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ケヌガクッ第䞃章『それぞれの歩み』


    第節自芚


    九月。
    朝倕の颚に埮かに秋の気配が混じり始めた頃、俺たちはグラりンド脇に䜇むメヌトルプヌルにお氎泳蚓緎を行なっおいた。
    埮かに錻を぀く塩玠の匂いず、照り返す氎面の眩しさは、小䞭孊生の頃に経隓した無邪気な䜓育の授業を錯芚させる。
    だが、ここはただの孊校ではない。
    譊察官にずっお、氎泳は単なる䜓力䜜りやレクリ゚ヌションではない。
    譊芖庁や各県譊の機動隊には、過酷な環境䞋で掻動する氎難救助隊が存圚する。
    そしお䜕より、亀番勀務であれ刑事であれ、目の前で濁流に呑たれかけおいる呜があれば、迷わず氎の䞭ぞ飛び蟌むのが俺たちが背負うべき䜿呜なのだ。
    呜を救うか、共に沈むか。
    氎ずいう無慈悲な自然の前に立぀こずは、垞に「死」ずいう譊察官の圱の郚分ず隣り合わせであるこずを意味しおいた。
    だが、正盎に蚀えば、俺にずっお氎泳は決しお歓迎すべき授業ではなかった。
    小孊生の頃、川で遊んでいた時に溺れかけた蚘憶がある。
    足を絡めずる冷たい氎流、気泡ずずもに遠ざかっおいく氎面の光、そしお肺に氎が䟵入しおくるあの耐え難い苊痛。
    その蚘憶が埮かなトラりマずしお心の奥底にぞばり぀いおおり、意図的に氎蟺を避けお生きおきた。
    しかし、プロの䞖界においお「泳げない」などずいう個人的な事情は䞀切通甚しない。
    垂民の呜を前にしお、「氎が怖いので助けられたせん」ずは蚀えないのだ。
    プヌルサむドに立ち、静かに波打぀氎面を芋䞋ろす。
    䞍思議なこずに、そこに以前のような埗䜓の知れない恐怖はなかった。
    過酷な六月を越え、狂気の䞭期詊隓を乗り切り、実務の壁にぶ぀かりながらも少しず぀「譊察官」ずしおの茪郭を圢成し぀぀ある今の俺にあるのは、単なる「苊手意識」ずいう客芳的な事実だけだった。
    恐怖に呑たれおパニックになるのではなく、己の珟圚地を冷静に枬る。
    息継ぎのタむミング、腕の掻き方、氎に察する䜓の浮力。
    䞀぀䞀぀の動䜜を論理的に分解し、自分のペヌスで氎ずいう環境に䜓を慣らしおいく。
    か぀おのように感情を爆発させるのではなく、自分自身の匱点すらも仕事の課題ずしお淡々ず凊理しおいくその過皋は、俺が「生埒」から「実務家」ぞず確実に脱皮し぀぀ある蚌でもあった。

    俺が己の課題ず静かに栌闘しおいる隣で、十代の若き同期たちは、たるで氎を埗た魚のように歓声を䞊げおいた。
    圌らにずっお、教宀内での息が詰たるような法埋の暗蚘や、教官の怒声から解攟されたプヌルでの時間は、束の間の楜しいアトラクションのようなものなのだろう。
    氎しぶきを䞊げ、満面の笑みで無邪気に泳ぐ圌らからは、氎に察する恐怖や苊痛など埮塵も感じられない。
    䞭でも、䞀人の同期の泳ぎに目を奪われた。
    無駄のない滑らかなフォヌム。
    掚進力を殺さない的確な息継ぎ。
    氎面を滑るように進む圌のクロヌルは誰よりも速く、そしお矎しかった。
    圌がタヌンを決めるたび、飛び散る氎滎が初秋の倪陜に反射しおキラキラず茝いおいる。
    玔粋に、かっこいいず思った。
    埗意な胜力、䞀芞に秀でた人間の持぀絶察的な匷さず矎しさがそこにあった。
    ず同時に、塩玠の匂いずずもに俺の胞の奥に広がったのは、ひどく奇劙な「虚しさ」だった。
    圌のように、これだけは誰にも負けないず胞を匵れるものが、今の俺にあるだろうか。
    俺は噚甚な方だ。
    机に向かえば点数は取れるし、走ればそこそこの順䜍には入れる。
    すべおにおいお「そ぀なくこなす」こずはできる。
    だが、誰かの心を震わせるような、ずびきりの才胜や、呜を燃やせるような匷烈な「䜕か」を、俺は持ち合わせおいない。
    すべおを平均的にこなせるずいう自負が、裏を返せば「䜕者でもない」ずいう匷烈なコンプレックスずなっお、重い氎圧のように俺の胞を締め付けた。

    譊察孊校ずいう堎所は、䜕か䞀぀光るものがあれば蚱されるような甘い䞖界ではない。
    憲法、刑法、逮捕術、拳銃射撃、そしお䜓力。そのすべおのカリキュラムにおいお、等しく合栌点が求められる。
    突出した䞀぀の才胜よりも、欠点のない総合力こそが重宝される巚倧な組織。
    すべおを平等に捉え、䞀定のレベルに匕き䞊げるこずができる俺の性質は、組織の歯車ずしお珟堎で生きる䞊では、間違いなく匷力な歊噚になるはずだ。
    頭では、嫌ずいうほど理解しおいる。
    それでも、心のどこかで焊がれおしたうのだ。
    己のすべおを懞けおもいいず思えるほどの、焌け焊げるような情熱の察象ずの出䌚いに。
    氎の䞭から顔を出し、倧きく息を吞い蟌む。
    冷たい氎滎が顔を䌝い萜ちる。
    だが、焊る必芁はない。
    䜕者かになろうず無理に背䌞びをした結果が、あの六月の「狂信的な優等生」ずいう醜いバグだったのだ。
    特別な英雄になる必芁はない。
    無理に䜕者かを挔じる必芁もない。
    ただ、目の前にあるやるべきこずに真剣に取り組む。
    䞍噚甚な仲間たちず共に泥臭く這いずり回り、珟堎で求められる知識ず技術を䞀぀䞀぀身に぀けおいく。
    矀れの䞭でただ点数を競っお優れるのではなく、己の匱さや虚しさを盎芖するずいう異端のプロセスを経おのみ、俺たちは真の譊察官ずいう生き方に「銎染んで」いけるのだから。
    その地道な積み重ねの果おにしか、本物の珟堎に立぀資栌は埗られない。
    ゎヌグルの奥で芖線を䞊げ、俺は再び、冷たい氎の䞭ぞず静かに䜓を沈めた。

    数日埌、俺たちは教宀でパむプ怅子を円く䞊べ、班別蚎議を行っおいた。
    ホワむトボヌドに曞かれたテヌマは「自䞻自埋」。
    氎の䞭で芋぀けた「ただ目の前にあるこずに真剣に取り組む」ずいう俺の静かな芚悟が、蚀葉ずしお詊される堎だった。
    「芪元を離れお譊察孊校に入り、絊料をもらいながら、自分たちで掗濯やアむロンがけもできるようになった。これが自立だず思いたす」
    十代の同期の䞀人が、自信ありげにそう発蚀した。他の若い同期たちも「確かに」「昔の自分より成長した」ず深く頷いおいる。
    俺は手元のノヌトにペンを走らせながら、圌らの若さず無邪気さに埮かな眩しさを芚え぀぀も、思考を巡らせおいた。
    圌らが口にしおいるのは、共同生掻における「自立Independence」だ。
    確かにそれは倧きな成長だろう。
    だが、今日のテヌマのホワむトボヌドに曞かれた文字は「自䞻自埋」——自らを『埋するAutonomy』方である。
    モラトリアムの空気を匕きずる圌らに、䞊からの説教ではなく、どうすればこの蚀葉の本圓の重さを䌝えられるか。
    俺は、前職で芪元を離れお䞀人暮らしはすでに経隓しおいた。
    その時感じたのは、孊生時代に料理や掗濯ずいった家事を䜕も蚀わずにやり続けおくれおいたこずぞの感謝の気持ち。
    気たぐれのように、たたに料理をしたり、時間に䜙裕があるから䞁寧にアむロンがけするなんおこずは誰にもできる。
    圓たり前のように「やり続ける」ずいうこずは、誰にもできるこずじゃない。
    自分たちで皌いでる、掗濯をしおいるずはいえ、食事は甚意しおもらっおるし、寮生掻での家事なんお、本圓に䜕でも自分でやらなければいけない䞀人暮らしに比べれば甘いものだ。
    少しだけ長く生きおきた経隓ず、必死になっお埗おきた知識を頭の䞭で敎理する。
    「少し、いいか」  俺が口を開くず、班の芖線が䞀斉にこちらぞ向いた。
    「お前たちが蚀う通り、自分で皌いで、生掻のサむクルを回せるようになるのは『自立』だ。でも、今日俺たちが突き぀けられおいる『自埋』は、その自立の『䞊䜍互換』だず俺は思っおる」
    「䞊䜍互換、ですか」
    「ああ。やるべきこず、圓たり前のルヌルを圓たり前にこなすのが『自立』だずしたら、『自埋』は、そこに【やり続けるための匷い思い】を乗せるこずだ」
    静たり返った教宀に、パむプ怅子の埮かに軋む音だけが響く。
    俺は蚀葉を区切り、同期たちの目を順番に芋据えた。
    「俺たちは譊察官ずしお、法埋を執行する。そのルヌル通りに動く倖圢的な偎面だけを芋れば、それは単なる『自立』だ。でもな、人が法を犯したずき、その凊眰は完党に䞀埋で、機械的に䞋されるわけじゃない。そこには必ず、人の心がある」
    実務蚓緎で向き合った、被害者の動揺や被疑者の嘘が脳裏をよぎる。
    「盞手の状況、心情、呚囲に蔓延るあらゆる芁玠を螏たえお、事実ず向き合う。揺れ動く感情をコントロヌルし、確固たる倫理芳や䟡倀芳ずいう『内的な芁玠』を垞に磚き続ける必芁がある。法ずいう倖的な芁玠ず、人間ずしおの内的な芁玠。その二぀の極限のバランスを保ち続けるこずこそが、自らを埋するっおこずなんじゃないか」
    俺の蚀葉が終わるず、十代の同期たちの顔぀きから、先ほどたでの「生埒気分」がフッず消え倱せおいた。
    圌らの目に、実務ずいう埗䜓の知れない壁を芋据える「プロ」ずしおの小さな火が灯ったのがわかった。
    䜕者かになる必芁はない。
    才胜がなくおもいい。
    ただ、己を埋し、泥臭く珟堎の真実に寄り添う実務家になるこず。
    秋の颚が吹き蟌む教宀の䞭で、俺は自分自身の蚀葉によっお、譊察孊校ずいう蛹の殻を䞀぀、確実に砎り捚おた確信を埗おいた。

    第節リアルず枇望

    九月䞭旬に差し掛かった譊察孊校は、昌倜の寒暖差が激しくなり、倜颚には明確な冷気が混じるようになっおいた。
    その倜、俺たちは「孊生圓番」ずしお、校内に蚭けられた擬䌌的な圓盎宀に入っおいた。
    教宀内での座孊ずは、空気が根底から違う。
    俺たちはゞャヌゞではなく、本物の珟堎ず同じ制服に身を包み、腰には重い垯革たいかくを締め、譊棒や手錠ずいった装備品を身に぀けおいる。
    深倜の圓盎宀を満たすのは、無機質で青癜い蛍光灯の光ず、叀いスチヌルデスクの冷たい感觊、そしお䜕より、い぀鳎り出すか分からない電話機に察する、胃がせり䞊がるような緊匵感だった。
    ここでは、教官たちが垂民や他郚眲の譊察官に扮しお、次々ず「想定」の事件事故を電話で投げ蟌んでくる。
    俺たちはそれを受理し、無線で指瀺を出し、珟堎ぞの急行や初動措眮をシミュレヌションしなければならない。
    「  静かっすね」
    同じ圓番に入っおいたダマトが、欠䌞を噛み殺しながら呟いた。
    「油断するな。嵐の前の静けさかもしれないぞ」
    俺がそう返した盎埌だった。
    ゞリリリリリッ
    静寂を暎力的に切り裂いお、黒い電話機が悲鳎を䞊げた。
    深倜の圓盎宀においお、その音は心臓を盎接鷲掎みにされるような凶悪な響きを持っおいた。
    ビクッず肩を震わせたダマトを制し、俺は反射的に受話噚を取った。
    「はい、こちら地域課圓盎――」
    『あ、あああ 譊察ですか 事故です 車が突っ蟌んできお、壁がっ  』
    受話噚の向こうから飛び蟌んできたのは、ひどく狌狜した䞭幎男性を挔じる教官の怒鳎り声だった。
    背筋に冷たい汗が走る。
    萜ち着け。たずは珟堎の特定ず、怪我人の有無だ
    先日、被害者圹の教官に机䞊の法埋を抌し付けお倱敗した蚘憶がフラッシュバックする。
    俺は手元のメモパッドにペンを抌し圓お、感情の波に飲たれたいず自分を埋した。
    「萜ち着いおください。堎所はどこですか どこの壁に車が突っ蟌んだんですか」
    『だから、スヌパヌの駐車堎の入り口だよ 早く来おくれよ、運転手が出おこないんだ』
    「怪我人はいたすか 救急車は呌びたしたか」
    次々ず入っおくる断片的な情報。
    物損事故か、あるいは人身事故か。
    運転手が閉じ蟌められおいるなら救助が必芁だ。
    消防ぞの連絡は。
    応揎のパトカヌの手配は。
    六法やテキストに曞かれた敎然ずした法埋の条文など、このカオスの䞭では䞀秒の圹にも立たない。
    必芁なのは、パニックに陥った盞手から事実を匕きずり出す「コミュニケヌション胜力」ず、優先順䜍を瞬時に刀断する「実務の勘」だ。
    俺が受話噚を肩に挟みながら必死でメモを取り、無線機に向かっお想定の指瀺を飛ばしおいるず、背埌からスッず䌞びおきた手が、俺のメモパッドの端をトントンず叩いた。
    「そこは番地たで现かく聞かなくおいい。近くの目立぀目暙物だけ聞いお、たずはPCパトカヌを珟堎に向かわせろ。詳现は無線でPCに盎接飛ばせばいい」
    䜎く萜ち着いた声。
    振り返るず、そこに立っおいたのは「短期生」の先茩だった。
    譊察孊校には、高卒で採甚された俺たち「長期生十ヶ月間の譊察孊校生掻」ずは別に、倧卒で採甚された「短期生六ヶ月の譊察孊校生掻」のクラスが存圚する。
    入校日は同じだが、譊察孊校での研修期間が短いため、短期生ず蚀われる。
    自分ずは幎霢が近いこずもあり、日頃から亀流はあったが、圌らは俺たちにずっお特別な存圚だった。
    なぜなら圌らは、぀い先日たで実際の譊察眲での「実務研修」を終えお垰っおきたばかりの実戊経隓者だったからだ。 「シャバの珟堎じゃ、通報者が正確な䜏所なんお蚀えるわけがない。時間をかけお聞き出そうずするより、目印だけ聞いお急行させた方が早い。調曞の曞き方も同じだ。珟堎で完璧な文章を䜜ろうずするな。WHの骚組みだけ殎り曞きしお、あずは眲に戻っおから肉付けしろ」
    短期生の先茩は、暡擬無線機を操䜜しながら、淀みない動䜜で次々ず指瀺を捌いおいく。
    その背䞭は、テストの点数や足の速さを競っおいた「生埒」のそれではない。
    間違いなく、泥沌のようなシャバの珟堎で、生身の人間ず栌闘しおきた「実務家」の攟぀凄みがあった。
    『異垞発報 管内の宝石店にお防犯センサヌ䜜動』
    䞀぀の凊理が終わる間もなく、今床は異垞発報の指什が飛び蟌んでくる。
    俺は息を吞い蟌み、短期生の先茩の動きをトレヌスするように、無駄を削ぎ萜ずした蚀葉で無線を返した。
    「了解、該圓店舗ぞ急行。察象の逃走経路に人員を配眮する」
    頭が異様にクリアだった。
    教宀でのペヌパヌテストでは決しお味わえない、血が沞き立぀ようなヒリヒリずした感觊。
    パズルのピヌスが、あるべき堎所ぞ凄たじい速床で嵌っおいく感芚。
    やれる  
    メモパッドに走らせる自分のペンの動きを芋぀めながら、俺は確かな手応えを感じおいた。
    八月の猛暑の䞭、自分を極限たで远い蟌んで叩き蟌んだ実務の知識。
    そしお「自䞻自埋」の蚎議を経お、自分の内面に打ち立おた「感情を埋する」ずいう確固たる軞。
    それらが今、短期生からの「生きた珟堎の知恵」ず化孊反応を起こし、䞀぀の匷靭な刃ずなっお俺の䞭で茝き始めおいた。

    仮眠の亀替時間になり、俺は圓盎宀のパむプ怅子に深く腰掛けた。
    緊匵が解け、どっず疲劎が抌し寄せおくるはずだった。
    しかし、俺の身䜓の奥底では、党く別の感情がどす黒いマグマのようにグツグツず煮えたぎっおいた。
    窓の倖を芋るず、東の空が癜み始め、倜明けの冷たい青色が譊察孊校の敷地を芆い始めおいた。
    静寂に包たれた校舎。
    綺麗に敎備されたグラりンド。
    狂気ず絶望に満ちおいたはずのこの堎所が、今の俺には、ひどく窮屈で、安党すぎる「子䟛郚屋」のように芋えた
      早く
    俺は無意識のうちに、制服のズボンの膝を匷く握りしめおいた。
    早く、ここから出たい。本物の珟堎に行きたい
    それは、入校圓初に抱いおいた「早くこんな地獄から逃げ出したい」ずいう匱音ずは、察極にある感情だった。
    本物の血の匂い。
    嘘に塗れた被疑者の顔。
    悲鳎を䞊げる被害者。
    俺の築き䞊げた「自埋」ずいう刃が、あの理䞍尜で広倧なシャバの䞖界でどこたで通甚するのか、詊したくおたたらない。
    知識は詰め蟌んだ。
    芚悟も決めた。
    これ以䞊、想定の事件や教官の甚意したレヌルの䞊で立ち止たっおいる暇はない。
    「珟堎ぞの枇望」ずいう名の匷烈な熱病が、冷え切った倜明けの圓盎宀で、俺の党身を焌き焊がしおいた。
    十月には、いよいよ俺たちも実際の譊察眲での「亀番実務研修」が控えおいる。
    だがその前に、俺たちは九月の終わりに、二぀の倧きな「別れず死の圱」に盎面するこずになる。
    珟堎ぞず向かう俺の粟神を、さらに深く、暗い堎所ぞず研ぎ柄たせるための、最埌の詊緎が埅っおいた。

    第節死の足音ず、生きる理由

    九月の䞋旬。
    珟堎ぞの抑えきれない枇望で血を滟らせおいた俺たちは、ある日、校内の䞀角にある「資料通」ぞず足を螏み入れた。
    重厚な扉を開けた瞬間、カビず叀い玙が混ざり合ったような、幎月を濃瞮した重い匂いが錻腔を突いた。
    そこは、この県の譊察組織が歩んできた血ず汗の歎史を静かに保存する、䞀皮の聖域だった。
    ガラスケヌスの䞭に展瀺されおいるのは、今では圓たり前ずなったデゞタルデヌタなどではない。
    黄ばんだ玙に䞇幎筆で几垳面に曞き蟌たれた、手曞きの捜査蚘録や手匕きの数々。
    気の遠くなるような時間をかけ、先人たちが文字通り手探りで築き䞊げおきた「未来の治安維持」ぞの執念が、むンクの染み䞀぀䞀぀から生々しく䌝わっおくる。
    だが、俺の芖線を䜕よりも匷く釘付けにしたのは、郚屋の奥の壁䞀面に掲げられた、無数の癜黒やカラヌの写真だった。
    「殉職者」の遺圱である。
    若くしお凶悪な犯眪者の刃に倒れた者。
    灜害珟堎で濁流に呑たれながらも、垂民を救おうずしお呜を萜ずした者。
    写真の䞭の圌らは皆、制服姿で、少しだけ誇らしげに、そしお氞遠に倉わるこずのない静かな埮笑みを浮かべおいた。
    譊察官ずいう仕事が、垞に「死」ず隣り合わせの異垞な職務であるずいう事実。
    圓盎宀のシミュレヌションで高揚しおいた俺の熱は、壁から芋䞋ろす無蚀の瞳たちによっお、急速に冷たく、そしお重いものぞず倉質しおいった。

    遺圱の䞋に添えられたキャプションを䞀぀䞀぀目で远っおいく䞭で、俺はある事実に背筋が凍るような衝撃を受けた。
    凶悪犯からの受傷や䞍慮の事故ず䞊んで、驚くほど倚くの譊察官が「過劎死」で呜を萜ずしおいたのだ。
    囜民を守護する絶察的な立堎。
    匷烈な瀟䌚的䜿呜感。
    それは譊察官にずっお最倧の誇りであり、生きがいでもある。
    だが、「人のため」ずいう倧矩名分は、時ずしお残酷な麻薬になる。
    人のためだからこそ、己の限界を超えお頑匵りすぎおしたう。
    悲鳎を䞊げる肉䜓ず粟神を「䜿呜感」ずいう鎖で瞛り付け、気づいた時には埌戻りできない堎所たで心が壊れおしたっおいる。
    ガラス越しに過劎で倒れた先茩の蚘録を芋぀めながら、俺は冷たい汗が背䞭を䌝うのを感じおいた。
    圌らの陥ったその恐ろしい粟神の袋小路を、俺は、痛いほどよく知っおいたからだ。

    ヌヌヌ譊察の門を叩く前。
    あの頃の俺は、垞に䞀人で考え事をしおいた。
    そしお、思考がふず静止した空癜の瞬間に、決たっお䞀぀の蚀葉が脳裏を支配した。
    死にたい
    理由は䞀぀ではない。
    ただ、完璧を目指しお走り続け、己に匷烈なプレッシャヌを䞎え続けた結果、心がひび割れ、そこから埗䜓の知れない虚無が挏れ出しおいたのだ。
    俺は「死にたい」ずいうその恐ろしい感情から逃れるため、本胜的に、垞に動き続けるこずを遞んだ。
    仕事に没頭し、積極的に考え、狂ったように行動し続けた。
    瀟䌚においおその「積極性」は匷みずしお評䟡されたが、実態は違った。
    立ち止たれば闇に呑たれるから、走り続けるしかなかったのだ。
    だが、それは脆く危うい諞刃の剣だった。
    ちょっずした倱敗や躓きが、匵り詰めた糞を容赊なく断ち切り、俺の気持ちを䞀気に奈萜の底ぞず突き萜ずす。
    無理な完璧䞻矩が限界を迎えるのは、時間の問題だった。

    ある倜、プレッシャヌに完党に抌し朰された俺は、マコの前で、぀いに膝から厩れ萜ちた。
    暗い郚屋の䞭、俺は止めどなく溢れる涙ず嗚咜にたみれながら、圌女にすべおの絶望をぶちたけた。
    自分の匱さも、醜さも、逃げ出したいずいう本音も。
    『マコがいおくれるから頑匵れるのに  』
    俺は、絞り出すように蚀った。
    『マコのために頑匵れないのが、本圓に申し蚳ない』
    今思い返しおも、愛する人に向けるにはあたりにも身勝手で、残酷な䞀蚀だったず思う。
    自分の心のコップが空っぜで、圌女に泚ぐ䞀滎の愛情すら残っおいないずいう、最䜎の告癜。
    だが、マコは俺を責めなかった。
    圌女は倧粒の涙をこがしながら、震える腕で俺の背䞭を匷く抱きしめた。
    『私の前で、頑匵らなくおいいから  っ』
    しゃくり䞊げる圌女の声が、俺の耳元で響いた。
    『今たでのあなたでいお。私は䜕も求めないから。あなたがいるだけで愛を感じられるから、それだけでいいの。だから  死にたいなんお考えないでよ』
    圌女の涙が、俺の肩を熱く濡らした。
    『いくらわがたたで、だらしがなくたっおいい。いなくなるこずが、䞀番蟛いよ  』
    俺たちはその倜、床に座り蟌んだたた、互いに泣き疲れお眠りに萜ちた。
    深い眠りの䞭で、俺は恐ろしい倢を芋た。
    䜕もかもうたくいかず、暗闇の䞭で正䜓のない「䜕者か」にひたすら远われ続ける倢。
    ハッず息を呑んで、ぐっしょりず冷や汗をかいたたた目を芚たした。
    芖界の端。カヌテンの隙間から差し蟌む朝の光の䞭に、マコがいた。
    俺の寝顔を芋守っおいた圌女は、ひどく腫れた目で、それでも柔らかく埮笑んだ。
    『  おはよう』
    その優しすぎる䞀蚀を聞いた瞬間、干からびおいたはずの俺の目から、再びずめどなく涙が溢れ出した。
    あの朝、俺は決意したのだ。
    俺を瞛り付けおいた前職に蟞衚を叩き぀け、本圓に「守るべきもの」ず正面から向き合う生き方をしようず。
    そのために、俺はこの譊察ずいう組織に足を螏み入れた。

    「  行くぞ」
    ダマトの声で、俺は資料通の珟実ぞず匕き戻された。
    壁に䞊ぶ殉職者たちの顔を、もう䞀床芋䞊げる。
    圌らもたた、守るべき日垞ず、愛する家族を持っおいたはずだ。
    今の俺には、この䞖に蔓延る悪意や、理䞍尜な悲劇のすべおを受け入れられるような倧きな「噚」はない。
    自分の匱さも、限界も、マコに抱きしめられたあの倜に骚の髄たで思い知っおいる。
    だからこそ、俺は這いずり回っおでも勉匷するのだ。
    理䞍尜な暎力に打ち勝぀ために、教官の怒声に耐え、泥にたみれお術科蚓緎に呜を懞ける。
    マコずの「圓たり前の日垞」を守り抜くため、そしお、珟堎で出䌚う誰かの明日を繋ぐために、己ずいう小さな刃を極限たで研ぎ柄たす。
    死の足音に怯えお立ち止たるこずは、もうしない。
    過劎で倒れた先茩たちの無念も、未来の治安を倢芋おむンクを走らせた先人たちの思いも、俺が必ず珟堎ぞ持っおいく。
    資料通の重い扉を背にしお歩き出した俺の胞の奥で、珟堎ぞの枇望は、もはや焊りではなく、静かで揺るぎない「祈り」のような熱ぞず倉わっおいた。


    第節旅立ちの敬瀌

    九月の末日。
    空は高く柄み枡り、譊察孊校のグラりンドには秋特有の也いた颚が吹き抜けおいた。
    この日、倧卒で採甚された「短期生」たちが、半幎間の党課皋を修了し、俺たちより䞀足先にこの孊校から巣立っおいく。
    卒業匏を終え、各譊察眲ぞず向かう倧型バスの前に敎列した圌らの姿を、俺は少し離れた堎所から静かに芋぀めおいた。
    入校しおきた四月の頃の、どこか頌りなく、怯えたような顔぀きはもうない。
    アむロンの糊がパリッず効いた制服の着こなし、地面を真っ盎ぐに螏みしめる姿勢、そしお点呌の際に響き枡る腹の底からの発声。
    そのすべおが、半幎間の地獄のような環境をくぐり抜け、完党に圌らの䜓に「板に぀いお」いた。
    だが、圌らが皆、垌望に満ち溢れた「完璧な譊察官」の顔をしおいたかずいうず、そうではない。
    これから始たる過酷な珟堎勀務に闘志を燃やしおいる者。
    ずにかくこの狂気の檻から抜け出せたずいう解攟感に顔を綻ばせおいる者。
    あるいは、守られた孊校ずいう空間から攟り出されるこずに、隠しきれない䞍安の色を浮かべおいる者。

    圓然だ。
    たかが半幎間、閉鎖空間で法埋ず䜓力を叩き蟌たれただけで、誰もが鋌の心を持った䞀人前の譊察官になれるわけがない。
    それぞれの䞍安、それぞれの喜び、そしおそれぞれの正矩ず䟡倀芳。
    圌らは皆、未完成な「人間」のたた、シャバずいう広倧な荒野ぞず攟たれおいくのだ。
    譊察孊校が圌らに䞎えたのは、あくたで譊察官ずしおの「圢」に過ぎない。
    その空っぜの噚に、珟堎の泥氎や血の匂い、そしお垂民の涙ずいった生々しい経隓を泚ぎ蟌み、どう肉付けしおいくかは、これから圌ら自身が䞀人で歩む道にかかっおいる。

    「党䜓――気を぀け」
    教官の号什がグラりンドに響き枡る。
    俺たち「長期生」は、倧型バスの脇に䞀列に䞊び、背筋を限界たで䌞ばした。
    「  敬瀌ッ」
    ザッ、ず癟数十名の腕が䞀糞乱れぬ動きで右の眉尻に跳ね䞊がる。
    入校以来、䜕癟、䜕千回ず繰り返しおきた動䜜。
    指先の角床、肘の匵り方、目線の䜍眮。数ミリのズレすら蚱されない、譊察官ずしおの基本䞭の基本である「圢」。
     普段なら教官の目をごたかすための䜜業になりがちなその動䜜に、今日だけは、俺たちのありったけの感情が蟌められおいた。
    初心、忘れるべからず
    指先に力を蟌めながら、俺は心の䞭で呟いた。
    泥にたみれ、教官の怒声に震え、理䞍尜な眰に耐え抜いた日々。
    その地獄を俺たちより䞀足早く生き抜き、生身の䜓でシャバの颚を济びに行く同志たちぞの、最倧限の敬意。
    そしお、いずれ圌らの埌を远う自分自身ぞの戒め。
    この忠実で完璧な敬瀌の圢に、俺は自分の「祈り」のすべおを蟌めおいた。
    アむドリング音を響かせ、短期生たちを乗せた数台の倧型バスが、ゆっくりず正門ぞ向かっお動き出す。
    車窓から手を振る先茩たちの顔が、秋の日差しの䞭で次々ず通り過ぎおいく。
    俺は瞬き䞀぀せず、その背䞭が重い鉄の門の向こう偎ぞず消えおいくたで、埮動だにせず敬瀌の姿勢を保ち続けた。

    バスが芋えなくなり、「盎れ」の号什で腕を䞋ろした瞬間、俺の掌にはじっずりずした汗が滲んでいた。
    祭りは終わった。
    先を歩く者はいなくなった。
    次は、俺たちの番だ。
    十月に入れば、いよいよ俺たち長期生も実際の亀番ぞず赎く「実務研修」が始たる。
    資料通で芋た過劎死の珟実。
    圓盎宀で味わった䞀発勝負のプレッシャヌ。
    そしお、自分自身の噚の小ささ。
    俺たちはただ、圧倒的に未熟だ。
    孊校にいられる残された期間は、無情なほど限られおいる。
    だが、珟堎は俺たちが「䞀人前」になるのを埅っおはくれない。
    明日、俺が初めおシャバの亀番に立った時、目の前に匷盗犯が珟れようず、血を流しお倒れおいる被害者がいようず、俺が「昚日たで譊察孊校にいた未熟な新人」であるこずなど、盞手には䞀ミリも関係ないのだ。
    制服を着お、あの桜の代王を身に぀けおいる以䞊、そこには若いも熟緎も存圚しない。
    俺は「譊察官」ずいう絶察的な存圚ずしお、垂民の呜ず向き合い、狂気を孕んだ犯眪の最前線に立ち向かわなければならない。
    逃げ道はない。
    蚀い蚳も通甚しない。
    だが、恐れはなかった。
    氎の䞭で己の凡庞さを受け入れ、班別蚎議で自埋の芚悟を叫び、そしお䜕より、マコずの日垞を守り抜くず誓った今の俺には、珟堎ずいう巚倧な暎力に立ち向かうだけの、確かな「圢」が出来䞊がり぀぀あった。

    空を芋䞊げる。
    倏の突き刺すような日差しは消え、高く遠い秋の空がどこたでも広がっおいた。
    俺は深く息を吞い蟌み、譊察孊校の也いた空気を肺の奥たで満たした。
    修矅の門が開く音は、もうすぐそこたで迫っおいた。

    第䞃章 完
    第八章に続く

    日誌の䞀郚公開


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    【著者からのメッセヌゞ】
    第䞃章『それぞれの歩み』をお読みいただき、ありがずうございたす。
    今回は、譊察孊校ずいう「モラトリアムからの粟神的な巣立ち」を描きたした。

    たかが半幎や十ヶ月、閉鎖空間で法埋を䞞暗蚘しただけで、䞀人前の譊察官になれるわけがありたせん。
    孊校が䞎えおくれるのは、敬瀌の角床や制服の着こなしずいった、ほんの空っぜの「噚圢」に過ぎないのです。
    ですが、資料通の遺圱が物語るように、珟堎は私たちが未熟な新人であるこずを埅っおはくれたせん。
    呜を削っお治安を繋いできた先人たちの思いや、私生掻で支えおくれる倧切な人の存圚。
    それらを胞に抱き、自らを埋する自埋芚悟を決めた時、人は初めお「プロ」ずしおのスタヌトラむンに立おるのだず思いたす。

    次章・第8章からは、いよいよ蚀い蚳の通甚しないシャバでの「亀番実務研修」が始たりたす。
    未完の噚を持った䞻人公が、本物の珟堎でどう打ちのめされ、どう肉付けされおいくのか。
    匕き続き芋守っおいただければ幞いです。

     
     
    元譊察官。29歳から曞道家の道ぞ 優れるより異なれ、そしお銎染めStand out fit inをテヌマに掻動䞭 抌入れから出おきた教堎日誌を元に、AIず共に蚘憶を蘇らせるドキュメント・ノベル『ケヌガクッ』を連茉 嘘建前ず真実本音の狭間で揺れた、青くお痛い魂の蚘録

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