
ケーガクッ!第八章:『現場の味』
第1節:張りぼての自信
警察学校という安全な檻から放たれた十月上旬。
俺は本物の警察署の前に立っていた。
真新しい、まだ一度も汗を吸っていない制服に袖を通すと、糊の効いた生地の硬さが妙に肩に堪える。
帯革(たいかく)に吊るされた装備品の重みが、ずしりと腰骨に食い込んできた。
ここが、俺たち素人の卵が初めて「本物の警察官」として現場に立つ舞台だ。
入校から半年。
傲慢だった俺のメッキはとうに剥がれ落ちていたが、それでも学校という閉鎖空間の中では、トップクラスの成績を取り、刑法も刑事訴訟法も完璧に頭に叩き込んできた自負があった。
体力錬成で吐くほど走り込み、柔道着は血と汗で黒ずんでいる。
過酷な訓練を耐え抜いたのだから、「俺は現場でもやれる」という自信が、胸の奥底で静かに息をしていた。
署長室で申告を行い、署長からは、
『一週間という短い期間ですが、何かを感じ取ってくれればいい。頑張ってください』
その短い激励に込められた本当の意味を、俺はこの直後、骨の髄まで思い知らされることになる。
「おはようございます。今日から一週間、お世話になります」
交番の引き戸を開け、敬礼と共に声を張り上げる。
出迎えてくれたのは、指導部長の大鷹(おおたか)巡査部長だった。
あと五年で定年を迎えるという、五十五歳のベテランだ。
「おお、待ってたよ。まあ、そんなにガチガチにならんでいい。一週間よろしくな」
大鷹部長はニコニコと人の良さそうな笑みを浮かべ、労いの言葉をかけてくれた。
学校の教官たちが常に青筋を立てて怒号を飛ばし、些細なミスで腕立て伏せを強要される異常な空間から来た俺にとって、その丁寧で穏やかな扱いは、呆気に取られるほどだった。
だが、中肉中背の制服姿の下に隠された「本物」の匂いは、すぐに見抜けた。
五十五歳とは思えないほど背筋はピンと伸び、無駄な肉が削ぎ落とされている。
特に、捲っていた制服から覗く前腕は、隆々と筋肉が脈打ち、鋼のように引き締まっていた。
腕相撲で勝てる自信すら持てない程の、暴力的な太さだった。
何より、コミュニケーションの一環だと話してくれた過去に関わった事件の話になると、その温和な目つきがスッと細められ、獲物を狙う猛禽類のような凄みを帯びる。
現場の修羅場を幾度も潜り抜けてきた男特有の、静かで冷たい殺気のようなものだった。
午前中、まずは「巡回連絡」に出た。
管轄内の家庭や事業所を回り、防犯指導や要望を聞き取る、地域警察官の基本中の基本だ。
「最初は私がやるから、後ろで見ておきなさい」
大鷹部長の背中越しに数件見学した。
部長の語り口は軽妙で、警戒する市民の心をあっという間に開かせていく。
まるで世間話でもしているかのように、必要な情報を自然に引き出していた。
「よし、次はやってみなさい」
とバインダーを渡される。
深呼吸をして、真新しいアパートのインターホンを押す。
出てきたのは、部屋着姿の若い主婦だった。
「井戸町交番の者です。巡回連絡で参りました」
「……じゅんかい、れんらく?」
怪訝な顔で首を傾げられた。
ドアの隙間から覗く、警戒するような冷たい目。
無理もない。
シャバの一般市民は警察官の専門用語など知らないのだ。
「あ、ええと……この地域の安全のために、ご家族の構成や、緊急時の連絡先、それから何かお困りごとがないかを伺っていまして……」
何をやるべきか、何を聞くべきかは頭に入っている。
だが、言葉がスムーズに出てこない。
顔が熱くなるのがわかった。
相手の不信感を解き、警戒心を解きほぐすという、生身の人間相手のコミュニケーションが、俺は絶望的に下手くそだったのだ。
口ごもる俺を見かねて、大鷹部長が横からスッと入る。
「奥さん、急にごめんね。最近この辺りで自転車の盗難なんかの報告もあってね、戸締まりの確認がてら、新しいお巡りさんの顔を覚えてもらおうと思って寄らせてもらったんですよ。怪しいもんじゃないから安心して」
魔法のように、主婦の表情から警戒心が消え、
「ご苦労様です、大変ですね」
と労いの言葉すら口にした。知識じゃない。
法律の暗記でもない。現場で求められるのは、こういう泥臭い「人間力」なのだ。
己の引き出しのなさに、奥歯を強く噛み締めた。
パトカーでの重要防護施設の警戒、金融機関への立ち寄りをこなし、交番で一息つく暇もなく午後の警らが始まった。
初秋の乾いた風が心地よい時間帯、携帯無線機がけたたましく鳴り響いた。
『管内、井戸町南薬局にて万引き事案発生。マルヒ(被疑者)確保済み』
一気にアドレナリンが沸き立つ。
「行きましょう」という大鷹部長の短い指示に頷き、薬局へ急行した。
バックヤードの薄暗い事務所に案内されると、パイプ椅子に一人の男がうなだれて座っていた。
年齢は六十五歳くらい。
痩せこけて頬骨が浮き出ており、ボサボサの白髪が脂で固まっている。
ひどく惨めなその後ろ姿を見た瞬間、俺の中で張り詰めていた緊張感が少しだけ削がれた。
「民間の覆面調査員(Gメン)の方が見張っていてね。レジを通さずに外へ出たところで声をかけたら、逃げようとしたものだから。」
店長とGメンが事務的に状況を説明する。
俺は必死にメモ帳にペンを走らせながら、男を観察した。
万引き。
言葉の響きは日常的で軽いかもしれないが、立派な「窃盗罪」だ。
他人の財物を窃取した者は、十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
頭の中で条文が自動再生される。
逮捕、取り調べ、送検。
俺が学校で習ってきた「正義の執行」のプロセス。
だが、大鷹部長の対応は俺の予想を裏切った。
男の身元を確認し、被害品を買い取らせると、店側との話し合いを始めたのだ。
「店長さん。今回は初めてのようですし、本人も深く反省しています。もう二度とこの店には顔を出さないという条件で、今回は微罪処分ということでいかがでしょうか」
店側も、大事にして書類作成や実況見分に時間を取られるよりはと、寛容な措置を受け入れた。
微罪処分。
一定の軽微な犯罪について、警察の権限で事件を検察官に送致せず、厳重注意等で終わらせる手続きだ。
男は涙目で何度も頭を下げ、交番へ連行された後、始末書を書かされて解放された。
男の丸まった背中が夕暮れの街に消えていくのを見送りながら、俺は言い知れぬ虚脱感を覚えていた。
「……あんなにあっさり帰していいんですか。窃盗は窃盗ですよね」
思わず口をついて出た言葉に、大鷹部長は書類から顔を上げずに言った。
「犯罪のすべてが、六法に書かれた罪状通りに裁かれるわけじゃないのですよ。現場には現場の判断があり、情状酌量ってもんがあります。私たちの仕事は、単に取り締まって罰を与えることだけじゃない。大事なのは、明日から二度と盗みを働かないように、再犯を防止すること。そのために、どう着地させるのが一番効くのかを見極めなきゃいけません」
その言葉は、教範通りにしか物事を見れていなかった俺の頭を、鈍器で殴りつけるような衝撃だった。
白か黒か。
合法か違法か。
そんな単純な二元論で割り切れるほど、シャバの人間は、社会は、シンプルにできていない。
学校の成績がなんだ。
法律の知識がなんだ。
そんなものは、このヒリヒリとした生身の人間が交錯する現場では、ただの前提条件に過ぎない。
その後も、鳴り止まない近隣企業からの相談電話、落とし物の届け出、自転車盗難の被害届の受理と、息をつく間もないほど業務が押し寄せた。
交番という名の最前線で、俺はただ、大鷹部長の素早い動きの邪魔にならないよう立ち回るのが精一杯だった。
右も左もわからない。
己の無力さと引き出しの少なさが、硬い制服の下でじっとりと冷や汗となって張り付いていた。
この街の平和を守る?
一人前の警察官になる?
ふざけるな。
今の俺は、ただ制服に着られているだけの、無力な素人に過ぎなかった。
第2節:眠らない町
夜の帳が下りても、交番の時間は止まらない。
夜間の警らへと出向いた俺たちのパトカーは、深夜営業のコンビニエンスストアの駐車場に滑り込んだ。
窓越しに、車止めブロックに腰掛けて屯している数人の少年たちの姿が見える。
「声、かけてきてみなさい」
運転席の大鷹部長が顎でしゃくった。
パトカーのドアを開け、秋の冷たい夜風の中へ足を踏み出す。
少年たちの視線が一斉にこちらに向くのがわかった。
値踏みするような、反抗的で、それでいてどこか怯えを含んだ十代特有の鋭い目。
俺は歩みを進めながら、彼らの瞳に「警察官としての自分」がどう映っているのかを必死に観察していた。
なめられてはいけない。
だが、無駄に威圧して反発を買ってもいけない。
制服に着られているだけの素人だと見透かされないよう、肚に力を入れ、歩幅を広げた。
「こんばんは。遅い時間だけど、何かトラブルかい?」
努めて低い声で声をかける。
虚勢だとバレないように。
表面上は穏やかに、しかし隙を見せないように。
結果として身分証明の確認だけで事なきを得たが、パトカーに戻る頃には、背中にじっとりと冷や汗をかいていた。
その後も、二十四時間営業の店舗への立ち寄り、ストーカー被害の相談があった住宅周辺の警戒、幹線道路での交通取り締まりと、業務は絶え間なく続いた。
二十二時を過ぎた頃、唐突に、鉛のような睡魔が全身にのしかかってきた。
無理もない。
警察学校では毎朝六時に起床し、二十二時半には完全消灯という、時計の針のように正確で規則正しい生活を半年間強制されてきたのだ。
人間の身体は、そう簡単に夜行性に切り替わらない。
シャバの不規則なリズムが、容赦なく俺の生体時計を狂わせ、体力を削っていく。
だが、それに慣れるしかないのだ。
必死にまぶたを開き、夜の闇に目を凝らした。
交代の時間が迫り、ようやく一息つけるかと思った矢先の二十五時三十分。
無線のスピーカーが割れるような声で応援要請を告げた。
『管内、路上にて泥酔者保護。マルタイ(対象者)、稼働不能。応援求む』
現場に急行すると、そこには目を覆いたくなるような惨状が広がっていた。
路肩にへたり込んでいる男は、自分自身の吐瀉物にまみれていた。
スーツのスラックスは汚れ、革靴は片方しか履いていない。
「おい、大丈夫か。名前言えるか?」
先んじて現着していた当直の本署勤務員が声をかけても、男は焦点の定まらない半開きの目で「あー」とか「うー」とか呻くだけだ。
強烈な胃液とアルコールの入り混じった悪臭が鼻を突く。
俺を含め、集まった六人の警察官で男を抱え上げようとするが、完全に脱力した人間の身体というのは、信じられないほど重い。
まるで水を含んだ砂袋だ。
制服が汚れることなど構っていられない。
吐瀉物がべっとりと付着した上着のポケットに手を突っ込み、なんとか財布を引きずり出して身元を割り出した。
連絡を受け、タクシーで駆けつけてきた家族は、平謝りしながらも、どこかうんざりとした嫌悪の表情を浮かべていた。
華々しい事件の捜査でも、正義の執行でもない。
これが、現場のリアルだ。
社会の底に沈殿する泥を掬い上げ、処理する。
綺麗事だけでは決して務まらない、泥臭い肉体労働だった。
交番に戻ってきたのは二十六時。
そこから警ら中にあった出来事を勤務日誌にまとめ上げる。
全てが一段落し、パイプ椅子に深く腰掛けた時には、時計の針は朝の四時三十分を回っていた。
ふと、交番の隅にある黒電話が目に入った。
受話器を取れば、無条件の愛で俺を包み込み、精神的な支柱となってくれているマコの声が聞ける。
泥のように疲弊した脳が、すがりつくように彼女の温もりを求めていた。
だが、俺は自嘲気味に笑って視線を外した。
今の俺はただ制服に着られているだけの「お客さん」だ。理不尽な現場を自らの足で立ち回れる一人前の実務家になった時、胸を張って報告しよう。
「少し寝てきなさい」
という大鷹部長の言葉に甘え、仮眠室の硬いベッドに倒れ込んだ。
泥のように眠った。
だが、この仮眠すら取れない夜が当たり前にあるのだという。
七時。
けたたましい目覚ましの音で跳ね起きる。
「死んだように眠っていましたね。大したものです。」
洗面所で顔を洗う俺に、大鷹部長が笑いかけた。
その笑顔を見ながら、俺は昨日一日を振り返っていた。
萎縮し、ただ部長の指示を待つだけで、積極性に欠けていた自分がひどくちっぽけに思えた。
大鷹部長は、俺に指示を出すだけでなく、
「この行動の根拠は?」
「今は何を伝えるべき?」
「どういった意図がある?」
と、要所で必ず質問を投げかけてきた。
自分で考える力。
現場で生き抜くための力を、その背中で教えようとしてくれていたのだ。
身支度を整え、交番のデスクに戻った俺に、大鷹部長はぽつりと、だが確かな熱を帯びた声で言った。
「昔はな、みんなよく怒られて学んでいったものです。知らないから怒られて、教えてもらう。これが『教養』。教わったこと、知っていることを実践できなくて指摘されることは『指導』って言うんですよね」
部長は窓の外、白み始めた街の景色を見つめながら続けた。
「ジジイみたいなこと言いたくはないのですがね……今の世代は、心が弱い。怒られることを避け、消極的だから、教わることができなくて教養が低いのだと思います。」
その言葉は、俺の胸の一番柔らかい部分に、鋭く突き刺さった。
図星だった。
学校の教場では、怒られないために教範を丸暗記し、減点されないために動いていた。
現場でも、失敗を恐れて大鷹部長の影に隠れていた。
改めて痛感した。
警察官は、弱い奴には務まらない。
すぐに意識や気持ちが変わる「特効薬」なんて、どこにもないのだ。
自分自身の強い願望が行動になって、初めて人は変わっていける。
なら、どうする。 逃げるか?
それとも、ここで踏みとどまるか。
恐れず、挑戦を積み重ねるしかない。
この泥臭く理不尽な現場で、良い影響をもたらす存在になりたい。
俺は、本物の一人前になりたい。
朝日に照らされた井戸町交番の中で、俺の胸に、かつてないほど静かで、確かな炎が灯っていた。
第3節:お客さん
二度目の当直勤務。
真新しい制服の硬さにも、帯革の重みにもほんの少しだけ身体が馴染んできた気がしていたが、そんなささやかな余裕は、とめどなく押し寄せるシャバの雑音によって即座にかき消された。
交番勤務の日常は、決して派手な事件ばかりで構成されているわけではない。
むしろ、社会という巨大な機械が軋む音に、ひたすら油を差し続けるような地道な作業の連続だ。
巡回連絡で管内を歩き回り、金融機関等に立ち寄って警戒の目を光らせる。
幹線道路に出れば、交通違反者の取り締まりだ。
一時停止無視でサイレンを鳴らして停止させたドライバーは、「なんで俺だけ捕まるんだ」と唾を飛ばして食ってかかってきた。
学校の教場なら教官の鉄拳が飛んでくるような暴言も、現場では涼しい顔で受け流し、淡々と切符を切らなければならない。
正義の執行というよりは、感情労働に近い。
交番に戻れば、今度は肩を落とした大学生が待っていた。
駅前で自転車を盗まれたという。
「鍵、かけ忘れてたんです……バイト代でやっと買ったロードバイクだったのに」
半泣きになっている彼から事情を聴き出し、被害届を受理する。
俺は教範通りに書類の項目を埋めながら、先日大鷹部長が万引き犯にとった「微罪処分」の記憶を反芻していた。
自転車を盗んだ見えない犯人への怒りと、目の前の被害者への同情。
しかし、俺の手元にあるのはただの冷たい事務書類だ。
さらに息をつく間もなく、交差点での物損事故の無線が入る。
現場に急行すると、フロントバンパーがひしゃげたセダンと、側面に傷が入った軽ワゴンが道路を塞いでいた。
散乱するガラス片とプラスチックの破片。
幸い怪我人はなかったが、両者の運転手は互いの過失を主張し合い、血上って怒鳴り合っている。
大鷹部長は手慣れた様子で当事者たちを引き離し、実況見分の準備を進めていく。
俺はメジャーを手に、チョークで路面にマークを引きながら、部長の指示に従って必死に動き回った。
ひと通りの処理が終わり、パトカーに戻った時のことだ。
大鷹部長が自身の警察手帳を開き、ボールペンの先でトントンと叩いてみせた。
「いいかい。現場に出たら、事細かに時間をメモする癖をつけなさい」
「時間、ですか」
「そう。現着(現場到着)は何時何分か。当事者に声をかけたのは何分か。応援を要請したのは何分か。私たち警察官はな、巨大な権力を持っている分、常に世間や組織から『適正な職務執行だったか』を問われます。報告の多いこの社会で生き抜くには、分単位の記録こそが、自分の身を守る最大の盾になるんです」
部長の手帳には、ミミズが這ったような字で、行動のすべてが秒単位でびっしりと記録されていた。
ドラマのような閃きや腕力ではない。
この冷徹なまでの事実の蓄積こそが、プロの実務家の証なのだ。
俺は自分のスカスカなメモ帳を見つめ、静かに息を吐いた。
深夜を越え、空が白み始めた朝方。
けたたましい無線の音が、眠気で麻痺しそうになる脳を叩き起こした。
『管内、井戸町三丁目付近にて、猿が出没。威嚇しているとの通報多数。各局臨場せよ』
「……猿、ですか?」
思わず聞き返した俺に、大鷹部長は「行きますよ」とだけ短く告げた。
山あいに近い住宅街に到着すると、パジャマ姿の住民たちが不安そうに通りに出ていた。
「あっちの屋根の上にいたんです! シャーッて歯を剥き出しにして!」
通報者の指差す方向を捜索するが、すでに猿の姿はない。
すると、無線から「三ブロック先の公園で目撃情報」と新たな報告が入る。
パトカーを走らせ、周辺を駆け回るが、猿は神出鬼没だ。
完全に翻弄されている。
結局、一時間ほど捜索を続けたものの発見には至らず、通報もパタリと止んだ。
「もう山へ帰っていったようですね。引き上げましょう」
パトカーに戻りながら、俺は苦笑いを浮かべた。
凶悪犯を追うわけでもなく、野生の猿を追いかけて朝の住宅街を走り回る。
警察官という仕事は、こんなことまでやるのか。
だが、交番へ戻る道すがら、大鷹部長が言った。
「馬鹿馬鹿しいと思いますか? ですが、得体の知れない獣に怯えていた住民たちにとって、制服を着た警察官が駆けつけ、パトカーの赤色灯が回っているだけで、どれだけ安心するか。それが『地域警察』の役割ですよ」
その言葉に、俺はまた考えさせられる。
不安を解消し、日常の平穏を担保する。
それもまた、紛れもない警察の仕事なのだ。
交番に戻り、一息つく間もなく、来訪者が現れた。
管内の小学校で教育指導を担当しているという中年の教員だった。
「実は、うちの学校の素行の悪い生徒……いわゆる不良グループなんですが、ナンバーのついていない原付スクーターを乗り回していると、近所の老夫婦から学校に苦情の連絡がありまして。恐縮ですが、一緒にその生徒の家まで同行していただけないでしょうか」
教員の顔には、明らかな疲労と及び腰の態度が張り付いていた。
学校の手に負えない事案を、警察の威光を借りて処理したいという意図が透けて見える。
大鷹部長は嫌な顔一つせず、「行きましょう」と頷いた。
教員の案内で到着したのは、古い木造の平屋建てだった。
その庭先には、確かにナンバープレートの外された、黒い原付スクーターが無造作に停められていた。
盗難車の可能性も十分にある。
「頼みます」と教員が俺の後ろに下がるのと同時に、玄関のすりガラスの引き戸がガラリと乱暴に開いた。
中からぞろぞろと姿を現したのは、四人の少年たちだった。
全員が髪を金や茶色に染め、だらしなくジャージを着崩している。
彼らは庭に立つ制服姿の俺たちを見ると、一瞬だけ動きを止め、次いで馬鹿にされまいと虚勢を張るように、敵意を剥き出しにしてこちらを睨みつけてきた。
「なんだよ、ポリ公。朝っぱらから何の用だ?」
先頭に立った一番背の高い少年が、顎をしゃくりながら吐き捨てるように言った。
ヒリヒリとした、若く未熟な暴力の匂い。
俺は無意識に帯革の位置を確認した。
「まあ、そう突っ張るな。朝早くから悪かったね」
大鷹部長は、少年たちの敵意を真っ向から受け止めるのではなく、まるで近所の悪ガキを諭すような、穏やかだが重みのある声で応じた。
怒鳴りつけることも、権力を振りかざすこともなく、ただ彼らの目をじっと見据え、その虚勢の裏にある怯えを丁寧に解きほぐしていくように言葉を重ねる。
初めはそっぽを向いていた少年たちも、大鷹部長の器の大きな対応に、徐々に態度を軟化させていった。
リーダー格の少年が視線を落とし、
「……先輩に預かっとけって言われて……」
と、重い口を開きかけた。
まさにその時だった。
『ウゥーッ』という短いサイレンと共に、本署から応援のパトカーが二台、狭い路地に滑り込んできた。
ナンバーのない原付、という事案の性質上、本署が本格的に動き出したのだ。
数名の警察官が降りてくると、現場の空気は一瞬にして「対話」から「捜査」へと切り替わった。
俺は、少年たちが心を開きかけたあの瞬間を、警察官として最後まで見届けたかった。
社会的ルールの超過勤務になろうが、最後まで真摯に対応すべきだと思っていた。
だが、本署の警察官の一人が、俺の腕章を見て無慈悲に言い放った。
「実習生はここまでだ。お前はもう学校に戻れ」
反論の余地はなかった。
俺はただの「お客さん」なのだ。
本物の現場において、権限も責任も持たない、まだ学校に守られているだけの素人。
少年たちの方を振り返る。
彼らは再び心を閉ざし、怯えと反発の混じった目で本署の警察官たちを睨んでいた。
別れの言葉を告げることすら許されず、俺は現場から引き剥がされた。
何も完遂できなかったもどかしさが、胸の奥で黒く渦を巻いた。
午前八時。
二度目の当直勤務が終わった。
交番の裏手で制服を脱ぎながら、俺は研修初日に感じたあの無力感を反芻していた。
自分自身が強い願望を持って行動しなければならない。
試験があるから勉強しなければいけないのではない。
己の知識で職務を全うし、理不尽なトラブルに対処するために、勉強を怠らないのだ。
一線で血と汗を流しながら体験し、必要なことを貪欲に吸収していく。
警察学校という場所は、決してゴールではない。
この果てしなく泥臭い「現場」というステージの、スタートラインに立つための切符を手に入れる場所に過ぎないのだ。
第4節:帰校
十月中旬。
空は秋特有の高く澄み切った晴天だった。
五日間にわたる怒涛の実務研修は、この日の半日勤務をもって最終日を迎える。
初日に肩に堪えた真新しい制服は、すっかりシャバの埃と冷や汗を吸い込み、重く身体にへばりついていた。
不規則な睡眠と極度の緊張により肉体的な疲労は限界に達しており、もはや気力だけで立っているような状態だ。
それでも、不良少年たちとの対峙から引き剥がされた昨日のもどかしさを胸の奥に押し込み、俺は残されたわずかな時間を少しでも有意義なものにしようと、大鷹部長に対して自分から積極的に質問を投げかけていた。
午前中の交通取り締まりでのことだ。
サイレンを鳴らして停止させた違反車両のドライバーは、露骨に顔を歪め、
「どうせお前ら、ノルマがあるからやってるんだろう」
とつっかかってきた。
交通取り締まりを受けて喜ぶ人間などいないし、理不尽な文句を言われることも多い。
だが、大鷹部長は一切怯むことなく、静かで威厳のある声で答えた。
「ええ、ノルマはありますよ。ですが、そのノルマというのは切符をたくさん切って、反則金を多く集めることではありません。交通事故を減らして、それによって死んでしまう人をなくすことが、我々のノルマですよ」
その言葉を聞いた瞬間、違反者はハッとした表情を見せ、素直に応じた。
警察官として当たり前の使命だが、現場の最前線で浴びるその言葉には、血の通った圧倒的な説得力があった。
交通取り締まりは、単なる数値目標で動くものではないのだ。
大鷹部長は、相手が感情的になった時こそ自信を持って誠実に対応できるよう、事前によく考えて「自分の引き出しを増やしていく」ことが大切だと教えてくれた。
交番での立番一つをとってもそうだ。
背筋を伸ばしてまっすぐ立ち、周囲を鋭く観察する。
その姿を見せるだけで、住民の不安を少しでも解消することができる。
一般の住民にとって、警察はどうしても「取り締まり」のイメージが強く、訪問されるだけで構えてしまう。
だからこそ、何故巡回連絡をしているのかをしっかりと伝え、不安を取り除くコミュニケーションが必要なのだ。
そして泥酔者を相手にするような修羅場では、自分自身が誰よりも冷静に周囲を観察しなければならない。
限られた時間と人員の中で素早く事案に対応していくためには、個人の能力の高さが絶対条件となる。
誰かに頼るのではなく、一人で仕事ができるようになるための「知識の蓄え」が、現場では何よりも武器になると思い知らされた。
昼過ぎ。
ついにタイムアップの時が来た。
「お疲れさん。まあ、焦らずやりなさい」
大鷹部長は最後までニコニコとした笑みを浮かべ、不器用な素人の俺を労ってくれた。
俺は深く、ただ深く頭を下げて、井戸町交番を後にした。
警察学校へ戻り、教場へ足を踏み入れた瞬間、シャバの生々しい空気は冷たく無機質な規律の匂いにかき消された。
提出した実務研修の日誌は、すぐさま教官の容赦ない朱色のペンで添削されて返ってきた。
大鷹部長の言葉に感銘を受けた俺の記述に対し、教官は
『良い言葉ですね。自分の引き出しを増やすには色々な方法がありますが、一番手っ取り早いのは人の真似をすることだと思います』
と書き込んでいた。
だが、浮かれた気分を粉砕するように、別のページには氷のように冷酷な現実が突きつけられていた。
『一線に出たら全て個人責任です。まずは自分で管理できない人は信用されません』
日誌から顔を上げると、教官が教壇から俺たちを見下ろし、冷ややかに言い放った。
「何度も言うが、今回はあくまでもお客さんだ。卒業して一線に出たときには、もっと厳しい現実が待っている」
痛いほど、わかっていた。
俺は昨日、少年たちの前で本署の警察官に引き剥がされた、ただの「お客さん」に過ぎない。
俺は手元にある、ページが擦り切れ始めた実務六法を静かに見つめた。
もう、試験の点数を取るために法律を丸暗記するつもりはない。
怒られて腕立て伏せを回避するための勉強など、とうの昔に終わっている。
この知識は、理不尽な暴力から誰かを守るための盾だ。
絶望の淵にいる被害者を救い上げ、再犯を防ぐためのメスだ。
今の俺にはまだ何もない。
だからこそ、現場のプロフェッショナルたちの背中を真似て、泥水に顔を突っ込んででも自分の引き出しを増やしていくしかないのだ。
教場の窓から差し込む秋の夕日が、床に長い影を落としている。
今回できなかったことは、本物の警察官として現場に放たれる二月には、当たり前にこなせていなければならない。
拳を強く握りしめる。短い爪が手のひらに食い込む痛みが、今の俺の現在地を正確に教えてくれる。
自分がやるべきこと、学ぶべきことの輪郭は、もう完全に掴んでいた。
知識を血肉に変え、即戦力としてあのヒリヒリとした一線の現場で躍動する。
その日を思い描くと、恐怖よりも先に、胸の奥底で静かな炎が燃え上がり、どうしようもなく鼓動が早まるのを感じていた。
第八章 完
第九章に続く
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【著者メッセージ:第8章を書き終えて】
いつも『ケーガクッ!』を読んでいただき、ありがとうございます。
第8章では、主人公が初めて警察学校という「安全な檻」を抜け出し、本物の交番へと足を踏み入れる「実務研修編」をお届けしました。
当時の日誌を開きながらこの章を執筆していると、真新しい制服の不自然な硬さや、帯革のずしりとした重み、そして深夜の泥酔者が放つ強烈なアルコールの匂いまでが、昨日のことのように鮮明に蘇ってきました。
学校の中では、法律を暗記し、体力をつけ、教官に怒られないように立ち回ることが「正解」でした。
しかし、一歩外に出れば、社会は単純な白黒では割り切れない理不尽な出来事であふれています。
学校でトップクラスの成績だった主人公が、現場では全く使い物にならない自分に直面し、徹底的に打ちのめされる。
それは、かつての私自身が味わった、苦くも避けられない「シャバの洗礼」でした。
「知識」だけでは人を救えない。
現場で求められるのは、泥水に顔を突っ込んででも理不尽に対処しようとする「人間力」です。
圧倒的な己の無力さを知った主人公が、ここからどのように本当の意味での「プロの実務家」へと変貌していくのか。
残りの学校生活で、彼が何を武器にしていくのか。
残された物語はあと四ヶ月分。一
だいたい一カ月分を一章分で構成してきましたが、十月は二章にわかれます。
自身の警察学校時代で、もっとも外すことのできないお話が次章に控えているためです。
引き続き、お楽しみいただければ幸いです。