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ケーガクッ!第三章:『甘美と賞賛と、』

    第一節:残酷な甘美


    四月の終わり。 
    むせ返るような男たちの汗と、床ワックスの匂いが染み付いた209号室に、そわそわとした奇妙な熱気が漂っていた。
    警察学校という無酸素の檻の中で、泥水をすするように最初の一ヶ月を生き抜いた俺たちに、ついに束の間の「自由」
    ――ゴールデンウィークの特別外泊が迫っていたのだ。
    消灯前のわずかな時間。同室のバグった動物園の連中も、シャバ(外界)への渇望を隠しきれずにいた。
    「俺、マックのハンバーガー十個食います! 時間気にしないで、ゆっくり噛んで!」
     十八歳にして柔道三段のショウキが、犬のように目を輝かせて言う。
     「俺は……とにかく寝る。三日間、泥のように寝る……。これ以上走ったら、骨が粉になる……」
     長身だが線が細いアツトは、すでに半分意識を飛ばしながらベッドに突っ伏していた。 
    「お前ら夢がねぇなー! 俺は地元のツレとクラブ行って、朝まで飲み明かすっすよ!」 
    空気が読めないトクジがヘラヘラと笑うと、白バイ隊員志望で真面目なトモナリが呆れたようにため息をついた。
     「お前、休暇中も警察官としての自覚を持てよ。俺は実家に帰って、交通法規のテキストを復習するつもりだ」 
    「うわ、出たよ優等生。ヤマトはどうすんの?」
     話を振られた筋骨隆々のヤマトは、退屈そうに首の骨を鳴らした。
     「あ? 俺は地元のジム行って、本物のバーベル上げるだけだ。お前ら、休みボケして五月に俺の足引っ張んなよ」
    斜に構えてはいるが、ヤマトの顔にも隠しきれない高揚感が浮かんでいる。
     見ている方向も、休みの使い方もバラバラな五人。
    室長である俺は、そんな彼らのやり取りを苦笑しながら聞いていた。
    だが、偉そうな顔をして彼らをまとめている俺自身も、内心ではドロドロとした欲望を抱えていた。
    この一ヶ月、体力至上主義の地獄で底辺を這いずり回り、それでも必死に自尊心を保ってきたのだ。
    流石に「ご褒美」が欲しかった。
     俺のご褒美。
    それは、外で俺を待ってくれている彼女――マコに会うことだった。

    そして迎えた、外泊日。
     重い鉄の扉を抜け、待ち合わせ場所の駅に降り立った瞬間、俺はひどい目眩を覚えた。
    街を行き交う人々の歩くスピードが、異常なほど遅く感じる。
    当たり前に耳に響く怒号が聞こえない。
    ただ息をしているだけで許される世界が、今の俺にはひどく異質だった。

    「お疲れさま」
    背後から届いた、明らかに俺に向けられた言葉。
     聞き慣れていたはずなのに、地獄のような日々の中で忘れかけていた、今最も求めていた声。 
    その響きを耳にした一瞬の間に、シャバで過ごしたかつての穏やかな記憶が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
    俺は弾かれたように振り返った。

    そこには、春物の柔らかいカーディガンを着たマコが立っていた。
    教場の殺伐とした空気とは対極にある、花のようないい匂いが鼻腔をくすぐる。
     その姿を見た瞬間、俺の胸の奥で、張り詰めていた太いワイヤーがブツンと音を立てて切れた気がした。
    「マコ……」
     声が震えそうになるのを、必死に奥歯を噛み締めて堪える。
     会いたかった。
    この一ヶ月、何度心が折れそうになったか。
    何度荷物をまとめて逃げ出そうと思ったか。
    彼女の顔を見た瞬間、我慢していたすべての弱音が決壊しそうになるのを、二十三歳の男としての意地だけで喉の奥に押し留めた。

    昼下がり、洒落た珈琲屋に入り、本格的なドリップコーヒーと見た目も美しいケーキを注文した。
    教場での息の詰まるような自習時間の合間、紙コップで胃に流し込んでいたインスタントコーヒーで満足していた自分を恥ずかしく思い、それとは比べ物にならない、別次元の芳醇な香りが漂う。
    目の前に運ばれてきた、色鮮やかなケーキ。 
    フォークで小さく切り取り、口に運んだ瞬間だった。 

    ――なんだ、これ。
    味覚の整理が追いつく前に、視界が滲んだ。
     自分でも全く予期せぬタイミングで、涙腺が緩み、ポロリと涙がこぼれ落ちたのだ。
    向かいに座るマコが驚いたように目を丸くしている。
    俺は誤魔化すように目をこすり、温かいコーヒーを含んで、ようやくその「涙の理由」を理解した。

    ケーキが、甘すぎたのだ。 
    いや、味覚だけの話ではない。
    警察学校での食事は、味わうためのものではなかった。
    時計の針に急かされ、味など感じる暇もなく、ただ生き延びるためのカロリーを胃袋に叩き込むだけの「作業」だった。
     そんな殺伐とした閉鎖空間の食事に、俺の身体は完全に最適化されてしまっていたのだ。
    思いの丈など一切介在しない世界に慣れきった俺の舌と身体にとって、このシャバの繊細で豊かな甘味は、強烈な違和感であり、劇薬でしかなかった。

    (ああ、俺はもう、向こう側の人間なんだな)
    コーヒーの苦味と一緒に、その事実を飲み込んだ。 
    シャバを本当に味わえるのは、あそこでやれることをすべてやり切った後でいい。
    俺は自分にそう言い聞かせ、無理に笑顔を作った。
    「ごめん。なんか、ケーキが美味すぎたわ」
    俺の強がりを、マコは静かに、見透かすような目で見つめていた。
     そして、彼女はコーヒーカップに両手を添えたまま、唐突に口を開いた。
    「ねえ……今日の夜、お父さんと話してみない?」
    「……は?」 思考が停止した。 
    「お父さん、今日たまたま非番で家にいるの。帰ってきてるなら、少し顔が見たいなって」
     「いや、待て待て待て!」
    冷や汗が一気に噴き出した。
    彼女の父親は、現職の警察官だ。 
    いつかはご挨拶に行かなければと思っていたが、今日!? 
    しかも、心身ともにボロボロで、ケーキの甘さで泣き出してしまうようなこんな情けない状態で!?
    「だ、ダメだ! 何の準備もしてないし、心の準備が……」
     「大丈夫だよ。ただの夕食だから」
     マコは柔らかく微笑むが、有無を言わせぬ響きがあった。

    予定調和の一切ない、完全な不意打ち。
     数時間後、俺は極度の緊張で胃をキリキリと痛ませながら、マコの実家の玄関チャイムを鳴らしていた。 
    現場で血と泥を啜ってきた本物の警察官に、俺のこの薄っぺらい覚悟を見透かされるのではないか。
    どんな厳しい言葉をぶつけられるのか。
    俺は必死に心の鎧を着込み、強がる準備をしていた。
    だが、居間に通された俺を出迎えたのは、見慣れないほど穏やかな笑顔の、一人の「父親」のプライベートな姿だった。 
    食卓に並んだ見事な手料理と酒。
    杯を交わしながら、彼は俺を問い詰めるどころか、深く頷きながら口を開いたのだ。
    「よく、最初の一ヶ月を乗り切ったな」
     何十年とこの過酷な職に就いている彼は、一ヶ月と持たない若手たちを星の数ほど見てきたのだろう。
    その言葉には、本物の労いがこもっていた。
     「本当にキツかったら、辞めたければ辞めればいいんだぞ」
    その予期せぬ優しさに触れた瞬間、俺が必死に纏っていた心の鎧が、音を立てて崩れ落ちていくのが分かった。 
    ずっと、気を張っていた。
    二十三歳の元社会人として、十代の同期たちに後れを取るまいと、そして彼らを見捨てまいと、胃が千切れるような重圧の中で孤独に戦ってきた。
    (こんなにも、心強い味方がいたのか)
    張り詰めていた糸が切れ、俺はその温かい優しさに、すべてを委ねるようにもたれかかってしまった。
     気がつけば、俺は用意された酒を信じられないペースで煽っていた。
    接待で鍛えたはずの酒の飲み方も忘れ、ただ安心感に酔いしれ、そして――そのまま畳の上で無惨に潰れた。

    翌朝、酷い二日酔いと自己嫌悪で目を覚ます。
     休みだというのに、心は全く休まっていなかった。
    俺の鞄の中には、分厚い実務六法と、ノートパソコンが詰め込まれていた。
     昨夜の失態を引きずっている暇はなかった。
    あの現職警察官の、義父になるかもしれない男の「よく乗り切ったな」という労いの言葉に、なんとしても応えたい。期待を裏切りたくない。
    その思いが、鈍る頭を強制的に覚醒させた。
    連休中、シャバの空気に浸りながらも、俺にはどうしても「やらなければならないこと」があった。
     俺が室長を務める二〇九号室の同期たちを、理不尽な連帯責任と赤点の地獄から救い出すための、「特製・漢字テスト対策テキスト」の作成だ。
    パソコンのモニターを立ち上げ、ワープロソフトを開く。
     体力では十代の同期たちに絶対に勝てない俺が、唯一彼らを守れる武器。
    それは社会人時代に培ったPCスキルと、情報の整理能力、そして広辞苑で身につけた語彙力だ。
     赤点で震えていたトクジの情けない顔や、恐怖に顔を歪めていたヤマトの姿が脳裏をよぎる。
    教官が好んで出してくる難解な法律用語、過去の傾向、間違えやすい部首。
    俺はそれらを徹底的に分析し、勉強が壊滅的なヤマトたちでも直感的に理解できるように、レイアウトや文字のサイズをミリ単位で見やすく調整していく。 
    それはただの勉強のテキストではなく、俺の分隊を理不尽な暴力から守るための「盾」を鍛え上げる作業だった。 

    「絶対に見捨てない」
    その執念だけが、静かな部屋の中でキーボードを叩く原動力になっていた。
    ゴールデンウィークが明け、再びあの無酸素の地獄(教場)へと戻ってきた数日後のこと。
     朝の教場で、思いがけない歓声が上がった。 
    四月の終わりに俺がデザインし、業者に発注をかけていた小隊の「学級Tシャツ」が、ついに段ボール箱いっぱいに届いたのだ。
    「うおおお! マジかすげえ!!」
     「めちゃくちゃカッコいいじゃん、これ!!」
    袋が開けられた瞬間、教場の空気が弾けた。
     ヤマトやトクジ、十代の同期たちが、俺がデザインした力強い『限界突破』の筆文字がプリントされたそのTシャツを、次々と自分たちの体に当ててはしゃいでいる。
    八歳から習字をやってきた俺にとって、己を示す最適なツールはいつだって「筆文字」だった。
    デジタルなフォントでは表現できない、泥臭くて荒々しい温度。俺の熱量をすべて注ぎ込んだその文字を、不器用な同期全員が背中に背負ってくれている。
    「おい、これ着て走ったら絶対タイム縮むぞ!」
     ヤマトが屈託のない笑顔で、俺の肩をバンバンと叩いた。
    その光景を見た瞬間、徹夜で作ったテキストの疲労も、シャバへの未練も、すべてが吹き飛んだ。

     純粋に、嬉しかった。 
    体力では足手まといになっている俺が、自分にしかできない技術(クリエイティブ)で、彼らを驚かせ、笑顔にしている。
    警察学校が強要する「画一的な制服」ではなく、俺という個性が生み出したデザインを、クラス全員が誇らしげに身に纏ってくれているのだ。

    (自分にできることで、誰かが笑顔になる)
    胸の奥から込み上げてくる熱い感情。
     それは、俺が今の人生において最も大切にしている「在り方」の、確かなスタートラインだった。
    孤高の優等生を辞め、誰かのために自分の武器を使う。その誇りが、俺の背筋を力強く伸ばしてくれた。
    俺の心は、かつてないほどの充実感と万能感で満たされていた。
     俺が作った漢字テキストで知性を底上げし、この『限界突破』のTシャツで団結力を高めた俺たち分隊は、もう誰にも負ける気がしない。
    俺の戦略さえあれば、五月の「体育大会」だって絶対に頂点を獲れる。
    俺は、自分のデザインしたTシャツを着て笑い合う同期たちを、誇らしげな目で見渡した。

    ――だが。 
    この成功体験が生み出した甘美な「万能感」が、やがて俺の心に冷酷なエリート意識という名の「毒」を蔓延させ、取り返しのつかない悲劇への引き金を引くことになるとは、この時の俺はまだ、知る由もなかったのだ。


    第二節:限界の先、泥臭き絆


    鼻腔を突く強烈なサロメチールの匂いが、今の俺の惨めさを象徴していた。

     五月初旬。

    警察学校のグラウンドには、初夏を思わせる強い日差しが照りつけていたが、俺の心には冷たい絶望がへばりついていた。 


    「次! 位置につけ!」  

    教官の無機質な声に弾かれたようにスタートラインに立つ。

    この時期、シャバの小学校や中学校、高校という学校では運動会が行われる。

    この警察学校も例外ではない。

    1週間を要しての体育大会が開催される。

    今日はそこに向けた体力調査の日。


    体調は最悪だった。

    両足には鉛でも詰め込まれたような重さがあり、息を吸うたびに肺の奥がひゅるひゅると鳴る。

    結果は、無惨なものだった。

    百メートル走、クラスで堂々のビリ。

    同世代の連中はおろか、十代の若者たちがあっという間に背中を小さくしていくのを、俺はただ歪んだ顔で見送ることしかできなかった。

    かつて社会人として培ってきたプライドなど、このアスファルトの上では何の意味も持たない。

    下半身の圧倒的なパワー不足。

    己の肉体のポンコツ具合に、吐き気すら覚えた。

    だが、このまま這い蹲って終わるわけにはいかない。


    続く懸垂。

    俺は制服の下、大胸筋から肩にかけて五枚もの湿布をベタベタと貼り付けていた。

    筋肉の断裂めいた痛みを、冷感という別の刺激で強制的に誤魔化すための悪あがきだ。

     (せめて、腕の力だけは……!)  

    鉄棒にぶら下がり、歯を食いしばって体を持ち上げる。

    一枚、また一枚と剥がれそうになる湿布の感覚を無視し、ただ数字だけを脳内でカウントした。

    結果は十回。

    ダイエットで絞った細身の体型が幸いし、悪くはない結果だったが、鉄棒から降りた俺の手に残ったのは、達成感ではなく理想と現実が結びつかない強烈な歯がゆさだけだった。


    数日後、警察学校における一大イベント、「体育大会」の幕が切って落とされた。 

    初夏の風が吹き抜けるグラウンドで、俺たちの小隊は異彩を放っていた。

    全員が、俺が徹夜でデザインした『限界突破』の筆文字がプリントされた揃いのTシャツを身に纏っている。

    荒々しい墨の飛沫が、あいつらの背中で躍動している。

    自分で作ったものを集団が着ている光景は少し気恥ずかしかったが、それ以上に、俺の胸には黒々とした「誇り」が膨らんでいた。


    十キロマラソンを前に、俺は寮の部屋で母が差し入れてくれた「栗きんとん」の最後の一個を口に放り込んだ。

    素朴で優しい甘さが、ガチガチに強張った胃の腑に染み渡っていく。 

    「やってやるさ」

    限界突破を背負い、スタートラインに立った俺は、文字通り、己の限界を超えて走り抜けた。

    結果は四十二位。決して褒められた順位ではないが、目標としていた「五十位以内」は見事にクリアした。

    俺の戦略通りだ。

    確かな成長の証を掴み、俺の心の中で、あの「エリート意識の毒」はさらに甘く、深く静脈へと回っていった。


    大会中盤の夜、優勝を視野に入れた作戦会議が行われている、消灯後の暗い自習室の空気は、息が詰まるほど張り詰めていた。 

    疲労が蓄積するにつれ、クラス内の人間関係に致命的な亀裂が生じ始めていたのだ。

    限界状態のグラウンドでは、人間の本性が剥き出しになる。
    学生気分が抜けず、どこか緊張感に欠ける十八歳の高卒組。

    それに苛立ち、容赦ない言葉を浴びせる、年長者たち。 

    「あいつら、全然本気でやってないじゃないか!」 

    年長者の一人が吐き捨てた言葉が、暗い部屋に重く響く。

    二十三歳という、両者の中間に位置する俺は、この亀裂を「修復」しなければならなかった。

    いや、俺なら修復できると本気で思っていた。

    Tシャツのデザインで彼らを熱狂させた俺の「知性」と「戦略」があれば、こんなもの容易いことだと。

     「いいか、感情的になるな。効率的に勝つためには――」 

    俺は冷静な口調で、年長者たちには若者のモチベーション管理の重要性を説き、若者たちには年長者の意図を論理的に翻訳しようとした。 

    だが、俺の言葉は誰の心にも届かなかった。 

    若者たちは伏し目がちに黙り込み、年長者たちは「お前は分かっていない」という冷ややかな視線を俺に向けた。 

    その時、俺はかつてないほどの強烈な虚無感に襲われた。 

    正しいのは年長者だ。

    だが、その高すぎる理想に十八歳の心はついてこれない。

    そして何より、俺の「論理」や「戦略」など、血の通った人間の感情の前では、薄っぺらい紙切れほどの価値もなかったのだ。 

    デザインでこいつらをコントロールできると思っていたのは、俺の浅ましいエリート意識が作り出した幻想だった。

     (俺は、何も分かっていなかったんだ……) 

    暗闇の中、己の傲慢さを思い知らされた俺は、拳を強く握りしめた。 

    前職の優秀な上司たちのような、スマートでカリスマ性のあるリーダーシップなど、今の俺には絶対に発揮できない。

    なら、どうする。 

    格好つけるのは、もうやめだ。 

    本当は、デザインも勉強も、そして体力テストですら器用にこなす「クールで頼れる年上」として、スマートに振る舞いたかった。

    だが、現実はどうだ。

    体力では誰よりも劣り、足手まといになっているのが今の俺だ。

    その残酷な事実から目を逸らしていては、こいつらの心になんて一生届かない。

    だから今、ある暴露を口にする。


    数週間前の夜。

    十八歳のヤマトを人目のつかない屋上に呼んだ。

     「ヤマト。お前が苦手な漢字や法律の勉強、俺が全部教えてやってるよな?」

    「ああ。助かってる」

    「代わりと言っちゃなんだが、、、俺を鍛え上げてくれ!」

    頭を下げる二十三歳の俺を、ヤマトは一瞬ポカンと見つめ、やがてニカッと人の良い歯を見せて笑った。 

    「よっしゃ、その代わり俺のメニュー、死ぬほどキツいからな!」

    それからの日々は、文字通りの地獄だった。 

    ヤマトが組んだトレーニングメニューは、十八歳の無尽蔵なスタミナを基準にした容赦のないスパルタだった。

    消灯前、薄暗い中庭での無限スクワット。

    膝が擦りむけるほどの過酷なランジ。

    肺が千切れそうになるダッシュ。 

    「ほら! 足止まってんぞ! 気合入れろ!」 

    「うるせえ……! やっ、てやるよ!」 

    年下のヤマトから飛んでくる容赦のない怒声。

    俺は胃液を吐き出しそうになりながら、泥まみれになってあいつの背中に食らいついた。 


    ――そして、現在。消灯後の自習室。  

    俺は、湿布まみれのボロボロになった体をあえて隠さず晒すことで、俺とヤマトの「共犯関係」をクラスの皆に伝えた。

    本当なら、こんな無様な姿を誰にも見せたくはなかった。だが、そんなちっぽけな見栄よりも、今の俺にはどうしても譲れないものがあった。

    勝ちたいのだ。
    あの『限界突破』のTシャツを着たこのクラス全員で、本気で総合優勝という頂点に立ちたい。
    そのためには、俺がこれ以上、一ミリたりとも足を引っ張るわけにはいかなかった。
    『あいつ……あそこまで本気でやってんのかよ』
    年長者たちの視線から、冷ややかな諦めが消えた。
    体力で劣る俺が誰よりも必死にもがいている姿を見て、彼らもまた「年長者としての意地」を再燃させたのだ。
    同時に、若者たちの目つきも変わった。
    理屈ばかりこねていた年長者が、十八歳の自分たちを頼り、同じ目線で汗を流している。
    その事実は、彼らの中にあった「どうせ大人は分かってくれない」という反発心を溶かし、
    純粋な「このチームで勝ちたい」という熱狂へと変えていった。

    俺とヤマトの関係が、気づけば「若者」と「年長者」を繋ぐ接着剤になってくれたのだ。
    孤高を気取って浮いていた俺が、泥まみれになってようやくこの集団に馴染んでいく。
    年齢の壁も、これまでの生い立ちも、汗と泥の中にすべて溶けて消え、同期というかけがえのない絆が芽吹いた。

    俺たちはもう一度、一つになった。
    バラバラだった個性が、背中に同じ『限界突破』の黒い墨文字を背負い、一つの巨大な熱狂のうねりへと変わっていく。
    その圧倒的な変化は、大会中盤以降の競技結果に如実に表れた。
    息を合わせなければ一歩も進めない『ムカデリレー』
    ここでは、ヤマトたち十代の明るく勢いのある号令と、大卒の年長者たちの冷静なペース配分が完璧に噛み合った。
    誰かがバランスを崩しても、決して怒声は飛ばない。
    「焦るな、合わせろ!」
    という励ましが飛び交い、驚異的な追い上げを見せた。
    全員の呼吸が試される『長縄跳び』
    ここでは、体力の尽きかけた者を両脇の仲間が強引に引っ張り上げ、全員が酸欠でグラウンドに倒れ込むまで、ただ無心で跳び続けた。
    極めつけは『綱引き』だった。
    俺のようなパワーのない人間も、筋肉自慢の若者たちも、全員が同じ角度で空を見上げ、一本の太い綱に魂ごと体重を乗せた。
    ここは綱引きのコツを徹底的にリサーチし、全員に理解させた俺の知性と戦略の賜物。
    心が一つになった今だからこそ、乾燥したスポンジの如く、俺の声は全員の心に届いたのだ。
    顔を真っ赤にして太い綱を引く同期たちの横顔は、誰一人欠けても成立しない、不器用で、泥臭く、そして最高に美しい一枚の絵だった。

    特別なスター選手がいるわけではない。
    だが、泥臭い団体種目で次々と上位に食い込んでいく俺たちを、他のクラスは驚愕の目で見つめていた。
    理不尽な無酸素の檻の中で、ただ生き延びるためだけに集められた烏合の衆が、確かな『絆』という最強の武器として機能した瞬間だった。

    そして――最終日。  
    快進撃を続けた俺たちは、誰もが予想していなかった『暫定一位』という奇跡の切符を握りしめ、いよいよ体育大会の最終日を迎えたのだった。
    残すは、最も過酷なシメの競技「大楯リレー」のみ。
    このまま逃げ切れば、総合優勝だ。

    だが、その日の朝。
    狂ったような特訓で酷使し続けた上に連日の競技をこなしていった俺のふくらはぎは、すでに限界の底を突き破っていた。
    ――立っていることすら、奇跡に近い状態だった。
    しかし、泥臭く、不器用に、あいつらと同じ目線で這いずり回るしかない。
    傷だらけになりながら、一人ひとりの心に寄り添い、共に育っていく。
    そんな「泥まみれのリーダー」になるしかないのだと、俺は静かに、だが強烈な覚悟を決めたのだから。
    初夏の日差しが容赦なく降り注ぐグラウンドの片隅で、俺は自分のふくらはぎを激しく叩く。
    プレッシャーと極度の疲労で、視界がぐらぐらと揺れる。
    俺のせいで、目の前にある優勝を逃すかもしれないという重圧が、鉛のように胃を締め付けた。
    死んでも順位を落とせない。
    これまでの特訓も、あの夜の覚悟も、すべてが水泡に帰す。
    恐怖で震えそうになる足に、俺はもう一度、力一杯平手打ちを見舞った。

    スタートの号砲が鳴る。
    砂煙を上げ、同期たちが次々とジュラルミンの大楯をバトンのように繋いでいく。
    順位は暫定一位。
    心が一つになった、小隊の底力を見せつけている。

    そして、俺の番が来た。
    「 頼んだぞ!」
    先頭を走る前走者から、ずしりと重い大楯を受け取る。
    走り出した瞬間、俺は絶望した。
    足が、全く前に出ない。
    酷使しすぎたふくらはぎは、すでに推進力を生み出す機能を完全に失っていた。
    腕の力だけで重厚なジュラルミンを抱え込み、無様なフォームで地面を這うように進む。
    (動け! 動け、俺の足ッ!)
    心の中でどれだけ叫んでも、肉体は残酷なまでに動かない。
    背後から、猛烈な足音が迫ってくる。
    二位の小隊のランナーだ。
    あっという間に横に並ばれ、そして、俺は無惨にも抜き去られた。
    暫定一位からの、転落。
    「ああっ……!」
    喉から掠れた声が漏れた。
    俺のせいで。俺が、ぶち壊した。
    絶望と自己嫌悪で目の前が真っ暗になる中、フラフラになりながら次走者の待つ中継ポイントへとなだれ込む。

    そこで待っていたのは
    ――ヤマトだった。

    俺は、罵倒される覚悟で顔を上げた。
    あの夜のような、冷ややかな失望の目を向けられると思った。
    だが、ヤマトは違った。
    「 あとは任せろ。」
    静かに、でもはっきりと感じた、優勝を見据えた闘志。
    ヤマトは俺から大楯を強引に引ったくると、太陽のように眩しい笑顔を向け、弾かれたようにグラウンドへと飛び出していった。
    その後ろ姿には、俺がデザインした『限界突破』の黒い筆文字が、汗で背中にべったりと張り付いていた。
    ヤマトだけではない。
    俺の無様な走りを見ていた同期の誰一人として、俺を責める者はいなかった。
    「よく繋いだ!」
    「ナイスファイト!」
    と、泥だらけの俺の肩をバンバンと叩き、ゲラゲラと笑っている。
    俺のちっぽけな自尊心と自己嫌悪は、彼らの巨大な熱量に飲み込まれ、完全に浄化された。
    ヤマトは鬼神のような走りを見せた。
    俺が作ってしまった絶望的な差を、あいつは十八歳の若さと、俺の教えたノートの恩返しとばかりに、文字通り命を削って猛追していく。
    そして、最終コーナー。
    全員の雄叫びが一つになり、トップのランナーを抜き去った。
    この瞬間、俺たち小隊のボルテージは最高潮に達した。
    「うおおおおおおッ!!」  
    そのままトップでゴールテープを切ったヤマトに、全員が雪崩れ込むように抱きつく。

    総合優勝。
    歓喜の輪の中で、俺は一人、ボロボロと涙をこぼしていた。
    痛いほどに分かった。
    一人だったら、俺はとっくにあの暗い部屋で心が折れて逃げ出していた。
    知性や戦略で一人で生き抜こうとした自分の浅はかさを知った。
    足を引っ張る不器用な自分を、ただ笑って許し、カバーしてくれる仲間がいる。
    これこそが、一人の能力では成し得ない、真の「限界突破」なのだ。
    汗と泥と涙にまみれた『限界突破』のTシャツを着た俺たちは、ようやく本当の意味で、一つの巨大な「家族」になった。
    初夏の青空の下、俺の胸の中には、言葉では到底表現しきれない、熱く、甘美な嬉しさが溢れ返っていた。


    第三章3節『取り返しのつかない代償』

    グラウンドの砂埃と、筋肉の断裂を誤魔化すためのサロメチールのツンとした匂いは、いつの間にか消え失せていた。 体育大会での劇的な総合優勝。
    泥まみれになって掴み取った『限界突破』の冷めやまぬ熱狂は、極限の緊張状態から解放された反動と相まって、肉体と欲望のタガを外してきた。
    体育大会が終わった直後の週末、特別外泊でシャバ(外界)に出た俺の心は、完全な「祝祭モード」に支配されていた。
    久しぶりに帰った実家の食卓で、俺は体育大会での快挙を誇らしげに家族に語っていた。
    俺が徹夜で引いた『限界突破』の筆文字がバラバラだったクラスを一つにし、全員の心を繋ぎ止め、見事に総合優勝の頂点をもぎ取ったという痛快な英雄譚。
    両親からの労いと惜しみない称賛の言葉にすっかり気を良くした俺は、己の偉業を祝う杯のごとく、後先考えずにアルコールを煽った。
    まだまだ未熟とはいえ、ヤマトとの地獄の特訓で極限まで絞り上げ、研ぎ澄ませたはずのストイックな肉体に、ビールと脂っこい食事を際限なく流し込んでいく。
    限界を突破して結果を出したのだから、これくらい許されるはずだ。
    そんな浅ましい「甘え」と万能感が、これまで必死に築き上げてきた自制心を、ドロドロのヘドロのように溶かしていった。
    実家から寮へ戻る道すがらも、駅のコンビニで袋いっぱいに買い込んだ菓子パンやチョコレート、強炭酸のジュースを無心で胃袋に詰め込んだ。
    美味いという感覚すら麻痺し、ただ己の身体を甘やかして痛めつけるような狂気的な暴食。
    それが、過酷な環境で悲鳴を上げていた精神の、歪んだ防衛本能だったのかもしれない。

    翌週、警察学校の冷たいベッドで目を覚ました俺の肉体は、はっきりと重篤な不調を訴えていた。
    季節は初夏を迎えようとしていた。
    じっとりとまとわりつくような湿気を帯びた暑さの中、アルコールと暴食のダメージが抜け切らない身体は、授業中にグラウンドに立つだけで視界がぐらぐらと揺れた。
    胃袋の底には消化しきれない油と砂糖が鉛のように溜まり、四月の頃に持っていた、あの張り詰めた氷のような緊張感は、俺の中から欠片も残っていなかった。
    そして、その「気の緩み」という甘い猛毒に侵されていたのは、決して俺だけではなかった。

    「……おい。なんだお前らのその点は」
    教場にて返却された漢字テストの答案用紙を見て、俺は小さく舌打ちをした。
    仲間のための問題集を作成をしていた自分にとって、満点は当たり前だった。
    久々の無惨な点数。
    自分だけでなく、クラス全体の点数も軒並み急降下していた。
    続く居室の点検でも、初歩的な清掃漏れや、整理整頓の不備が相次いで教官から指摘された。
    明らかに、クラス全体が浮ついていた。
    体育大会の熱狂から抜け出せず、誰もが「俺たちはやればできるんだ」という根拠のない過信に浸りきっていた。
    室長として、そして二十三歳の年長者として、ここで一度、手綱を厳しく締め直さなければならない。
    「優勝の余韻はもう捨てろ。ここは警察学校だぞ」と、冷水を浴びせるように指摘すべきだった。
    だが、俺の口からその言葉が出ることはなかった。俺自身が祝祭の甘い汁を吸い、疲労と胃もたれを言い訳にしていたからだ。
    せっかく泥まみれになって一つになったクラスの空気を、俺の小言で悪くしたくない。
    自分もだらけているのに、人に偉そうなことは言えない。
    そんな逃げの感情が、俺の口を重く塞いだ。
    そのくせ、夜の自習室で日誌を開きながら、俺は内心で同期たちをひどく見下していた。
    『最近、周りの連中がだらしなく見える』
    『班員の目の高さと、俺の目の高さが全然違う。まだまだみんな、意欲も危機感も低いんじゃないか』
    自分が黙認している分際で、情けないテスト結果の責任を彼らの空気に転嫁する。
    「俺がクラスをひとつにした」という強烈な成功体験が、俺の心に「俺はこいつらとはレベルが違うんだ」という猛毒を注ぎ込んでいたのだ。
    (俺が疲れているのは、レベルの低いこいつらに合わせているからだ)
    己の気の緩みを棚に上げ、俺は肥大化したエゴという名の玉座にふんぞり返り、同期たちの小さなミスにイライラするだけの、醜悪で滑稽なピエロに成り下がっていた。

    季節が六月へと移り変わるにつれ、俺たちの時間割には、より実務的で専門性の高い授業が組み込まれるようになっていた。
    鑑識の授業では、刷毛でアルミニウム粉末を叩き、ガラスに残された指紋を浮かび上がらせる訓練が行われた。
    一ミリの狂いも、一瞬の気の緩みも許されない、緻密で静謐な作業。
    「鑑識とは、沈黙する現場の声を拾う作業だ」
    教官は、教場に漂うわずかな緩みも見逃さず、冷徹に言い放った。
    「私情を挟む隙などない。お前たちのその『甘え』と『見落とし』が、真実を闇に葬り、被害者を泣かせることになると思え」  
    続く犯罪捜査の講義では、犯人を追い詰め、法の裁きにかけるための論理的な思考と、警察官としての重い責任が説かれた。
    少しでも手続きに瑕疵があれば、凶悪犯を野に放つことになる。
    俺は教官の言葉に深く頷き、ノートにペンを走らせていた。
    なんという皮肉だろうか。
    俺たちは教場で「悪を逃さず、真実を見落とさない術」を真剣な顔をして学んでいる。
    その一方で、俺自身の内面では、エゴという名の悪が静かに肥大化し、最も身近な仲間の「危機」から意図的に目を逸らそうとしていたのだから。
    その自己正当化と沈黙が、最悪の「加害」へと繋がっていくことなど、知る由もなく。

    週末の外泊を控えた、金曜日の夜だった。
    同じクラスで、隣の二〇八号室に住むアキヒトが、高揚した顔で俺の部屋にやってきた。
    高卒ストレートの十八歳。
    ヤマトのような感情が先走る泥臭い熱血漢とは違い、アキヒトは体力テストも難解な座学も、涼しい顔で卒なくこなす極めて優秀な男だった。
    十八歳組の中では、ヤマトとはまた違うベクトルでカリスマ的な魅力を持つ、いわば若手たちのもう一人のリーダー的存在だ。
    「見てくれよこれ。中古だけど、やっと買ったんだ」
    そう言ってアキヒトがジャージのポケットから差し出したのは、一枚のカラー写真だった。
    入校時にスマートフォンはすべて没収されている。
    彼は外泊中にシャバで車を契約し、わざわざ現像した写真を、お守りのように大切に隠し持っていたのだ。
    光沢のある印画紙には、誇らしげに輝く白のスポーツカーが写っていた。
    普段は冷静でクールなアキヒトが、警察学校という息の詰まる檻の中で彼なりの「自由の象徴」を手に入れ、子供のように無邪気で、浮ついた笑顔を見せていた。
    だが、それを見た俺の心はひどく冷え切っていた。
    テストの点数が下がったことや生活態度での指摘が積み重なっている今の状況に疲れていたのだ。
    警察学校では、学生の運転は厳格に禁止されている。
    たとえ外泊中のシャバであってもだ。
    車を買ったということは、そのまま外泊すれば、あいつが好奇心と高揚感に負けてハンドルを握ることは、火を見るより明らかだった。
    普段の俺なら絶対に気づくはずの、取り返しのつかない危険信号。
    班長として、そして一人の年上の仲間として、俺は絶対に言うべきだった。
    「運転だけはするな。バレたら一発で辞職だぞ」と。
    あるいは、毎日持ち歩くよう義務付けられている「交通安全カード」に書かれた事故事例を説き、優秀ゆえに完全に油断しきっているあいつの心を引き締めるべきだったのだ。
    だが、俺はまたしても黙った。
    「ああ、いい車だな」  適当な相槌だけを打って、俺は冷たく背を向けた。
    喉まで出かかっていた警告を飲み込ませたのは、俺の「自己都合」だった。
    クラス全体の浮ついた空気に流され、己の疲労とストレスを持て余していた俺が、十八歳の危うい高揚感に付き合って説教し、責任を負うコストをただ惜しんだのだ。
    (……あいつ、絶対運転するだろうな)  心の隅でそう確信しながら、俺は優秀な仲間に地獄への片道切符を持たせたまま、外出申告へ向かった。

    教官室の入り口で、俺は血の気が引く思いで立ち尽くしていた。
    「申告します!」
    外泊許可を得るための厳格な儀式で、俺は自信満々に制服の胸ポケットに手を入れた。
    だが、そこにあるはずの「交通安全カード」の感触がない。
    急いで着替えた際、前の制服のポケットに入れたままにしてしまったのだ。
    「……お前は、自分が何をしているか分かっているのか」
    教官の声は、怒鳴り声よりも恐ろしい、氷のように冷たい響きを持っていた。
    「警察官が交通ルールを軽視するということは、市民の命を軽視するということだ。たかが一枚の紙切れだとでも思ったか?」
    ぐうの音も出なかった。
    完全に俺の慢心であり、驕りだった。
    結果として、俺に下されたのは屈辱的な「反省文」の提出だった。
    夜の暗い自習室。
    つい数日前まで、俺がアキヒトたちを啓蒙してやろうと偉そうに座っていたその席で、俺はペンを握りしめながら激しい自己嫌悪に苛まれていた。
    何が「限界突破」だ。
    何が「目の高さが違う」だ。
    俺はただの薄っぺらい、傲慢で滑稽なピエロだったのだ。
    ストレスと情けなさで、胃袋がギリギリと雑巾のように絞り上げられる。
    俺は脂汗を滲ませながら、原稿用紙を真っ黒に埋め尽くした。

    だが。
    その時の俺はまだ、思い知っていなかったのだ。
    本当の『罰』とは、教官の説教や、反省文を書く胃痛なんかで済まされるほど、生ぬるいものではないということを。

    ーーー翌週、六月に入った最初の日曜日、夜。
    外泊から戻り、点呼の時間を迎えた教場の空気が、不自然にざわついていた。
    「……アキヒト、まだ帰ってきてないのか?」
    二〇八号室の室長が焦りの表情を見せている。
    時間を過ぎても戻ってこない同期。
    体育大会で、あんなに熱く肩を組み合った仲間だ。
    普段は完璧なくせに、一枚の写真を見せてあんなに嬉しそうに笑っていた、あの同期だ。
    ただの遅刻だろう。
    優秀な彼に限って、バカな真似はしないはずだ。皆、そう思おうとしていた。
    いや、そう思いたかった。

    翌朝のホームルーム。
    教壇に立った教官の顔を見た瞬間、教場から一切の音が消えた。
    これまで見たこともないほど、教官の顔は蒼白く、深い疲労と悲しみに沈んでいた。
    教官の重い口から突きつけられた事実は、俺たちの脳を木っ端微塵に破壊した。
    『――アキヒトが、辞職した』
    外泊中、彼はあの白のスポーツカーを無断運転した。
    そしてあろうことか、交通事故を起こしたのだという。
    無断運転がバレれば、一発で辞職になる。
    パニックに陥り、思い悩んだ彼は、警察に通報することなく、その場から逃走した。
    しかし、逃げ切れるはずがないことなど、警察官の卵である優秀な彼自身が、一番よく分かっていたはずだった。
    翌日、罪の意識と絶望に耐えきれなくなった彼は、自ら警察署に出頭した。
    『自分は、警察学校の生徒です』と名乗り出て――。

    息が、できなかった。
    俺の脳裏に、毎日持ち歩くよう義務付けられていた「あの紙切れ」の文字列が、残酷なほど鮮明にフラッシュバックしていた。
    『安全運転五則』
    一、安全速度を必ず守る。
    二、カーブの手前でスピードを落とす。
    三、交差点では必ず安全を確かめる。
    四、一時停止で横断歩行者の安全を守る。
    五、飲酒運転は絶対にしない
    そして、
    『交通事故発生時の対応手順』
    一、直ちに車両を停止。
    二、負傷者の救護。
    三、警察への報告(一一〇番)
    ・
    ・
    ・
    アキヒトが破ったのは、ただの校則ではない。あの小さな交通安全カードに記された、人として、そして警察官として守るべき絶対の鉄則だった。
    もしあの夜。俺が疲労を言い訳にせず、彼にたった一声かけていれば。
    あの写真を見た瞬間に、年長者として、このマニュアルの重みと事故の恐ろしさを真っ向から説教していれば。百歩譲って事故を起こしてしまったとしても、少なくとも「逃走」などという、警察官として最もやってはいけない最悪の選択はさせずに済んだかもしれないのだ。
    翌日出頭するまでの間、彼はたった一人、どれほどの絶望と恐怖に震えていたことか。
    「……お前は、自分が何をしているか分かっているのか。たかが一枚の紙切れだとでも思ったか?」
    交通安全カードを忘れた俺に浴びせられた、教官のあの冷たい怒号が耳の奥でこだまする。
    俺が忘れたのは、単なる紙切れじゃなかった。
    十八歳の未来を、人生を繋ぎ止めるための、最後の「言葉」を意図的に忘れたのだ。
    激しい目眩に襲われながら、俺は机の下で己の太ももに爪を立てた。
    『誰も、辞めさせない』
    四月のあの夜、公衆電話の前で俺が立てたあの誓いは、一体何だったのか。
    あの言葉は、仲間を思う純粋な決意などではなかった。
    「あいつらを束ねる有能なリーダー」だと自分自身を錯覚するための、あまりにも安っぽい自己陶酔の道具に過ぎなかったのだ。
    俺たちは一つになったはずだった。
    『限界突破』のTシャツを着て、泥まみれになって、本当の家族になったと、あんなにも信じていたのに。
    俺が、自分は優秀だと驕り高ぶり、集団の空気に流され、己の疲労を理由に怠慢を正当化した代償。
    たった一人で罪を犯し、誰にも助けを求めることなく消えていったというあまりにも重い代償。
    俺が殺したも同然だ。
    俺の傲慢な沈黙が、優秀だった一人の若者の首を絞めたのだ。

    俺の目は、一体何を見ていたというのか。
    激しい胃痛が、再び俺の腹を内側から食い破るように襲ってきた。
    窓の外には、六月の鬱々とした梅雨空が広がっていた。
    今にも泣き出しそうな重く濁った灰色の空は、主を失ってポツンと空いた二〇八号室の机を、ただ冷たく、静かに濡らしていた。

    第三章 完

    第四章に続く


    日誌の一部公開

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    【著者からのメッセージ】

    最後までお読みいただき、ありがとうございます。
    いよいよ第三章の幕開けです。

    地獄の四月を乗り越えて迎えた、初めての特別外泊。
    しかし、シャバの甘いケーキも、現職警察官である義父の優しい言葉も、当時の私にとっては心をかき乱す「劇薬」でしかありませんでした。
    完全に閉鎖空間の異常な空気に染まりきっていたのです。

    そして、不器用な仲間たちのために徹夜で作ったテキストと、私のクリエイティビティの結晶である『限界突破』のTシャツ。
    「自分にしかできないことで仲間を救う」
    その純粋な喜びは、やがて私に甘美な万能感を与え……そして、最も恐ろしい「傲慢」という毒へと変わっていきます。

    皆さんはどうでしょうか?
    良かれと思ってやった成功体験が、いつの間にか自分を「嫌な奴(傲慢な人間)」に変えてしまった、あるいはその手前でハッとした経験はありますか? ぜひ、皆さんの「成功の後の苦い記憶」をコメント欄で教えてください。


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    元警察官。29歳から書道家の道へ 優れるより異なれ、そして馴染め(Stand out fit in)をテーマに活動中 押入れから出てきた教場日誌を元に、AIと共に記憶を蘇らせるドキュメント・ノベル『ケーガクッ!』を連載 嘘(建前)と真実(本音)の狭間で揺れた、青くて痛い魂の記録

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