
ケーガクッ!第九章:『限界の代償』
第1節:焦燥のオーバードーズ
十月下旬。
五日間の交番実務研修から戻った、真新しい制服に染み付いた「己の無力という悪臭」が鼻につく。
教場の机に置かれた実務六法が、ひどく滑稽な代物に見えた。
一週間前まで、俺はこの分厚い本の条文を暗唱できる自分に酔いしれていた。
だが、シャバの現実はどうだ。
万引き犯の惨めな背中や、不良少年たちの剥き出しの敵意を前にして、俺の知識は何一つとして役に立たなかった。
現場のプロたちが見せつけた、理不尽な人間と対峙し、空気を支配する圧倒的な「人間力」。
それに比べて俺はなんだ。
知識という鎧を着せられただけの、空っぽの操り人形ではないか。
俺の胸の内で、自分自身に対する激しい怒りと、焼け焦げるような焦燥感が渦を巻いていた。
どうすれば、あの凄みを手に入れられる。
どうすれば、本物になれる。
出口のない焦りは、やがて俺の精神を極端な思考へと追い詰めていく。
実務研修明けの最初の休日。
俺は市内の大型書店に駆け込み、藁にもすがる思いで自己啓発系の書籍を狂ったように買い漁った。
心理学、コミュニケーション術、メンタルトレーニング。
活字の束をリュックにねじ込み、寮に持ち帰った俺は、自らに常軌を逸した「戒律」を課した。
十月はただでさえ実務検定が目白押しの時期だ。
当然、日中の過酷なカリキュラムや試験勉強は完璧にこなす。
その上で、後天的に「人間力」を叩き込むための読書時間を捻出するには、命を削るしかなかった。
二十二時三十分。
消灯のチャイムが鳴り、同室の仲間たちが泥のように眠りに落ちる中、俺の「裏の顔」が目を覚ます。
布団を頭からすっぽりと被り、息を殺してペンライトのわずかな光で活字を貪り読んだ。
目が霞み、脳が酸素不足で悲鳴を上げてもページをめくり続ける。
気絶するように意識を手放し、そして翌朝は誰よりも早い四時半に起床。
そこからは完全に「警察学校モード」の仮面を被り、涼しい顔で検定の勉強に没頭した。
狂っている。
人間の営みではない。
だが、当時の俺の脳内では、その自傷行為に近いスケジュールが完璧な正論として成立していた。
『一線の交番に出れば、当直で深夜も起きているのが当たり前だ。これくらいの睡眠不足に耐えられなくて、何が実務家だ』
それに、ここはあくまで学校なのだ。
息抜きの休日は保証されている。
なら、休日に倒れる前提で、平日は命の限界まで突っ走ればいい。
俺は睡眠という生命維持のプロセスを切り捨てることで、凡庸な自分を罰し、同時に高めようとしていた。
だが、極限まで張り詰めた肉体は、精神の傲慢さを許さなかった。
数日後。
座学の授業中、下腹部を太い鉄串で貫かれたような激痛が走った。
「……ッ」
声にならない呻きを噛み殺す。
胃の腑がキリキリと音を立ててきしみ、腸全体が雑巾のように物理的に捩じり上げられている感覚。
冷や汗が全身の毛穴から噴き出し、視界の端がチカチカと明滅する。
休憩のチャイムと同時にトイレの個室に転がり込み、便座を抱え込むようにして身をよじった。
休め。
寝ろ。
狂った生活を今すぐやめろ。
内臓がそう悲鳴を上げているのがわかった。
だが、冷たいタイルの床を見つめる俺の心に浮かんだのは、後悔や諦めではなく、どす黒い「開き直り」だった。
『この程度の疲れで腸が千切れるくらいなら、俺の底はその程度だ。どうせ過酷な当直勤務なんて耐えられない』
そうだ。
ここで倒れて警察人生が終わるなら、それまでだ。
苦しくて当たり前じゃないか。
痛みから逃げるな。
やり続けて、この激痛すらもねじ伏せて、身体を慣らすしかないのだ。
まだできる。
もっと、もっと本気で。
俺は底なしの闇へ向かってアクセルを踏み込んだ。
便器から顔を上げた時、奇妙な現象が起きた。
あんなに激しく俺を苛んでいた腹痛が、ふっと消え去ったのだ。
治ったわけではない。
限界を超えたストレスと異常なアドレナリン分泌により、狂気に染まった脳が、肉体からの警報(痛み)を強制的に遮断しただけだった。
痛みのないクリアな視界。
危険すぎるランナーズハイの中で、俺は自分が無敵の精神を手に入れたと錯覚していた。
修復不可能な「完全な崩壊」の足音が、もう耳元まで迫っていることにも気づかずに。
第2節:軋む盾
痛みを消し去ったはずのランナーズハイは、長くは続かなかった。
秋晴れのグラウンド。
容赦なく照りつける太陽の下、警備実施の訓練が始まっていた。
機動隊と同じ重厚な装備に身を固め、ジュラルミン製の大盾を構えて部隊単位で動く、警察学校のカリキュラムの中でも最も苛酷な肉弾戦だ。
「前進! 前進!」
教官の怒号が響く中、俺は歯を食いしばってグラウンドを駆けた。
足が鉛のように重い。
いや、足だけではない。
睡眠を削り、己を極限まで追い詰め続けたツケが、一気に牙を剥いて俺の肉体を喰い破り始めていた。
頭蓋骨の中で脳髄が揺れるたびに、ガンガンと割れるような頭痛が視界を白く飛ばす。
激しい呼吸をするたびに、乾燥した空気が剃刀のように喉を切り裂く。
鼻水が止めどなく溢れ出し、覆面の布地を不快に濡らしていた。
それでも、走っている間はまだごまかしが効いた。
アドレナリンと気合だけで、手足を機械のように動かせばよかったからだ。
だが、部隊が停止し、「盾の構え」の号令がかかった瞬間、本当の地獄が口を開けた。
「構え!」
その場に静止し、自分の背丈ほどもある大盾を前面に押し出して固定する。
動いてはいけない。
ただ耐える。
その静的な負荷が、ボロボロになった俺の身体に絶望的な重力となってのしかかってきた。
ジュラルミンの盾が、万力のように俺の腕を地面へと引きずり込もうとする。
膝がガクガクと情けなく痙攣し始めた。
熱のせいで景色がぐにゃりと歪む。
隣で構える同期の顔も、遠くに見える教官の姿も、焦点が合わない。
耳鳴りが大きくなり、周囲の怒号が遠のいていく。
限界だった。
『倒れて、楽になりたい』
心の奥底から、甘く囁くような声が湧き上がってきた。
盾を放り出し、この硬いグラウンドに横たわれば、どれほど楽になるだろう。
泥に顔を突っ込んで、すべてを投げ出してしまいたい。
激痛も、焦燥も、睡眠不足も、すべてを。
だが、もう一人の自分が必死に首を振って抗う。
『だめだ。ここで倒れたら、俺の警察人生は終わりだ』
一線の交番で見た、あのヒリヒリとした本物の現場。
理不尽な人間たちから誰かを守るための、圧倒的な人間力。
あそこに辿り着く前に、こんなところで終わるわけにはいかない。
立っていろ。
耐えろ。
俺はプロの実務家になるんだろ。
ミリ単位の筋力で持ち堪えようとする執念と、活動停止を求める肉体の悲鳴。
その残酷な綱引きは、唐突に終わりを迎えた。
ブツン、と。 脳内のブレーカーが落ちたような感覚だった。
気づいた時には、俺の身体は重力に負け、ジュラルミンの盾もろともグラウンドの土埃の中に崩れ落ちていた。
「おい! どうした!」
同期たちの声が聞こえる。
泥の味がした。
俺は慌てて身体を起こそうとしたが、四肢に力が入らない。
「大丈夫か、室長!」
ヤマトの声が耳元で響いた。
彼の手が俺の背中を支える。
俺はその手を払いのける余裕もなく、ただ顔を上げて、ひきつった笑みを浮かべた。
「……大丈夫だ。ちょっと、足がもつれただけだ」
ひどく掠れた、情けない自分の声。
全身から脂汗を流し、息も絶え絶えになりながら、まだ「完璧な優等生」の仮面を被ろうとしている。
辛いのに、限界なのに、元気を装っている自分が、果てしなく惨めだった。
医務室へ運ばれる道すがら、俺の脳裏にはマコの顔が浮かんでいた。
『もし、マコとの結婚を考えていなかったら……俺は今頃、このまま警察を辞めているだろうな』
無意識にそんな打算がよぎった瞬間、俺は自分自身への激しい嫌悪感に吐き気を覚えた。
過酷な訓練を共に乗り越え、あれほど腹を割って話せるヤマトのような「本当に信頼できる仲間」ができたというのに。
自分の命綱を、そんな仲間たちへの情ではなく、「結婚」という打算的な未来に頼ろうとしている。
なんて自己中心的で、我の強い人間なんだ、俺は。
ベッドに横たわりながら、俺は天井の染みをただ見つめていた。
人前では、まだ弱音を吐けない。
弱みを見せれば、自分が崩壊してしまうからだ。
じゃあ、俺はどうしたらいい?
仕事への熱意を捨てて、適当に手を抜いてやり過ごせばいいのか?
睡眠を削ってまで人間力を高めようとした俺の覚悟は、ただの独りよがりな滑稽なダンスだったのか。
答えは出ない。
ただ、全身を苛む熱と鈍痛の中で、俺は静かに絶望していた。
「生きる」って、難しいな。
その陳腐な独白だけが、空っぽになった俺の胸の中に虚しく反響していた。
第3節:青の延長線
深夜の警察学校。
消灯時間をとうに過ぎた校舎の屋上には、冷たく乾いた秋の夜風が吹き荒れていた。
ジャージ姿のままコンクリートの床に座り込み、俺は膝を抱えていた。
医務室で目を覚ました後、どうしても寮のあの息の詰まるベッドに戻る気になれず、無断でここまで這い上がってきたのだ。
眼下には、街の灯りが星屑のように瞬いている。
あの無数の光の下には、今日俺が交番実務研修で思い知らされた、理不尽で泥臭い「生身のシャバ」が広がっているのだ。
自分の命について、ぼんやりと思いを馳せていた。
死ぬ覚悟なんて、最初からありはしなかった。
ただ、圧倒的な己の無力さと、睡眠を削ってまで足掻いた挙句にグラウンドの泥を舐めた惨めさから、ほんの少しだけ逃げ出したかった。
己の空っぽな器を直視するのが恐ろしくて、この暗闇の中に溶けて消えてしまいたかっただけなのだ。
どれくらいの時間が経っただろうか。
背後で、屋上へと続く重い鉄の扉が、軋んだ音を立てて開いた。
「……おい」
振り返ると、暗がりの中にヤマトが立っていた。
息を少し切らしている。
消灯後、ベッドに俺の姿がないことに気づき、教官の巡回を搔い潜って、暗い校舎中を探し回ってくれていたのだろう。
ヤマトは俺の姿を認めるなり、大きく安堵の息を吐き出し、わざとらしいほど呆れた口調で言った。
「こんな所にいやがったのか。……マジで、死んじまったかと思ったぜ」
心の底からの安堵を、照れくさそうな皮肉のベールで隠す。
ヤマトらしい、不器用で温かい気遣いだった。
彼は俺の隣に歩み寄ると、冷たいコンクリートの上に無造作に腰を下ろした。
風の音が二人の間を吹き抜ける。
俺たちはしばらくの間、何も言わずに遠くの街の灯りを見つめていた。
「……俺さ」
沈黙を破ったのは俺の方だった。
堰を切ったように、心の奥底に溜まっていた泥水が口から溢れ出した。
「タイムマシンがあったらいいのにって、本気で考えてたよ」
「タイムマシン?」
「ああ。過去に戻って、やり直したいことが山ほどある。研修での失敗も、今日の警備実施も。でも、そんなものが現実にあるわけない。だから、今を一生懸命に生きるしかないんだって、必死に自分に言い聞かせて、自分を騙し込んでやってきた」
ヤマトは黙って耳を傾けている。
俺は夜空を見上げたまま続けた。
「夢を見ていたかったんだよ。自分の行動が評価されて、教官や周囲から認められて、それを励みにトップを目指して頑張るっていう、綺麗な夢をな。でも……もう限界だ。もう、頑張れない」
完璧な優等生というメッキが剥がれ落ち、ひび割れた素顔が完全に露呈していた。
人前では絶対に弱音を吐けなかった俺が、自分でも驚くほど素直に、無様な本音を吐き出していた。
「俺って、昔から『変わってるやつ』ってよく言われるんだよな。ここに来てもそうだ。普通なら適当に息を抜くところで、一人で勝手に思い詰めて、勝手に壊れて。本当に、嫌になるくらい我の強い、変わってる人間だよ」
自嘲気味に笑う俺に、ヤマトはクスッと鼻で笑い、夜風に声を乗せた。
「違うな。変わってるんじゃねえよ」
「……え?」
「他人が考えないようなことまで、勝手に深く考えすぎてるから、周りから『変わってる』って思われてるだけだ。本当の室長は、ただめちゃくちゃ『素直』なだけだろ。真っ直ぐすぎて、ブレーキが壊れてるんだよ」
ヤマトはそこで言葉を区切り、俺の顔を真っ直ぐに見て言った。
「俺には、そこまで自分を追い込むことなんて、絶対にできない。室長はすげえよ」
その瞬間、張り詰めていた心の糸が、音を立ててふっと緩んでいくのがわかった。
自分にとっての「当たり前」の葛藤や不器用さが、他者の目に真っ向から受け入れられる。
それだけでも奇跡のように幸せなことなのに、ヤマトはそれを「俺にはできない、すごいことだ」と、高く評価すらしてくれたのだ。
これこそが、人生の味わい深さというものなのだろう。
綺麗事だけではない。
地獄のような訓練で罵声を浴び、腕立て伏せの汗と泥にまみれ、お互いの「当たり前」をぶつけ合い、認め合い、共に高め合ってきた。
ただの同期生ではない、この絶対的な地獄を攻略するための「共犯者」は、間違いなくこの夜、この屋上の上で、俺にとっての生涯の「親友」へと変わった。
俺は再び、見上げる夜空に視線を戻した。
書を嗜む者には、一つの真理がある。
『墨色は、青の延長線の黒色である』ということだ。
一見すると、光をすべて吸い込むような絶望的な真っ黒に見える墨のグラデーションの中には、信じられないほど深く、透き通るような美しい青色が潜んでいる。
俺はずっと、自分の限界という漆黒の闇に押しつぶされていると思っていた。
だが、違ったのだ。
ヤマトの言葉という一滴の水が落ちた瞬間、俺の目に映るこの日の夜空は、黒などではなく、俺たちの泥臭くも純粋な青春を祝福するような、どこまでも深い「青色」に染まって見えた。
冷たかったはずの秋の夜風が、今は心地よい。
「……ヤマト、ありがとうな」
「バーカ。ほら、戻るぞ。」
ヤマトが立ち上がり、手を差し出してくる。
その手をしっかりと握り返し、俺は自分の足でコンクリートを踏みしめた。
その夜、寮の硬いベッドに潜り込んだ俺は、この数週間で初めて、泥のような、しかし信じられないほど安らかな眠りにつくことができた。
第4節:涙の奥の本音
翌朝。
午前六時の起床チャイムが寮内にけたたましく鳴り響き、いつものように戦争のような慌ただしい日常が幕を開けた。 洗面台の奪い合い、シーツのシワ一つ許されないベッドメイキング、そして一限目の授業に向けた装備品の点検。
部屋員たちが分刻みのスケジュールに追われて廊下を駆け抜けていく中、俺は自分のベッドの端に腰掛けたまま、その光景をただ静かに見つめていた。
着替える気すら起きなかった。
俺の心は、不思議なほど凪いでいた。
昨日のグラウンドで感じた、内臓を雑巾のように絞り上げられる激痛も、己の無力さを呪う焼け焦げるような焦燥感も、嘘のように消え去っている。
いや、消えたのではない。
風船が限界まで膨らんで破裂した後のように、俺の中の「何か」が完全に空っぽになってしまったのだ。
授業の時間が迫る中、身支度を全くしていない俺の異常な姿に、当然部屋員たちは気づいていた。
しかし、誰一人として「早くしろ」と急かしたり、「どうしたんだ」と無粋な詮索をしてくる者はいなかった。
彼らはただ、一瞬だけ足を止め、何かを察したような、それでいて「信じているぞ」と言わんばかりの静かな視線を俺に向けた。
俺の奇行や、抱え込んだ闇の深さを、言葉ではなく態度で受け入れてくれている。
「……先に行くぞ」
ヤマトが短くそう告げ、部屋員たちは教場へと向かっていった。
遠ざかる足音を聞きながら、俺は彼らの背中に向かって心の中で深く頭を下げた。
本当に、最高の仲間たちだった。
彼らと出会えただけでも、俺がこの地獄のような学校の門を叩いた意味はあったのだと思う。
部屋に完全な静寂が訪れた後、俺はゆっくりと立ち上がり、指定の制服に袖を通した。
いつもなら、この制服を着るたびに「完璧な優等生」という見えない鎧を纏うような感覚があった。
教官に隙を見せず、誰よりも正しい姿勢で、誰よりも大きな声を出すための戦闘服。
だが今日の制服は、ただの布切れのように軽く、そしてひどく虚ろだった。
寮を出て、教官室へと続く長い廊下を歩く。
緊張は全くなかった。
心臓の鼓動も一定のリズムを刻んでいる。
自分はここで警察を辞める。
その明確な決意が、俺をすべての重圧から解放してくれていた。
教官室の前に辿り着く。
重厚な木製の扉。
一限目の授業はすでに始まっている時間だ。
本来ならば、教場にいなければならない学生がここにいること自体が異常事態である。
俺は小さく息を吐き、ノックを三回叩いてから、扉を押し開けた。
「失礼します!」
室内には数名の教官がデスクワークをしていたが、訪れるはずのない学生の唐突な登場に、室内の空気が一瞬にしてピリッと張り詰めるのがわかった。
数本の鋭い視線が俺を一斉に射抜く。
だが、俺は怯むことなく、まっすぐ前を見据えて歩みを進め、担任教官のデスクの前で足を止めた。
担任教官は、書類からゆっくりと顔を上げ、俺の顔をじっと見つめた。
数秒の沈黙の後、教場で見せるあの氷のように冷たい、感情を一切交えない声が室内に響いた。
「なんだ。……辞めるのか?」
その厳しく冷徹な一言が、静まり返った教官室の空気をさらに一段階、凍てつかせた。
周囲の教官たちのタイピングの手が止まる気配がする。
言い訳の余地も、取り付く島も与えない、死刑宣告のような問いかけ。
昨日までの俺なら、この威圧感の前に膝を屈し、「いえ、何でもありません」と逃げ出していたかもしれない。
だが、今の俺には守るべきプライドなど何一つ残っていなかった。
「はい」
俺は、教官の目を真っ直ぐに見返して答えた。
「そのつもりでした」
過去形になった自分の言葉に、俺自身が一番驚いていた。
辞めに来たはずなのに、口から出たのは『つもりでした』という未練がましい言葉。
俺は、自分がなぜ限界を迎えたのか、その本当の理由を、不本意に溢れ出す涙とともに、飾ることなくすべて吐き出し始めた。
「正直に申し上げます。……頑張りすぎて、疲れ果てました。現場での自分の無力さが許せなくて、無理に睡眠を削り、知識と人間力を詰め込もうとして、自滅しました」
声が震えている。
奥歯を噛み締めても、感情の決壊を止めることはできなかった。
「前職でも……俺は同じような状態になって、プレッシャーに押し潰されて逃げるように辞めました。また同じことを繰り返そうとしている自分が、情けなくて、悔しくて……」
視界が急激に歪み、熱い塊が喉の奥から込み上げてくる。
「でも……っ、俺は、本当は警察を辞めたくないんです……!」
ボロボロと、大粒の涙が制服の胸元にこぼれ落ちている。
嗚咽が漏れる。
鼻水が垂れ、顔面がぐしゃぐしゃに歪む。
これまで「トップの成績を誇る冷徹な優等生」として教官の前で完璧に取り繕ってきた俺の仮面が、粉々に砕け散り、見苦しい素顔が完全に露呈した瞬間だった。
みっともない。
情けない。
だが、自分の心の底にある『本当は辞めたくない』という本音を、自分自身で認め、素直に言葉にできたことで、信じられないほどの安心感が俺の全身を包み込んでいた。
涙は、止まらなかった。
俺の醜態を黙って見下ろしていた担任教官は、ふっと息を吐いた。
怒号が飛んでくる覚悟はできていた。
「そんな甘い覚悟なら今すぐ荷物をまとめて出て行け」
と切り捨てられるものだと思っていた。
だが、視界の滲む中で俺が見たのは、これまで半年間、一度たりとも見せたことのない、教官の深く、温かく、そしてどこか懐かしむような『笑顔』だった。
「よくここまで持ったものだ」
教官の口調は、教場でのそれとは全く違っていた。
まるで、出来の悪い弟を労うかのような、穏やかな響きがあった。
「もっと早く音を上げると思っていたぞ。……やっぱりお前は、来るべくして俺のところに来たな」
思いもよらない言葉に、俺は嗚咽を漏らしながら顔を上げた。
教官は椅子に深く背中を預け、天井の蛍光灯を眩しそうに見上げながら、静かに語り始めた。
それは、教範にも六法全書にも載っていない、一人の男の血みどろの人生の記録だった。
「俺はな、親から『頑張れ、頑張れ』と背中を叩かれ続けて育った。期待に応えるのが当たり前だと思っていたし、それが正しい生き方だと信じて疑わなかった。警察官になってからもそうだ。周りに負けたくなくて、自分の限界を認められなくて、無理に無理を重ねた」
教官の目が、遠い過去の修羅場を見つめている。
「結果、どうなったと思う? 胃潰瘍だ。ストレスで胃に穴が空き、体重は激減して、立っていることすらできなくなった。そこから現場に復帰するまで、丸三年かかったよ。同期たちが次々と手柄を立て、階級を上げていくのを、俺は病院のベッドの上でただ歯を食いしばって見ていることしかできなかった」
俺は息を呑んだ。
あの絶対的な存在である教官が、俺と同じように限界を超えて自滅し、絶望の淵を這いずり回っていた過去があったなんて。
教官は俺の目を真っ直ぐに射抜き、言葉に並々ならぬ熱を込めた。
「いいか、よく聞け。世の中の99パーセントの人間は、競争社会の中で、誰かと比較し、勝つことを当たり前として受け止めている。実績、階級、人からの評価……そういうものに縛られて、強迫観念の中で生きている。だがな、それとは全く違った価値観で生きている『本当に幸せな1パーセント』の人間がいるんだ」
教官は立ち上がり、俺の肩を両手でガシリと力強く掴んだ。
「自分は、頑張らなくていいんだよ」
その言葉は、努力と根性がすべてであるこの警察学校という空間において、あまりにも異端で、そしてあまりにも強烈な劇薬だった。
「自分にできないことは、周りのできる奴がやってくれる。自分を偽らず、素直に甘えて、無理をしない。だから、悩みも苦しみもない。では、なぜ他人が自分のために動いてくれるのか? それは、日頃の『思いやり』と『感謝の気持ち』が、そういう関係を築き上げているからだ」
頑張らなくていい。
頼ればいい。
その言葉が、俺の全身を縛り付けていた鎖を、一本、また一本と断ち切っていく。
「あとな、俺たちは社会的に影響力のある警察官だが、他人の心なんて絶対にコントロールできない。人は、絶対に変えられないんだ。変わるのは常に自分自身だけだ」
教官の言葉は、熱を帯びた塊となって俺の胸に突き刺さる。
「他人が自分の思い通りに変わってくれないことにストレスを感じるな。そうじゃなく、純粋に間違いを指摘してやれ。それが『思いやり』だ。何度も、何度も思いやって、まずは自分から先に出す。与え続ける。それが巡り巡って、いつか必ず自分に返ってくるんだ」
それは、万引き犯に微罪処分を下し、不良少年たちと対話で向き合おうとした、あの大鷹部長の姿とも重なるものだった。
白黒をつける正義の執行者ではなく、泥にまみれた人間の弱さを受け入れる者。
「この世の中に、聖人君子なんて一人もいない。誰だって悩み、苦しみ、迷って生きているんだ。お前が抱えているその悩みは、他人から見れば大したことじゃないかもしれない。だが、お前にとっては命を削るほど重要なことなんだろう?」
教官は、掴んでいた俺の肩をポンと優しく叩いた。
「だから、仲間がいるんだ。親友がいて、お前を無条件で愛してくれる彼女がいるんだ。……そして、おまけで俺ら上司がいるんだろ」
その瞬間、俺の脳裏に、夜の屋上で共に冷たい風に吹かれたヤマトの顔が浮かんだ。
そして、公衆電話の向こうから聞こえる、マコのあの優しく温かい声が響いた。
そうだ。
俺は、一人じゃなかった。
一人で完璧になろうとしていたから、苦しかったのだ。
「一人で生きていくなんて、烏滸(おこ)がましいんだよ」
教官は最後に、悪戯っぽい笑みを浮かべてそう言い放った。
「もっと焦って、もっと悩んで、もっと苦しんでいけ。それでいて……迷わず周りを頼れ。それが、人間として生きるってことだ」
涙が、再びとめどなく溢れ出した。
だがそれは、先ほどまでの悔しさや自己嫌悪の涙ではない。
俺の魂の奥底にこびりついていた真っ黒な泥をすべて洗い流してくれる、浄化の涙だった。
重くのしかかっていた肩の憑き物が落ち、背中に羽が生えたかのように身体が軽い。
教官に礼を言い、教官室を出た俺は、廊下の窓から差し込む秋の眩しい朝日に目を細めた。
生まれ変わったような、全く新しい世界の輪郭がそこにあった。
一限目の授業が終わるチャイムが鳴った直後だった。
廊下の向こうから、凄まじい足音を立てて、ヤマトたち部屋員の面々が駆けつけてきた。
俺が退学届を出して消えてしまうのではないかと、居ても立っても居られなかったのだろう。
息を切らして立ち止まった彼らの前に、俺は一歩前に出た。
泣き腫らした瞼はパンパンに腫れ上がり、目は真っ赤に充血している。
隠しようのない無様な顔だ。
だが、俺の顔の筋肉からは不自然な強張りが完全に消え去り、半年ぶりに、腹の底から湧き上がる自然な笑みを浮かべていた。
「心配かけてごめん。……俺、もう完璧を装うのは辞めたよ」
驚いて目を見開く仲間たちに向かって、俺は大きな声で告げた。
「俺にはできないことが山ほどある。だから、何かあったらお前らを頼む!」
九十度、深々と頭を下げる。
数秒の静寂の後、
「 これからも、よろしくお願いします!!!」
部屋員達の声が自然と合わさった。
教官室の目の前であることを忘れ、ドッと温かい笑い声が弾けた。
頭を上げた俺の目に飛び込んできたのは、彼らの本当に、本当に純粋無垢な笑顔だった。
俺の胸の奥で、マグマのように熱く、それでいて春の陽だまりのように優しい感情が込み上げてくる。
できないことは頼ればいい。
できることを、思いやりを持って積み重ねていく。
それは決して手を抜くということではない。
そのバランス感覚を養うために、人は理不尽な経験を積むのだ。
少しだけ視座が高くなった自分に確かな手応えを感じながら、俺は、これまで支えてくれた仲間たち、マコ、そして教官への感謝の念で胸を一杯にしていた。
警察学校という地獄の檻の中で、俺はついに「自分自身」という最大の敵に打ち勝ったのだ。
第九章 完
第十章に続く
日誌の一部公開



【著者メッセージ:第9章を書き終えて】
いつも『ケーガクッ!』をお読みいただき、ありがとうございます。
この第9章は、私がこの物語の中で最も書きたかった、自分の魂の根幹に関わるエピソードです。
私は昔から、社会の持つ「当たり前」と自分自身の感覚との間に、どうしても埋められない差異を感じて生きてきました。
社会人になってからはその違和感がさらに顕著になり、自分の信じる「正義」や「正解」には、世界は全く関心を持ってくれないのだと痛感する日々でした。
何を信じていいのか分からず、息が詰まるほど苦しかった。
だからこそ、「自分が世界に合わせるしかない」と、半分ヤケクソのような思いで自分自身を極限まで追い込んでいきました。
それは努力というよりも、絶望からの逃避だったのかもしれません。
しかし、心身が砕け散るギリギリの地獄の底で、私は仲間と出会いました。自分の弱さや不器用さを真っ向から受け入れてくれる存在に気づき、この理不尽な世界での「戦い方」を学び、乗り越えることができました。
結果として、私はその後、警察という組織を辞めて別の道を歩むことになりました。
それでも、あの極限状態の中で壊れかけ、誰かにすがり、己の弱さを認めて生まれ変わった経験は、今の私の人生の土台として確実に息づいています。
世の中は、自分の思い通りにいかないことばかりです。
かつての私と同じように、社会とのズレに苦しみ、息苦しさを抱えて一人で戦っている誰かにとって、この章が、ほんの少しでも光や支えになればと心から願っています。