
【ショートショート】冬の夜よ、青く染まれ —— 三題噺「終電を逃した水曜日」
三題噺として書いた短い小説です。
お題は伏せています。読み終わったあと、どの三つだったか考えてもらえたら嬉しいです。
パリン、と。音を立てて試験管が割れる。
舌打ちをして、ガラスゴミに放り込む。
視界の隅を掠めた長針が差す数字を見て、じわじわと焦りが増す。
あと5本、試薬を仕込んで待ち合わせ場所まで向かわなければならないのに。
12月某日。吹きすさぶビル風が、一段と冷たく肌を刺し始めた頃。
私は、修士論文の成果に追われていた。データが足りない。急いで実験を回して、打席数を増やさないと間に合わない。
ただ困ったことに、実験の仕込みが苦手なのだ。
試薬を完全密封するために、試験管をガスバーナーで炙る。
ピンセットでしっかり炙る位置を固定して、均一に熱を通すように回す。
段々オレンジに色づいた試験管を硝子細工のように、ぐねぐねと変形させるのだ。
私は不器用で、火が怖かった。
青く立ち上る炎に腰が引けて、そんな手つきでガスバーナーから逃げると、試験管は容易に割れる。
一度熱を通せば後戻りはできない。冷えて固まった歪みは、もう元の形には戻らない。
ただでさえ仕込みの数は多いのに、なんてったってこんな日に。
彼女から、急遽お呼びがかかって駅前まで行かなければならなくなった。
秋口に付き合い始めた。およそ3カ月になるだろうか。
カメラマンの見習いの女の子。仕事に一生懸命で、カラカラとよく笑う子だった。
勉強ばかりの私とは、光の当たり方がまるで違った。
相手は年末に向けての駆け込み需要で、繁忙期に入っていた。連絡は抑え目にしていたつもりだが、クリスマスも職場の打ち上げを優先された。
業界が業界だから分からんでもない。
それでも、そこまで仕事を優先するなら、なぜ私と付き合ったのだろうとは思ってしまう。
今日の呼び出しは、十中八九別れ話。
なんで水曜日に、しかもこの時期に。
思考が持っていかれそうになることに気づいて、必死に振り払う。どのみち結果は、この後出るのだ。
結局、追加で2本やってタイムリミット。ギリギリまで粘ったせいで、諸々実験器具の片付けができていない。
その日の物はその日のうちに洗う。研究室のルールだったが、やむを得ない。荷物をカバンに詰め込んで、部屋を飛び出す。
一瞬、後ろ髪を引かれて実験室に目を向ける。
洗いに溜まったガラス器具。「廃液」のカラーテープが貼られたままのビーカー。作業台に片方だけ落ちているアクリル手袋。
全部を振り払って。でもビーカーの壁面に付着していたリトマス試験紙が真っ青になっていたのが、頭から離れなかった。
息も絶え絶え、予定時刻に間に合った。
最悪が頭に掠めて、それでも場所に向かわなければいけない事実が、憂鬱さを加速させた。
久々の彼女は、少し遠い顔をしていた。仕事を取りに行くために、私の知らない場所まで踏み込んだようなような。そんな顔。
秋色のメッシュも冬仕様に変わっていて、マフラーを巻く彼女もまたよく似合っていた。
「ひさしぶり、仕事は順調?」
「かなり忙しいけど、なんとかやってるよ」
ぎこちない会話。微妙な間。
伝えようか伝えまいか、そんな様子を見て概ね察しはついた。
「…ごめん、別れよう」
分かっていた。分かっていたはずなのに、すぐには言葉が出なかった。
ふと、リトマス試験紙を思い出した。
私たちという関係の溶液はとうに液性が決まっていて、後は試験紙をそこに落とすだけだったのだろう。真っ青じゃなければなんて、思う。
結局のところお互いの向きがあっていなければ、終わりはいつか来るのだ。
それを言葉にして、表してしまえば、関係は終わりだ。
「…分かった、今までありがとう」
言いたいこと、伝えたいこと。頭からあふれんばかりの情報は、上手く言葉にならないから飲み込んだ。きっと意味もない。
さようなら、ありがとう。
その場を去る彼女を見送って、影が消えた頃その場にへたり込む。
まぁ、そういうもんだ。よくある話で、人生そんなもんだろ。
そう思おうとしても、身体はまったく納得していなかった。
クソみてぇな日だ。全部全部。
駅前、水曜日でも人の賑わいは変わりなく。
仲睦まじい男女の群れ。キラキラとライトが街を照らして、この時期だけ現れるクリスマスツリーが、特別感を醸し出している。
ああ、寒いな。人の熱ばかりあるのに、私の周りだけぽっかり空いていた。
色んな事がどうでもよくなってしまった。実験も恋愛も、どうでもいい。
ヤケクソになると気が大きくなって、普段めったに行かない立ち飲み屋にふらっと入った。
何を頼んだかは覚えていない。ただ、沢山飲んだことは覚えている。
しばらく一人で飲んでいると、隣にぬっと一人入ってきた。
同い年か、少し下ぐらいだろうか。若い女の子。
別段話すこともなく、沈黙が続いた。それを破ったのは相手の方だった。
「お兄さん飲みすぎじゃない、人生やけっぱち?」
「おうちょうどやけっぱちだ。ド平日に振られてお先真っ暗だよ」
雑に打ち返した会話から、少しずつラリーが伸び始める。
普段、こんなにべらべらと話すタイプではない。
ただ今日は妙に頭が火照って、誰が喋っているのか、自分でもよく分からなかった。熱が回るにつれて、舌だけが先に滑っていく。
それに呼応して相手も反応が良くなる。場があったまってきた。
こちらが少し踏み込むと、相手も少しだけ踏み返してくる。
クリスマスの話題には、当たり障りなく笑って答えた。スマホをしばしば確認しては、画面を伏せる。
冬の街。ライトの熱に当てられて、迷い込んだ者同士か。
「ねぇ、二軒目いかない?」
こちらから誘って、そのまま移動する。
ちょっとこじゃれたものが食べられる、ビール専門店へ移って、話に花を咲かせる。
相手の顔も心なしか蕩けてきているように感じる。本当にびっくりするぐらいよく回る口だ。誰の舌を引っこ抜いてきた。
硝子細工と男女の仲は、熱いうちにぐるりとねじれる。
グラスの底で、ビールがオレンジに揺れていた。
終電の時間はとっくに過ぎていて、場は温まり切っている。そのまま夜に消えていくのだろうかとふわふわした頭で考えた。
そろそろいい頃合いか、と思ったところで、相手が手を上げた。
「最後に1杯飲んでいい?一緒に飲もうよ!シャンディガフお願いしまーす!」
呆気に取られている間に2杯頼まれ、目の前にグラスが置かれる。
ビールは苦手だった。甘党だから。
でも好きになったきっかけは、シャンディガフだったことを思い出した。
元、になってしまった彼女と飲みに行った時に、ビールが苦手なことを伝えたら、教えてもらったシャンディガフ。
ビールとジンジャーエールを割ったそれは、適度に甘くて飲みやすくて美味しかった。私のお気に入りになった。
家で自家製のシャンディガフを作ろうとして、失敗した。相談してみたら、ビール側をちゃんと選ばないといけないらしい。
そういえば、色んなオシャレな所にご飯も食べに行ったな。
猫みたいな女の子で、気まぐれで色んなところに連れまわされて、でもそれも悪くなかった。
秋の間の想い出。短いけれど沢山の初めてを教えてくれて、私は何かあげられただろうか。
「…大丈夫?飲みすぎて具合悪い?」
顔を覗き込まれてハッとした。グラスは少し温くなっていて、自分の指先は驚くほど冷たかった。
「ごめんごめん、大丈夫。一応お水貰おうかな」
シャンディガフを飲み干して、水で胃を落ち着かせる。何とか立てそうだ。
お会計を済ませて、冬空の下に降り立つ。
相手は腕を絡ませて、次どうするといった顔でこちらを見ている。
私は —— ああ、そうだな。多分これじゃない。
相手の腕をそっと外すと、きょとんとしてこちらを見上げる。
「ごめん、明日朝早いんだ。またね。」
そのまま、相手を置いて歩き出す。少し間をおいて何か聞こえてきたが、遠のいて消えてしまった。
自宅まで歩いて2時間か。酔いを醒ますには充分だ。
大きく深呼吸をして、刺さるような空気を肺いっぱいに取り込んで、歩き始めた。
ぼやけた視界、足取りは悪いが決して崩れない。一歩一歩を踏みしめる。
「終電を逃した水曜日」、私は大人の階段を、下った。
答えはこちら。