということを意味しています。そこから導き出される結論は、この世界の片隅で起こるいかなる出来事も、必ず己自身の何かの選択と関りがあるということです。この物理学では、我々の意識が誰かや何かを観測したときに初めて対象の存在が収束するため、観測していない時の対象は確率の海の中に沈むことが指摘されています。逆にいえば、我々が直面するあらゆる対象物は皆、我々自身の意識によって何らかの修飾を受けた存在であるということができるのです。故に、己自身の意識が変わると、対面する人々だけでなく、世界そのものが変化を余儀なくされるという理屈が成り立ちます。
もし、宇宙を認識している客体としての誰かの意識が途絶えた場合、量子論的に言えば、その人が観ていた宇宙はその存在をやめてしまうことになります。この世界をシミュレーションゲームの仮想空間だと仮定すると、プレイヤーが遊ぶのをやめることと意識が途絶えて宇宙が存在をやめることとは似ているかもしれません。何かが存在するためには、必ずそれを観測する客体が必要だからです。我々の死後も本当に世界が存在し続けるのかどうかは、我々の意識が死後も途切れることなく継続するかどうかにかかっているわけです。
我々の暮らす世界が仮想現実であるとする発想は、現在のシミュレーション仮説が唱えられるずっと以前から、既に数千年の歴史を持つ古代インドの思想でも同様に語られています。そこでは、この世界での輪廻転生の営みは、全て神の遊戯であると表現されています。要するに、神にとっての仮想現実としてこの相対世界があり、神自身が多様なプレイヤーとなってシミュレーションゲームを楽しんでいるという解釈です。
今この瞬間、我々の暮らす宇宙があり、そこに生きる人間存在としての個人があり、これを「私」と呼ぶ意識の営みがあるのは疑いのない事実です。誰にとっても真の実在とは、今ある己の意識をおいて他にはありません。他人に意識があるのかないのか、本当のことはわからないからです。しかしながら、「私」が「私」であるというアイデンティティーの根拠は、記憶の蓄積でしかありません。記憶を失った瞬間、我々はアイデンティティーを失ってしまうわけです。では、「私」とは一体誰のことを指すのでしょうか。
日本神道の神器には鏡があります。鏡(カガミ)から我(ガ)がとりのぞかれると神(カミ)になります。これは、鏡の前に立って映る姿は皆、誰もが本当は神であるという教えなのかもしれません。我々自身が、自らが神であるという己の素性を忘れた神そのものであるなら、人生の目的とは味わいに他なりません。賢者として生きる人生もあれば、愚者として時間を貪る人生もある。富豪として暮らす人生もあれば貧困にあえぐ人生もある。高潔に過ごす人生もあれば罪人として終える人生もある。因果応報の法則に従いつつも輪廻転生の営みを続け、あらゆる人生を味わい尽くして解脱に至る神の遊びが人生だと最古の哲学は伝えています。即ち、唯一無二の神だけが実在だというわけです。
◽️カルマの代行
難病を抱える孫娘の容態が悪化したとき、自らの余命と引き換えに孫の回復を祈ったお年寄りがいました。この翁はとりたてて持病もなく、健康そのものであったにもかかわらず、祈りを捧げて間も無く急逝してしまいました。この方が他界するや否や、孫の容態は快方に向かい、生死の危険は脱しましたが、残念ながら病それ自体が癒されることはありませんでした。祖父の祈りをもってしても彼女のカルマを解消するのは難しかったようです。
実際、生老病死を克服したとされる聖者といえども病に伏すのは珍しいことではなく、往々にしてそれは帰依者のカルマを代行した結果だとされています。聖者でなくともカルマを代行する場合はあり、必ずしも過去世の因果だけが人生のイベントを決定しているわけではなさそうです。かつてイエスは人類のカルマを背負って磔刑に処されたことになっていますが、これは最も有名なカルマの代行例だといえるでしょう。それは能動的に誰かの苦しみを肩代わりする最も崇高な行いです。結局のところ、目に見えるイベントだけを眺めていても、それがカルマの清算であるのか代行であるのか、凡人には霊性の神秘を理解することが出来ないのではないでしょうか。
◽️因果応報と輪廻転生
物事には原因と結果があり、自らの外側に向けて発した筈の想いと行いが、いつか、そのまま自分自身に返ってくるのが必然であると感じられる人にとって、因果応報は紛れも無い事実です。そうであるなら、この短い人生で、その結果の全てを受け止めることができない以上、来世を想定せざるを得なくなります。同様に、生まれながらの不平等に理由を求めれば、過去世を想定せざるを得なくなります。輪廻転生なくして人生を納得するのが困難な人にとって、それはなくてはならない思想であるわけです。けれども本当は、生まれ変わりがあるのかないのか、どちらでも良いことなのかもしれません。生まれ変わりがあると信じることで人生を納得できる人にとって生まれ変わりはあり、ないと思うことで人生に納得できる人にとっては、なくて良いわけです。
あると信じるなら、いかなる人生も、自らの想いと行いの結果だと納得して過ごすことができます。目に見える世界では、あれは良いこと、これは悪いことと裁かれてしまいますが、輪廻思想の下では、善悪も幸不幸もなく、全ては幻に過ぎなくなります。いかなる人生も過去の想いと行いとが種となって得られた果実であり、それを享受した後の次なる人生では、再び過去に撒いた別の種の実りを享受する。ただそれだけのことで、人生にはいかなる贖罪も責任もなく、あるのは転生を繰り返す霊的存在としての自由であり、我々はその中で有限に振る舞う世界に戯れ、無限の愛を知るための人生を粛々と歩む神の化身であるというのが、インドの古い思想です。
古の思想によれば、神は有限に振る舞うこの相対世界を創り、自分探しの遊戯を始めたのだとされます。この遊戯のために、我々は己の素性を忘れてこの世に生を受け、全てを味わいつくし、意識の進化、深化によって再び神との一体性を取り戻して神化を遂げ、輪廻転生の営みを終えると言います。即ち、誰かを救うために差し伸べたその手の先にあるのは、他ならぬ自分自身であるという意味です。
そこにはいかなる科学的な根拠も客観的な証拠もありません。仮にそれが虚構であったとしても、それを信じることで現実に苦しく、悲しみの多い人生をよどみなく見据えて今この瞬間を大切に生き、人生を納得して過ごすことができるなら、それはそれで良いのではないでしょうか。何かを信じて人生を納得させることができない限り、人は苦しみや迷いから逃れることができません。もっとも際どい選択を迫られたとき、道を選ぶことができなくなってしまうものだからです。
◽️対治と同治
対治と同治という言葉は仏教用語で、前者は病に対して薬や手術を用いてこれを治そうとする行為に相当し、西洋医学による病気の治療がこの典型です。要するに病を悪としてこれに抗う行為を指します。一方、同治とは、病のみならず死をも受け容れる神仏の救いであり、その真髄は、あるがままで良いという無限の寛容にあります。末期癌の患者をみとる場合、対治にこだわると患者を苦しめるばかりでろくなことになりません。最後は医療が余計な手を加えることなく同治に徹した方が、誰もがはるかに穏やかに旅立てるのです。
西洋医学が主流となる以前は、専ら同治しか病に向き合う手立てがありませんでした。発熱に解熱剤が用いられることなどなかったわけです。現在では、ウイルス感染に対して無闇に解熱剤を用いることは、かえってウイルスの増加を招いてしまうことが知られています。人体は発熱によってウイルスを駆逐しているからです。これは医学の発達した現代より、過去の対処の方が優れていた一例です。勿論、発熱に伴う脱水への対処を怠ると危険ですが、対治は必ずしも最善の策ではないと悟ることができます。
同様に、世直しと称して正義をふりかざせば、その姿をしていないものを攻撃せずにはおれなくなるのが定めであり、あらゆる諍いの源がそこにあります。人はあるべき姿を求め続ける限り、あるがままに達することはできず、あるがままに達してはじめて、あるべき姿を求めることがなくなってしまうのです。けれども、あるべき姿を求めることなく、あるがままに達することもまたできません。私たち人間は最初からこの矛盾を抱えて生きるよう仕向けられており、それが結局、苦の源であるのかもしれません。
人間はいずれ死ぬのが当たり前で、その致死率は100%です。しかし、その短い葛藤の狭間で何を表現してのけるのかに、生きる目的が集約されています。あるいは、初めから生きることに大した目的などないのかもしれません。それが同治であり、一切の受容だからです。
◽️受容
還暦を過ぎて尚、毎日4時間半の睡眠で仕事に励む、ある紳士。彼には、脳内に破裂すれば死を免れることは出来ない動脈瘤が見つかっていますが、手術のできない部位にあって、そのままです。「まだ生きてますよ~。」が挨拶がわりで、「頭の中のコレがはじけたら、きれいさっぱり、おさらばですよ。はっはっは!」が口癖。会社では責任のあるお立場にいらっしゃるようで、そう簡単に死ぬわけにもいかない筈ですが、健康不安など、どこ吹く風。いつも快活で清々しさに溢れています。
一方、平均寿命に近づいた、とある未亡人。彼女は亡き夫から、かなりの財産を託されたようで、付き人もいて身の回りのことは勿論、大半の生活には何もご不自由がありません。子供たちも皆一人前となり、彼女の関心事は専らご自身の健康で、病院をはしごしては医者に愚痴をこぼして回るのが日課です。「先生、このまま歩けなくなったらどうしましょう。」が、彼女の口癖。
実のところ、人の身体は内臓が強ければ、いずれは歩けなくなり、その逆に内臓が弱ければ、寝たきりになる前に寿命が尽きるだけです。痛し痒しも生きていればこそで、いわば神様にお支払いする税金のようなもの。平均寿命に達すれば同級生の半分は黄泉の国の住人で、早く決着をつけたければ病院通いをやめれば良いだけのお話です。
いっそ呆けてしまえば、彼女も幸せになれるのかもしれませんが、頭は至ってクリアなご様子で、内臓にも差し迫った問題はありません。お金もあり、誰かに責任を負っているわけでもないのですから、余生を一日一日、好きなことをして気ままに楽しく暮らせば良い筈ですが、どうもそれができない性分のようで、彼女が去った後は、いつもどんよりとした空気が漂うのを避けられません。
この紳士と未亡人、どちらがより棺桶に近いかと言えば、どちらとも言えません。しかし、人生の限られた時間をどうすれば有意義に過ごすことができるかについて、両者の生き方は実に示唆的です。その大きな違いは、死を受け入れているかどうかに尽きるように思えます。
◽️人生とは何か
日本には、人が生きたまま神として崇められたり、亡くなった後、神として奉られたりする慣習があります。また、死なば皆仏という、西洋人からすれば、随分と乱暴な思想もあります。この他にも、人間以外の生き物を神の化身だとか神の使いとして崇める文化があります。
人が神として崇められる風習が日印に存在するのは、森羅万象、生きとし生けるものは全て神の化身であるという認識が根底にあるからではないでしょうか。人の裡に神の姿を観る、即ち、困っている誰かを助けるその手に神が宿るという発想が、日印の文化に深く根付いているのです。人は時として神のようであり、かつ獣のようでもあり、神と獣の間にある何者かが人間です。神とは何かについて考えることは、人間とは何かについて考えることと同義であって、人道とは神に至る道のことを指していると考えられます。
一方で無神論者は、神の存在否定に人間原理を用いることがあります。神という概念は、人間のように発達した大脳をもつ生き物がつくりだした幻想に過ぎないという考え方です。要するに、人間様がいなければ神様は存在しないと考え、神を人間の被造物だと解釈します。確かに、客体によって認知されることが存在の条件であり、神が存在するためには、神を想う客体が必要不可欠です。女性がどれほど美しく着飾っても、それを見て褒める男性の存在なしにはオシャレはないも同じだからです。しかしながら、ここで見方を変えて、人間が創造された理由がそこにあると考えれば、寧ろ人間原理は神の存在証明にもなり得ます。神を想う人間としての我の存在が、とりもなおさず神の実在の証であるというわけです。神が己の似姿、御霊分けとして人を創ったという発想も、そこに矛盾しません。
人間を形作る最小単位として細胞があり、その数は実に37兆2000億個です。そして驚くべきことに、そのささやかな細胞の一つ一つに、人間を丸ごと形作るための遺伝情報が含まれています。故に、たった一つの細胞とて侮ることはできません。同じように、人間一人分の内側には宇宙一個分の情報が含まれているのかもしれません。この宇宙はマトリョーシカのごとく入れ子構造になっており、金太郎あめのごとく、どこを切っても同じ顔かたちがでてくる仕掛けになっているからです。そもそも、一個体の誕生と死は一つの宇宙の誕生と終焉を意味すると言っても過言ではありません。なぜなら、我々が観ている世界は、あくまで一個人が観測する宇宙であって、同じ世界を別の誰かと共有しているという保証はどこにもないからです。
この世界を観るのは虹を観るのと似ていて、誰かが虹を観るとき、皆で同じ虹を観ているわけではありません。虹は必ず観測者が太陽を背にした正面に見える現象であるため、皆で観ているはずの虹は、その人だけが観る唯一無二の虹なのです。同様に、この宇宙もまた、その人だけが観る宇宙であるため、その人の意識が最期を遂げるとき、その宇宙もまた終焉を迎えることになります。たった一つの細胞に人間一人分の設計図が含まれているのと同じように、我々一人一人の意識の中に、宇宙を創造した神の意識が宿っているのです。その至宝にたどりつくまでの壮大な旅路が人生であるなら、一つとして無駄な人生は存在しないに違いありません。ただ観測者には旅路の果てが見えていないだけではないでしょうか。
本稿は上記のマガジンから数編を選んで編集したものです。