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Photo byokanokura

<核武装の是非を素朴に考えてみた>

    私は五十代の整形外科開業医です。電脳空間の掲示板で蘊蓄を垂れるようになって二十年以上が経ちました。その間、どうしてもすぐには答えの出せないテーマと向き合うことになりました。それが、我が国の核武装の是非についてです。専門家諸氏の意見とは別に、自らの頭で素朴に考えてみて、どうするのが良いのかをつきつめた集大成として、本稿を執筆することに致しました。

    ~近代合理主義に支配された文明の行く末と、日本のあるべき姿とは~

    ■単純化の罠
    一般に、物事は単純化された方が、多くの人々に伝わりやすいという側面があります。社会保障のためには消費税が不可欠であり、日本は財政破綻寸前であり、人口減少には移民受け入れしか解がない、といった言説がその典型です。これらは長年にわたりオールドメディアによって吹聴されてきましたが、いずれも複雑な制度や構造の問題を単純化し、人心の不安を煽ることで人々の思考停止を狙った誘導でした。前提の妥当性や代替案は検討されず、他に選択肢はないという空気だけが強調されてきた点で、これらは等質の虚構だったといえます。

    では、果たしてニューメディアの作り出す新たな世論が同様の轍を踏まないと断言できるでしょうか。現在、ニューメディアが強調する防衛論の一つに、日本の核武装があります。ウクライナ情勢を引き合いに出し、核を持たない国は核保有国から理不尽な軍事的侵攻を受けるため、戦争を回避するには核保有が有効かつ現実的だとする主張です。長年、オールドメディアが非核三原則を盾に核の議論そのものを封印してきた反動もあり、その洗脳から目覚めた人々の多くが、ニューメディアの核武装論に肯定的です。しかし、日本の核武装をめぐる論調には、これまでの消費税必要論や財政破綻論と同様な問題の単純化が見て取れます。

    ■核抑止論の限界
    核抑止の成功例としてしばしば引き合いに出されるのが、インドとパキスタンの関係です。確かに両国は核保有以降、全面戦争には至っていません。しかし同時に、カシミールをめぐる小規模衝突や越境テロ、限定的空爆は断続的に続いています。核兵器は戦争を終わらせたのではなく、戦争の形を変えただけでした。結局、ここでの核抑止は平和を保証する魔法の装置とはならず、衝突の上限を一時的に押し下げただけの、不安定な均衡状態しかもたらさなかったのです。核抑止論の最大の問題は、その有効性が合理的で冷静な意思決定主体の存在を前提としている点にあります。誤認や事故が起きないという仮定は、現実にはきわめて脆弱です。冷戦期には偶発的核戦争の危機が幾度も訪れ、キューバ危機は全面核戦争の瀬戸際でした。核兵器が使われなかったのは、偶然と個人の判断に救われた側面が大きかったのです。

    即ち、相互確証破壊を抑止力とする理屈には賞味期限があり、本質的な問題を未来へ先送りにしているに過ぎません。さらに現代の戦争は、核抑止が構想された時代から大きく変質しました。ドローン、サイバー攻撃、情報操作、経済制裁といった非軍事・準軍事手段が影の主役となり、核兵器が抑止の中心であり続ける保証は無くなりました。かつての大艦巨砲主義が航空機によって無効化されたように、戦争の手段そのものが移行しつつあるのです。また、イラク戦争や、この度のイスラエルと米国のイラン攻撃にもみられる通り、核武装は、それを企図した瞬間から実際に具備するまでの期間が最も危険な状態となり得ます。なぜなら、敵国には自衛の名の下に先制攻撃の理由を与えてしまうからです。

    確かに、目前に差し迫った危機に直面した場合、より強力な破壊兵器が相手からの軍事行動に対する抑止力になるのは間違いありません。しかしながら、相手からの核攻撃や軍事作戦を抑制することが目的である場合、本当に核兵器の保持だけが唯一絶対の選択肢なのかを冷静に議論する必要があるでしょう。加えて、核兵器を持つという選択肢が、そう決めた国家国民の精神性に与える影響も無視できません。見ず知らずの誰かに核の矛先を向けなければ身の安全を守れないのだとしたら、世の中は力が全てだという価値観が支配的となるでしょう。それはじわじわとその国に住む人々の精神を蝕んで行くに違いありません。目的のためには手段を選ばずという近代合理主義を手放しで受け入れてしまった国民精神において、退廃が進むのは必然だからです。

    ■退廃とは何か
    かつて、目的が正しければ手段が正当化されるというマキャベリズムの下で行われた共産主義革命では、粛清の名において大勢の人間が虐殺されました。そして現在でも、自分たちの身の安全のためには見ず知らずの誰かに核の矛先を向けても仕方がないと構える人たちが大勢います。私たちが恩恵を受ける科学技術もまた、他の生命の理不尽な犠牲の上に成り立っているものが少なくありません。多くの場合、自分自身が利益を得る場面では手段が正当化されやすく、逆に自分自身や、その近しい人が不利益を被る場面では、これが問題視されがちです。誰かが私腹を肥やすために卑劣非道な手段を用いる場合、私たちは被害者目線でそれをみるので、赦すことができませんが、逆の場合は容易に許容されてしまいます。

    目的のためには手段を選ばずという退廃を選択することは、鬼滅の刃の物語でいえば鬼になるのと同じことです。どれだけ追い詰められても決して鬼になることを選ばなかった煉獄杏寿郎の姿に感動するのは、それがとても難しいことであると我々一人一人が身をもって経験しているからです。故に、我々が真に向き合うべきは、各々が無自覚に抱える退廃であり、他人の退廃を指さすことではありません。

    ■真の敵
    人殺しを歯牙にもかけないマフィアの大ボスであっても、家庭においては良き夫であり、良き父であるように、人間は誰もが多面的な生き物です。真っ黒な人間もいなければ、真っ白な人間もいません。私たちにとって、本当の敵は人でもなければ国でもなく、軍産複合体でもありません。真の敵は思想です。思想が人を支配し、国を支配し、そしてあらゆる組織を支配するからです。今だけ金だけ自分だけを際限なく肯定する近代合理主義こそ撃つべき相手です。この思想は目的を遂げるために手段を選びません。自分たちの願いを叶えるためならば、いかなる不徳も容認されるという思想です。

    そうした退廃に無頓着になってしまえば、一見、素晴らしい目的を掲げているようでも、その先に待つのは慈悲なき大量虐殺です。共産主義はそれを証明してみせました。相手の中に見出す敵は、自らの内側にも潜んでいて、この世界は己の内面を映し出す鏡でしかありません。それに気づけない限り、この世界に血塗られた諍いが絶えることはありません。敵だと思って殺める相手は、かつての父であり、母であり、恋人や友人であり、そして子供たちです。核武装によって向けられた核の矛先にあるのは、他ならぬ自分自身なのです。

    ■精神のコア
    合理主義とは、効率と最適化の論理で人間や自然や文化のすべてを裁断する思想です。それが社会の中心に据えられると、人間は代替可能な労働力とみなされ、人の尊厳や自然への敬意は徐々に失われていきます。移民による人口補填策も、人間を数値的に代替可能な単位として捉えるこの論理の一例です。さらに、環境破壊を前提とした経済システムや、文明そのものを破壊し得る核兵器の存在も、効率のための犠牲を合理的と見なすこの思想の帰結です。文明を滅ぼすのは外敵ではなく、内面的な精神の衰退に他なりません。いかに軍事力や経済力が強大であっても、精神的基盤が崩れれば社会は持続できません。制度も技術も経済政策も、元来合理主義と親和性が高いため、根本的な解毒剤にはなり得ません。最終的な砦は人間精神のコア、すなわち合理性の上位に立つ倫理と、人間の心の奥底にある価値観です。

    では、我が国が誇る、最も守るべき至上至高の価値とは何でしょうか。我が国をして我が国たらしめる最上級の特質のことです。物の見方にもよりますが、それは日本に暮らす人々の心の奥底に築かれた惻隠の情と無常観に収斂するのではないでしょうか。前者は相手のことを自分のこと以上に思いやる労りと慈しみの心、後者は森羅万象の移ろいをあるがままに受け入れ、形あるもの、限りある命に拘泥しないという哲学です。惻隠の情は相互扶助の礎となり、無常観は権力の暴走を自然に抑制します。この二つが社会の基盤に根づいている限り、効率のために人間を犠牲にすることへの強い抵抗が生まれ、合理主義の暴走は内側から制限されるのです。即ち、我が国が核で武装するという道は、自らこの至上至高の価値を投げ捨て、日本が日本では無くなってしまう選択に等しいと言わねばなりません。

    もっとも、こうした精神は日本人に固有の特殊な感覚ではありません。例えば鬼滅の刃の物語が世界中で深い共感を呼んだ事実はその証左です。そこに描かれているのは効率でも合理的利益でもなく、弱き者を守る責任感、敵にすら向けられる共感、そして命の儚さでした。合理主義の観点からすれば非効率とも映るこれらの価値観が、文化や言語の壁を越えて人々の心を動かした事実からいえるのは、文明を持続させる世界共通の原動力は合理性を超えた精神性であるということです。

    精神が主であり、合理性は従です。この順序が逆転するとき、文明は自らを破壊する装置を作り続けることになります。それはAIと人間との関係にも象徴されることでしょう。文明を築くのは合理性ですが、文明を存続させるのは人の想いだからです。近代合理主義が暴走するこの時代において、世界を救う最後の砦は、研ぎ澄まされた精神のコアに他なりません。精神のコアとは、人間が他者の苦しみに心を動かされる感覚や、目先の利益よりも守るべきものがあると直感する倫理感覚、そして自分の行為が共同体や未来にどのような影響を与えるかを想像する力です。良心や愛、魂といった言葉で表現されるものも、広い意味ではこの領域に含まれるでしょう。ただし、それらが私たちに何の努力もなく先天的に備わっているものだとするなら、それは間違っています。なぜなら、それらは失われてしまうこともあれば、そもそも身につけることができない場合もあるからです。

    例えばサイコパスがそうです。合理主義が蔓延した社会においては、サイコパス的な人格が生まれやすくなるのは、ある意味で必然だとも言えるでしょう。私たちが当たり前のものとして受け取っている精神のコアは、実は自然に維持されるものではありません。むしろ、それらは合理性に圧倒されがちな社会の中で、先人たちが知恵を絞り、長い年月をかけて守り伝えてきた努力の賜物です。故に、教育という営みがとても大切になります。

    教育とは単に知識や技術を伝える営みではなく、人間として何を大切にするべきかという価値観を次の世代に手渡す行為でもあります。もし教育が知識や技能の習得だけに偏り、精神的価値の継承を軽視するようになれば、社会全体は次第に倫理的な基盤を失っていくでしょう。合理主義が蔓延した社会で行われる教育は知育に偏っていて、徳育が等閑にされてしまいます。その結果、人々は精神のコアを徐々に失っていくことになるのです。

    大変残念なことに、現代日本において精神のコアを失いつつある人々は決して少なくありません。そしてさらに残念なのは、そのことに自覚のない人々もまた少なくないということです。人間は誰しもそうですが、経済的な成功と引き換えに、あるいは成功を求めるあまり、そうした大切なものが見えなくなってしまうことがあります。それは成功という目的が遂げられたかどうかに関係ありません。合理性によって経済的な繁栄を手に入れることは比較的容易かもしれません。しかし、いったん失われてしまった精神のコアを取り戻すことは、決して容易なことではありません。だからこそ私たちは、目の前にある選択が本当に正しいのかどうかを、伝統的な価値観に照らし合わせながら、一つひとつ選び取っていく必要があるのではないでしょうか。

    ■保守思想の危機
    著名な保守思想家である故・西部邁氏の核武装論には、看過できない論理の歪みが見受けられます。国家防衛を理念や外交、同盟や軍事力と段階的に積み上げておきながら、最終局面において核兵器を決定的な支えとして位置づける点です。一見すると感情に流されない冷静な議論のようにも見えますが、保守とは何かという根本を意識する時、ここでは重大な論理のすり替えが行われていることに気付かされます。それは、国家を最後に支える根拠を、国民の意思や覚悟ではなく、物理的な破壊力に委ねてしまっている点です。そこで描かれているのは、道具に依存する国家像に他なりません。

    そもそも、核がなければ独立国家たり得ないという主張は、飛車や角がなければ将棋が指せないと言っているのと大差がありません。飛車や角は確かに強力な駒ですが、それがなければ勝てない将棋など存在しません。むしろ、大駒に頼れない局面でこそ、指し手の深さが問われます。核を最終的な支えと考える発想は、国家を大駒がなければ立ち行かない未熟な指し手に貶めてしまいます。核抑止において数の多寡が決定的な意味を持たないのだとすれば、それは同時に、核の保有が絶対的な保証にならないことも示しています。数が問題にならない以上、真に問われるべきなのは、何を守ろうとしているのか、そして、そのために何を差し出す覚悟があるのかという点になるでしょう。

    日本社会には、核に対する強い拒否感が根付いています。これは時に、思考を放棄したアレルギー反応として、保守思想家から嘲笑の対象とされます。しかし、核兵器を近代合理主義の象徴とみなすならば、果たして嘲笑されるべきはどちらでしょうか。近代合理主義を仮想敵としながら、その帰結である核を肯定する保守思想は、致命的な自己矛盾を内包しています。核アレルギーは、唯一の被爆国という我が国の実体験に基づいた民族感覚です。かくも非道な兵器を、たとえ相手が敵であっても、そこに用いるべきではないという悟りなのです。

    むしろ、保守思想が守らねばならないのは、近代合理主義を忌避するこの感覚そのものではないでしょうか。近代合理主義が生み出した究極の兵器に対し、そこだけは踏み越えてはならないという、論理を超えた倫理観こそが、守るべき本丸です。保守思想とは本来、効率や合理性では測れない価値を守り続ける思想のはずです。その拒否感を切り捨て、核を合理的な選択肢としてのみ語るとき、皮肉なことに、保守思想の行き着く先は近代合理主義のそれと等しくなってしまいます。

    国家を最後に支えるものは兵器ではありません。最後の砦となるのは、愛するもののために命を差し出せる勇気と覚悟です。家族や共同体、文化や生活、それらを守るために退かないという強固な意志です。その覚悟がある国家は、核を持たずとも軽んじられることはありません。スイスのような永世中立国がその好例です。逆に、それらを失った国家は、どれほど強力な兵器を備えていても中身がありません。核を国防の要に据える思想は、現実主義を装いながら、実のところ国家と国民を信じることをやめた思想です。ここで問われているのは核の是非そのものではありません。保守思想が、何を信じ、何を守ろうとしているのか、その姿勢そのものです。

    依存は支配の種です。我が国が米国の属国状態を脱しきれない理由は、国防の要を米国に依存しているからです。しかしながら、この構造的な問題を克服する特効薬は核武装では断じてありません。それはやはり、国民一人一人の自覚にあるのではないでしょうか。それらを前提として、相手に手を出させない社会構造を構築することを考えれば良いだけです。依存と支配を断つには、まずその精神が自立することが肝要です。国民精神の自立に基づいた独立を成し得て初めて、憲法改正も軍事力の拡充も国家国民に資することが出来るでしょう。逆に現状での改憲や核武装は宗主国に都合よく利用されるだけに終わってしまうのではないでしょうか。

    ■文明の黄昏
    これまで、近代合理主義に基づいた文明が、いずれは滅亡を余儀なくされるという視点について述べてきました。合理主義が蔓延する世の中は病み、荒み、いずれ自縄自縛に陥り、自らの手によって滅ぶことが思想次元では明らかです。また、合理主義は社会のみならず、それを構成する個人においても同様の影響を与え、ともに病んでいくことにも言及しました。目下私たちは、個人は勿論、文明規模においても滅びをもたらす現実的な手段を手にした状態だといえるでしょう。

    どれほど巨大になった文明であっても、一旦核戦争が始まってしまえば、ひとたまりもありません。にもかかわらず、各国が核抑止の理屈で武装するのはやむを得ないことだと多くの人々が諦めています。故に、それを避けるための処方箋を示されても、机上の空論や理想論にしか見えないのは仕方のないことです。けれども本当は、処方自体に効果があるかどうかは問題ではないのかもしれません。誤解を恐れずに言えば、文明がまるごと消滅したところでさしたる問題ではありません。なぜなら、文明の興亡は今に始まったことではないからです。文明は、滅びるときは滅びるものです。ただし、滅び去る原因はいつも決まっていて、刻々と移り変わる状況に適応できるかどうかが問題なだけです。

    近代以前の社会では、宗教が示す神や宇宙の秩序が価値の中心にあり、人間はそれに従う存在だと考えられてきました。やがて産業革命を経て、文明の中心は理性へと移りました。このころから合理性や効率、利益獲得が社会の目的となり、近代社会は合理化の進む世界となりました。しかしながら、合理性は強力な道具ではあっても、人間の心を満たすことは出来ません。現代では、物質的な豊かさの傍らで、精神の空洞化が叫ばれるようになりました。こうした状況の先に期待されるのが新たな精神文明の到来です。それは宗教への単純な回帰でも、理性の否定でもありません。理性や科学を道具として用いながら、人間精神を再び文明の中心に据えた社会のことを指しています。変われるものだけが生き残るのが世の常なのだとすれば、そこに至るかどうかが運命の分かれ道となるに違いありません。

    現在、私たちの文明は、この精神文明にたどり着けるかどうかの瀬戸際にあります。そのための切符が精神のコアです。ただし、切符があるから、それが約束されるというわけではありません。肝心なのは、切符を手に持って改札へと走り出すことです。本当に大切なのは、結果のために行為することではなく、行為のために行為することだからです。コアを取り戻す営みや、核抑止を脱却しようともがく営みそれ自体が尊いのです。結果は問題になりません。滅びてしまえば、再び一からやり直せば良いだけです。けれども、合理性によって再起した文明が精神のコアを欠くならば、再び滅び去るのが必定です。最も重要なのは、一人ひとりの人間が精神のコアを保ったまま、生きようとする意志を持ち続けること、もがき続けることです。その意志が途絶えない限り、文明の黄昏は、新しい夜明けの始まりでもあるのではないでしょうか。

    ■愛される国
    目下、日本のソフトパワーが世界で注目されています。日本で育まれたアニメや漫画など文化的コンテンツの愛好家が世界的に増えている状況は、国防に寄与しない筈がありません。世界中の子供たちが同一の文化的体験を共有する事態は、歴史上かつてありませんでした。特に、我が国が長い歴史の中で育んできた和の文化の発信が、世界を根底から変えずにはおかないことでしょう。要するに、世界各国の人々から最も必要とされ、愛される国家国民であることが、新しい時代の安全保障となるのです。それは、世界中の人々から大切に思ってもらえる国を目指すという意味です。目的のために手段を選ぶという姿勢が失われない限り、日本は日本であり続けることができるでしょう。かくして我が国が核を持つことなく相手の核を無力化できるモデルケースを示せるなら、それに各国が倣うことで、いずれ世界には真の平和と安寧が訪れると期待できるはずです。

    ■最後の希望
    反対に、ニューメディアのもたらす新しい空気感に流されるがまま、安易な核武装を行えば、世界が破滅を迎える未来が、より現実的なシナリオとなるでしょう。我が国が核を持つという選択は、国際社会にとって、終わりの始まりを告げる狼煙となるのです。同時にそれは国民全体の価値観をも蝕んで行くことになります。自国の安全確保を理由に無制限の破壊力を正当化する社会は、いずれ内側から腐敗していく定めだからです。抑止の名のもとに、恐怖と猜疑に凝り固まった社会が、長期的に健全であり続けることは極めて困難です。抑止とは、相手を殺せる能力を誇示することではなく、殺さずに済む関係をいかに構築するかという問題です。中でも愛すべき理由を象徴するソフトパワーは、理想論ではなく、現実的な抑止力の一つです。真の強さは、破壊の選択肢を増やすことではなく、破壊に頼らずに済む選択肢を、粘り強く積み上げる努力に反映されるのではないでしょうか。

    日本が核を持たないという選択は、国家が滅びるリスクを請け負うことで文明が滅びない可能性を残そうとする茨の道です。しかしながら、破滅へと突き進む現代文明にとっては、唯一残された希望でもあるのです。インドとパキスタンの例は、核が平和をもたらした実例ではありません。むしろ、核という最終兵器を抱えたまま、不安定な舞台の上で危うく踊り続けている現実を示しているに過ぎません。確かに、核抑止の名のもとに互いが互いを威嚇し合う世の中になるのは、やむを得ない事なのかもしれません。けれども、そこに葛藤して、平和的な共同体を構築すべく、もがき続けることにこそ、文明の存在意義があると言えるでしょう。

    ■鍵
    ジョン・カルフーンが行ったユニバース25の実験は、理想的な物質環境を与えられたマウスが、やがて社会的崩壊と絶滅に至るという衝撃的な結果を示しました。この実験は人類の行く末を考える上で示唆に富んでいます。崩壊の引き金は物資の枯渇ではなく、存在意義の喪失でした。この洞察は、現在、人類が直面している危機を考える上で、きわめて重要です。

    人類がマウスの二の舞を演じないためには、どうすれば良いでしょうか。さらなる技術の高みを目指すことでしょうか。あるいは人口を減らし、管理するための制度設計でしょうか。結論から言えば、人類の行く末とマウスのそれとを分かつ肝は、精神のコアを保てるかどうかです。それある限り、文明は存在意義を失うことがありません。先人の知恵を子孫に伝える術を持たないマウスにとっては無理な相談でも、私たち人間は違うのです。現代文明の危機は、技術の急速な進歩と反比例するように、この精神的基盤が失われつつあることです。節度を欠いたエゴと結びついた合理主義が蔓延することで、人も社会も病んでいくことを避けられません。確かに、技術は文明を外側に押し広げる力として働きますが、その内側を満たすのは人々の幸福でなければなりません。外側だけが膨張して内側が空洞化すれば、いずれ泡がはじけるように消え去るのが必然なのです。

    故に、文化の継承と教育のあり方が重要になります。知育偏重の現代教育は破滅へのアクセルに他なりません。本当に大事なのは徳育です。惻隠の情と無常観は共同体の中で、伝統的な文化と徳育を通じて伝達されるものです。そのような社会のもとで、核武装の放棄は精神のコアの密度を示す象徴となるでしょう。核兵器とは合理主義と節度なきエゴの究極的産物であり、惻隠の情とは本質的に相容れないからです。核に関する選択は、単に防衛戦略の問題ではなく、文明の在り方、その存在意義を決定づける指標となるのです。

    勿論、核の放棄は国家を破滅に導くかもしれません。それでも、結果のために行為するのではなく、行為のために行為するとき、私たちの文明はマウスの辿った道筋とは異なる未来を手に入れる可能性が芽生えるのではないでしょうか。たとえ現在の文明を失うことになっても、精神のコアを抱いて誠実にもがいた人々の営みは、次世代の文明の種として受け継がれることでしょう。無常を悟り、惻隠の情を持って、生きようともがき続けること。それが文明の尊厳であり、存在意義です。ステージ・クリアの鍵は、そこにあるのではないでしょうか。

    #創作大賞2026 #オールカテゴリ部門

    尚、本稿は

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    SHO

     
     
    私は岡山県に暮らす五十代の整形外科開業医です。 電脳空間で蘊蓄を垂れるようになって二十年以上が過ぎました。その軌跡をここに投稿します。 読者の皆様に、思索のきっかけをご提案できれば、これに勝る喜びはありません。

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