
チベット仏教国のお茶を訪ねて<中国・西寧>
<中国・西寧>公主が越えた絶境、開祖が生まれた聖地
西寧に入ったのは元宵節(灯節)の時でした。中華文化圏では旧暦の一月一日が春節、十五日が元宵節にあたります。一月十五日の上元、七月十五日の中元、十月十五日の下元を合わせて三元日といい、道教的行事が行なわれます。上元を元宵節、灯節、小過年ともいい、灯籠を灯して新しい一年の万事如意を願いました。
タール寺を訪れた旧暦一月十五日は、その年お寺に飾られる新しい酥油花(バター彫刻)が選ばれるお祭りがちょうど行なわれていました。


タール寺は、青海省の省都である西寧市郊外に位置する宗喀蓮花の山中に建っています。チベット仏教の中でもダライラマを頂点とするゲルグ派(黄帽派)開祖のツォンカパ大師(1357~1419)が生誕した場所に創建された寺院です。蔵暦土羊(1379)年にツォンカパ大師の母親が建てたとされる蓮聚玉塔が最も早期の建築物で、蔵暦金猴(1560)年に現在の名前で呼ばれるようになりました。タール寺はチベット語でクンブムといい、十万仏という意味をもっています。

タール寺のお祭りに用いられる酥油花とはバター彫刻のことで、僧侶たちはバターを溶かさないよう冷たい水に手をひたしながら修行の一つとして作っていきます。芸術品ともいえるバター彫刻の歴史は古く、伝えられるところによると、641年に唐朝の文成公主が吐蕃王朝のソンツェンガンポに嫁いだ時の嫁入り道具の一つとして持ってきた仏像(十二歳の時のお釈迦様を模したもの)に、仏教信者が供えたバターに始まります。何日もかけて砂で描いた美しい曼荼羅を祈願が終わると壊してしまうのと同様に、その一瞬の美は無常であるという仏教の教えが表現されています。
この元宵節の日にタール寺を参拝すれば、新旧両年のバター彫刻を同時に見ることができます。前年のバター彫刻には文成公主が彫られていました。
チベットで喫茶習慣が養われたのは、文成公主がチベットに降嫁してからのことであるといわれています。嫁入り道具の中に灉湖含膏という名の湖南岳州のお茶が持ち込まれ、唐の喫茶法が広められました。西寧で現在でもよく飲まれているお茶は湖南省の磚茶(煉瓦形の固形茶)です。
チベットの歴史書『西蔵王統記』には、文成公主はチーズとバターを作り、バター茶で客をもてなしたとあります。お茶が肉類やバターの消化を助け、ビタミンを補充できることから、高地で牧畜業を生業とする吐蕃では喫茶習慣はまたたくまに全チベット地域に広がり、お茶はチベット族の生活必需品の一つとなりました。
チベット族居住地に運ばれるお茶は、辺茶(辺境地向けのお茶)、あるいは蔵茶(チベット向けのお茶)と呼ばれ、高原に住むチベット族にとって、食糧、水、火と同様に欠かすことのできないものになり、「三日間食糧がなくても、一日茶がなくてはやっていけない」とまでいわれるようになりました。
バターの塩味が効いたバター茶は、飲みなれないせいか個人的には好みではありませんでしたが、高山病気味の人がバター茶を飲んで具合が良くなったといっていたので、もしかすると高山地帯で飲むのに理にかなったお茶なのかもしれません。



唐代、吐蕃で喫茶が流行すると、チベット族の茶葉需要は増大し、茶馬貿易は促進していきました。軍隊の戦力や国防強化に極めて重要である名馬は、北部や西部、西南部の少数民族の地区が産しました。そのような背景から推進された茶馬交易とは、唐代以降の王朝がお茶や貨幣でもって辺境少数民族の馬を購入するという政策の一種でした。お茶の流通が国家税収に深くかかわるとともに、茶馬交易が国防上必要な馬を確保するために重要であることから、茶馬交易に影響しないよう唐宋元明清歴代すべての王朝が茶葉専売制度を行ないました。
唐代の書である『封氏見聞記』には、「茶は中原より始まり万里長城の外にも流れ、ウイグル族が来朝し、名馬を献上して茶を持って帰った」と記しています。軍馬の多くが辺境外域から購入されたことが、吐蕃の生活におけるお茶の影響力を強めていきました。
宋代初期の茶馬交易は少数民族が宋王朝に馬を献上し、その見返りにお茶を下賜されるという形がとられていました。朝廷は西部少数民族との友好関係を保つため使者を派遣して賜茶を行ない、少数民族も友好と臣服を表わすため馬を献上し、その価値と等しいお茶と貨幣を受け取りました。
こうして献馬は少数民族が中原に馬を売る代名詞になり、当初数年に一回だったものが、徐々に年に数回へと発展していき、茶馬交易は一種の辺境貿易制度として以後明代清代両王朝にも引き継がれました。唐代から始まった茶馬貿易は、チベットの生活にお茶をもたらしただけでなく、友好的往来によって経済や文化の交流を保ち続けたのです。



