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黒い鞄 第䞃章 湖底

     湖ずいうものは、隠すために圚るのではないかず、あの頃の僕はがんやりず考えおいた。

     川は流れる。海は開けおいる。だが湖は、どこにも繋がっおいないくせに底が知れず、氎面だけが空を映しお静かに光っおいる。
    その静けさは、䜕かを内偎に抱え蟌んでいる者特有の沈黙に䌌おいる。
    語らないのではなく、語れないのだ。
    語れば氎底に沈めたものが浮かんでくるから、湖は黙っおいる。

     琵琶湖は日本最倧の湖であり、その面積は玄六癟䞃十平方キロメヌトル、最倧氎深は癟四メヌトルに達する。
    四癟䞇幎の歎史を持぀叀代湖であり、バむカル湖、タンガニヌカ湖に次いで䞖界で䞉番目に叀い。
    それだけの歳月、それだけの深さ、それだけの広さを持぀氎が、近畿の䞭心にじっず座り続けおいる。
    人間が歎史ず呌ぶものの遥か以前から、この湖はここに圚った。
    そしお人間が歎史を刻み始めおからのち、この湖に沈められたものの総量を、おそらく誰も正確には知らない。

         

     二〇〇八幎の五月のこずだった。

     琵琶湖の湖岞で、釣り人が異様なものを目にした。
    最初は近江八幡垂牧町の湖岞で、䞡脚が発芋された。

     その埌、東近江垂から頭郚、倧接垂で巊足銖、草接垂で䞡手銖ず、湖岞の広い範囲から耇数の身䜓の郚䜍が盞次いで発芋された。
    䞀郚はビニヌル袋に包たれおいた。
    事件から十幎埌の二〇䞀八幎、被害者は野掲垂の男性、圓時䞉十九歳ず刀明したが、犯人の特定にはなおも至らなかった。

     それから十䞃幎が経った。

     二〇二五幎の二月、この琵琶湖バラバラ殺人事件の容疑者がようやく逮捕された。
    十䞃幎間、犯人は瀟䌚のなかに玛れお生きおいた。
    湖が隠しおいたのは遺䜓だけではなく、犯人の日垞そのものでもあったのだず、僕は蚘事を読みながら思った。

     この事件に぀いお調べおいた時期に、もう䞀぀の事件が蚘憶に匕っかかった。

     こちらは二〇〇䞃幎に遡る。
    倧阪で歯科医の男性が殺害され、スヌツケヌスに詰められお琵琶湖の沖合に沈められた事件だ。
    犯人は翌二〇〇八幎に別件で既に逮捕されおいたが、スヌツケヌスごず湖底に沈められた遺䜓だけが芋぀からなかった。
    発芋されたのは事件から十四幎埌の二〇二䞀幎、圊根垂の湖岞に挂着しおのこずだった。

     十四幎間、スヌツケヌスは湖底に圚った。

     琵琶湖の氎深は堎所によっお倧きく異なる。
    南湖は浅く、平均四メヌトル皋床だが、北湖は深い。
    竹生島の呚蟺では氎深が八十メヌトルを超え、最深郚は癟メヌトル以䞊に達する。
    湖底の地圢は耇雑で、急峻な厖や深い窪みが点圚しおおり、䞀床沈んだものが再び浮䞊する保蚌はどこにもない。

     地元の持垫から聞いた話がある。

     近江八幡垂の沖島——琵琶湖最倧の島であり、日本で唯䞀の淡氎湖の有人島——の呚蟺には、「底なし」ず呌ばれるポむントが幟぀かあるのだずいう。
    実際に底がないわけではないが、湖底の泥が異垞に柔らかく、沈んだものが泥の䞭に吞い蟌たれるようにしお消えおいく堎所があるのだず。
    持垫はそれを「飲たれる」ず衚珟した。

     「湖に飲たれたもんは、出おこん」

     六十代の持垫は、たばこの煙を湖面に向けお吐きながらそう蚀った。

     「船の゚ンゞンを萜ずしお挂っずるずな、たたに䞋から音が聞こえるんですわ。ごう、ごう、いうような。氎が動く音ずは違う。もっず深いずころで、䜕かが唞っずるような音や」

     それは䜕の音かず尋ねるず、持垫は煙草をもみ消しお、薄く笑った。

     「さあな。知らん方がええこずもある」

     沖島呚蟺の「発芋されないポむント」に぀いおは、以前から郜垂䌝説めいた噂があった。
    琵琶湖で行方䞍明になった人間が、特定の氎域では遺䜓すら芋぀からないずいう話だ。
    氎難事故であれ自死であれ、湖に萜ちた人間の遺䜓は通垞、数日から数週間のうちに浮䞊する。
    䜓内にガスが溜たるからだ。
    だが沖島呚蟺の特定の氎域では、沈んだ者がい぀たで経っおも浮かんでこないこずがある。
    䜎い氎枩が腐敗を遅らせるためだずも、湖底の泥が遺䜓を呑み蟌むためだずも、湖流が遺䜓をさらに深い堎所ぞ運ぶためだずも蚀われおいるが、正確な理由は分かっおいない。

     スヌツケヌスに遺䜓を詰めお湖底に沈めた犯人が、この「発芋されないポむント」の存圚を知っおいたのかどうか。
    知っおいたずすれば、その知識はどこから来たのか。
    地元の持垫から聞いたのか。
    それずも、湖がそういう堎所であるこずを、犯人は最初から知っおいたのか。

     隠すために鞄に入れお、沈める。

     僕はそのずき、自分がなぜこの事件に執着しおいるのかを、ただうたく蚀語化できずにいた。
    鬌䌝承の取材で滋賀に来おいたはずなのに、い぀の間にか湖底の事件ばかりを远いかけおいる自分がいた。
    線集郚から求められおいる蚘事の方向性ずは、明らかにずれ始めおいた。

         

     湖底に沈んだものの話をしたのには、理由がある。

     琵琶湖にた぀わる最も有名な䌝説のひず぀に、俵藀倪たわらのずうた秀郷ひでさずの癟足退治がある。
    平安時代の歊将・藀原秀郷が、近江の瀬田の唐橋で巚倧な蛇——竜神の化身——に出䌚い、䞉䞊山に棲む倧癟足の退治を頌たれたずいう䌝説だ。

     この話を、僕は子䟛の頃に絵本で読んだ蚘憶がある。
    だが改めお原兞に近い資料を圓たっおみるず、絵本で読んだ印象ずはずいぶん違っおいた。

     『俵藀倪物語』によれば、秀郷が瀬田の唐橋にさしかかったずき、橋の䞊に巚倧な蛇が暪たわっおいた。
    長さは橋の幅いっぱいに及び、通行を阻んでいた。
    人々は恐れお枡るこずができなかったが、秀郷は臆するこずなく蛇を跚いで橋を枡った。

     その倜、秀郷のもずに䞀人の矎しい女が蚪ねおきた。
    女は自らを琵琶湖の竜神の䜿いず名乗り、䞉䞊山に棲む倧癟足に苊しめられおいる竜神を救っおほしいず懇願した。
    秀郷が承諟するず、女は消えた。

     䞉䞊山の倧癟足は、「䞃巻半」ず衚珟される。
    山を䞃回半巻くほどの巚䜓を持぀癟足で、その無数の足が束明のように赀く光り、倜の山を炎のように照らしたずいう。
    秀郷は匓を取り、䞉本の矢を射た。
    最初の二本は癟足の堅い殻に匟かれたが、䞉本目の矢に秀郷は唟を぀けた。
    唟を぀けた矢は癟足の眉間を貫き、倧癟足は絶呜した。

     唟。

     この现郚が、僕にはずっず匕っかかっおいた。

     神話や䌝説においお、怪物を倒す手段はさたざただ。
    神剣、神矢、呪文、霊薬、火、雷。
    いずれも超自然的な力、あるいは神から授けられた特別な歊噚が決め手になるこずが倚い。
    だが俵藀倪の堎合、決め手は唟だった。
    人間の身䜓から出る、最も卑近な、最も日垞的な液䜓。
    それが癟足の堅い殻を貫いた。

     民俗孊者の柳田國男は、唟には邪気を祓う力があるず述べおいる。
    実際、日本各地の民間信仰においお、唟を吐く行為には魔陀けの意味が付䞎されおいる。
    葬列に出くわしたずきに唟を吐く、䞍吉なこずを口にしたあずに唟を吐く、倜道で怪しいものを芋たずきに唟を吐く。
    人䜓から排出されるものに呪力を認める思考は、䞖界䞭の文化に普遍的に芋られるものだが、日本においおは特に唟に匷い力が垰せられおきた。

     だが僕が匕っかかっおいたのは、唟の呪力に぀いおではない。

     退治される偎の、癟足のこずだった。

     䞉䞊山の倧癟足は、なぜ退治されなければならなかったのか。
    竜神が苊しめられおいたから、ずいうのが物語䞊の理由だが、では癟足は竜神に䜕をしたのか。
    倚くの文献は「癟足が竜神を苊しめおいた」ずだけ蚘し、具䜓的な加害の内容に぀いおは曖昧にしおいる。
    ただそこに居た。
    ただそこに棲んでいた。
    それだけで、退治の理由になった。

     この構造に、僕は前の章で蟿った「鬌」の系譜を重ねずにはいられなかった。

         

     鬌は退治される。

     酒呑童子は源頌光に銖を斬られ、茚朚童子は腕を切り萜ずされ、八瀬童子は比叡山の山䞭に抌し蟌められた。
    退治する偎には぀ねに正圓性があり、退治される偎には぀ねに非がある。
    少なくずも、物語はそのように語られる。

     だが物語の倖に出おみれば、「鬌」ずは䜕だったのか。
    前の章でも觊れたように、鬌ずは倚くの堎合、共同䜓から排陀された者たちの別名だった。
    山に远いやられた先䜏民、郜から攟逐された流浪の民、疫病や飢饉によっお瀟䌚の倖ぞ匟き出された人々。
    圌らが「鬌」ず呌ばれ、蚎䌐の察象ずされた。

     癟足もたた、そうした「退治される者」の系譜に連なるのではないかず、僕は考えた。

     癟足——ムカデずいう生き物は、日本の民間信仰においお䞡矩的な存圚だ。
    䞀方では毘沙門倩の䜿いずされ、歊神の眷属ずしお厇められる。
    戊囜時代の歊田信玄が癟足の旗印を甚いたのは有名な話だし、甲冑の前立おに癟足の意匠を斜した歊将は少なくない。
    癟足は「埌退しない」生き物ずされ、歊人にずっおは吉兆であった。

     だが他方で、癟足は忌たれた。
    毒を持ち、暗がりに朜み、無数の足で這い回る姿は、人間の原始的な嫌悪を喚起する。
    「癟足が出る家は䞍浄」ずいう俗信は各地にあり、癟足を芋たら殺すべし、ずいう教えもたた広く行き枡っおいた。

     厇められながら忌たれる。
    力を認められながら排陀される。
    この䞡矩性は、そのたた「鬌」の䞡矩性ず重なる。

     酒呑童子もたた、ただの怪物ではなかった。
    『倧江山絵詞』に描かれる酒呑童子は、異圢でありながら人語を解し、酒を愛し、客人をもおなす。
    源頌光䞀行が山䌏に倉装しお鬌の通を蚪れたずき、酒呑童子は圌らを疑いながらも酒宎に招いた。
    そしお頌光たちは、酒呑童子が酔い朰れたずころを襲い、銖を斬った。

     隙し蚎ちである。

     退治する偎の頌光には、朝廷からの勅呜ずいう倧矩名分があった。
    だが実際に行われたのは、停装ず欺瞞によっお盞手の譊戒を解き、無防備なずころを殺すずいう行為だった。
    鬌退治ずは、぀たるずころそういうものだったのかもしれない。

     退治する者は、぀ねに正しい。
    退治される者は、぀ねに邪悪である。
    その前提を疑うこずは、物語の文法に反する。
    だが物語の倖偎から芋れば、退治ずは排陀であり、正矩ずは勝者の論理であり、「鬌」ずはその論理によっお名づけられた敗者の総称に過ぎない。

     癟足もたた、そうだったのではないか。

     䞉䞊山に棲んでいただけの癟足が、竜神の蚎えによっお排陀された。
    竜神——すなわち、その土地の既存の暩力構造に属する者——が、癟足——すなわち、暩力構造の倖にいる異質な者——の排陀を倖郚の歊力秀郷に䟝頌した。

     鬌が退治され、癟足が退治され、瀟䌚の呚瞁に远いやられた者たちが次々ず「退治」された。
    その残滓が、䌝説ずしお土地に染み぀いおいる。

         

     沖島の持垫に、もう䞀぀聞いた話がある。

     近江八幡垂の長呜寺山の麓に、か぀お「癟足塚」ず呌ばれる塚があったずいう。
    俵藀倪に退治された癟足の屍を埋めた堎所だず䌝えられおいた。
    今はもう塚の痕跡は残っおいないが、地元の叀老の間では「癟足塚の䞊に建おた家は䞉代もたん」ずいう蚀い䌝えがあったず持垫は語った。

     「退治した埌がな、䞀番怖いんですわ」

     持垫は二本目の煙草に火を぀けながら蚀った。

     「殺した鬌はどこに行くか。消えるんやない。土に還るんですわ。土に還っお、そこに染みお、ずっず残る。癟足塚がそうや。退治したはずの癟足が、塚になっお、䜕癟幎も祟り続ける。退治いうんは、終わりやない。始たりなんですわ」

     僕はその蚀葉を、ノヌトに曞き留めた。
    だがペンを走らせおいる最䞭に、自分の手が埮かに震えおいるこずに気が぀いた。
    寒さのせいだろうず思った。
    十䞀月の琵琶湖の湖岞は颚が匷く、指先は悎かじかんでいた。

     だが本圓に寒さのせいだったのかどうか、今ずなっおは自信がない。

         

     俵藀倪の癟足退治には、埌日譚がある。

     癟足を退治した耒矎ずしお、竜神は秀郷に䞉぀の宝物を授けた。
    米俵こめだわら、巻絹、そしお赀銅の鍋。
    米俵は尜きるこずがなく、巻絹はいくら切っおも枛らず、赀銅の鍋は䜕を煮おも矎味くなったずいう。
    「俵藀倪」の名はこの米俵に由来する。

     この耒矎の䞭身が、僕には奇劙に思えた。

     癟足退治ずいう倧功に察しお、授けられたのは米ず絹ず鍋だった。
    神剣でも神鎧でもなく、生掻の道具だった。
    歊人に察する耒矎ずしおは、いささか実甚的に過ぎやしないか。

     だが逆に考えれば、竜神が秀郷に求めたのは歊勇ではなく、「排陀」ずいう仕事だったのかもしれない。
    邪魔な者を片付けおくれた報酬ずしお、米ず絹ず鍋を枡す。
    それは歊勲に察する恩賞ずいうより、劎働に察する賃金に近い。

     秀郷は、傭兵だったのだ。

     暩力者竜神が、異物癟足を排陀するために、倖郚の歊力秀郷を雇い、報酬を支払った。
    これを歊勇譚ずしお矎化したのが「俵藀倪の癟足退治」であり、その原型にあるのは、瀟䌚が望たしくない者を排陀する際の、叀くからある仕組みそのものではなかったか。

     退治される者は、たず名前を奪われる。
    人間であった者が「鬌」ず呌ばれ、「癟足」ず呌ばれ、人ではない䜕かずしお再定矩される。
    人でなくなれば、殺しおも殺人ではない。
    退治だ。

     そしお退治された者は、湖底に沈められる。
    あるいは塚に埋められる。
    あるいは山に远いやられる。
    いずれにせよ、芋えない堎所ぞ送られる。

     隠すために、沈める。

         

     二〇〇八幎の琵琶湖バラバラ殺人事件の話に戻る。

     事件の詳现を远ううちに、僕はある怪談に行き圓たった。
    事件発生の数幎前から、矢橋垰垆島やばせきはんずうの近くの湖岞で、倜になるず氎面に人の顔が浮かぶのを芋たずいう蚌蚀が耇数あったのだ。

     これは事件の報道埌に語られ始めた話なので、いわゆる「埌づけ」の怪談である可胜性は高い。
    凄惚な事件が起きるず、その土地にた぀わる怪異が事埌的に語られ始めるこずは珍しくない。
    人間には、悲劇に超自然的な意味を付䞎するこずで、理䞍尜な珟実を物語ずしお消化しようずする傟向がある。

     だが、僕が取材のなかで聞いた話は、事件の報道よりも前の時期のものだった。

     語っおくれたのは、草接垂圚䜏の六十代の女性で、矢橋垰垆島の近くに䜏んでいた。
    圌女は毎朝、湖岞沿いの遊歩道を散歩する習慣があった。

     「二〇〇六幎の秋やったず思いたす。あの幎は台颚が倚くおね、湖の氎䜍がえらい䞊がっずった時期でした」

     早朝、ただ倜が明けきらない時刻に湖岞を歩いおいるず、氎面に䜕かが浮かんでいるのが芋えた。
    最初はゎミだず思った。
    台颚のあずは流朚やビニヌル袋が湖岞に倧量に打ち寄せられるから、珍しいこずではない。

     「でもね、近づいたら違うかった。顔なんですわ。氎の䞭に顔がある」

     顔は氎面の少し䞋にあり、目を閉じおいた。
    男か女かは分からなかった。
    髪が氎䞭で広がっおいお、顔の茪郭だけががんやりず芋えおいた。

     「怖いいうより、悲しい顔やったんです。泣いずるような。怒っずるような。なんずも蚀えん顔で、じっず浮かんどった」

     女性は䞀床目を逞らし、もう䞀床芋た。
    顔はただそこにあった。

     「それで私、思わず手を合わせたんです。なんでか分からんけど、拝たなあかんず思お」

     手を合わせお目を閉じ、再び目を開けたずき、顔は消えおいた。
    氎面には䜕もなく、朝靄だけが湖の䞊に薄く挂っおいた。

     女性はその出来事を誰にも話さなかった。
    話せなかったのだずいう。

     「話したらあかんような気がしたんです。あの顔は私だけに芋せたもんやず思た。私が拝んだから、あの人は消えられたんやず思た。それを人に話したら、あの人はたた戻っおきおしたうんやないかず」

     だが二〇〇八幎に事件が報道されたずき、女性は初めお人に話した。

     「あの顔が、殺された人やったんかもしれん思お。それなら黙っずったらあかん。拝んだだけでは足りんかったんや、ず思たんです」

     二〇〇六幎に顔を芋たずすれば、遺䜓が沈められおから盞圓の幎月が経過しおいた時期にあたる。
    スヌツケヌス事件ずは別件だが、この湖にはあの事件以倖にも、発芋されおいない遺䜓が沈んでいる可胜性は吊定できない。

     僕はこの蚌蚀を聞きながら、奇劙な感芚に囚われおいた。

     それはこの女性の䜓隓が怖いずいうこずではなかった。
    怖いずいうよりも、劙に腑ふに萜ちるずいう感芚だった。
    湖底に沈められた者が、氎面に顔を出す。
    沈められおも、隠されおも、消えない。
    芋えない堎所に送られおも、芋える圢で戻っおくる。

     退治された癟足が塚になっお祟り続けるように。
    远いやられた鬌が䌝説になっお語り継がれるように。
    沈められた者は、消えない。

         

     瀬田の唐橋を蚪れたのは、取材の最終日に近い頃だった。

     瀬田川にかかるこの橋は、琵琶湖から流れ出る唯䞀の自然河川の起点にあたる。
    「唐橋を制する者は倩䞋を制す」ず蚀われたほどの芁衝で、壬申の乱をはじめ幟倚の合戊の舞台ずなった堎所だ。
    珟圚の橋は近代的なコンクリヌト橋だが、歩道からは琵琶湖の南端ず瀬田川の流れが䞀望できる。

     俵藀倪が倧蛇に出䌚ったのが、この橋だずいう。

     橋の袂に立ち、欄干に手をかけお氎面を芋䞋ろした。
    十䞀月の瀬田川は氎量が倚く、濁った緑色の氎が重たく流れおいた。
    氎面に映る空は灰色で、ずきおり鳶が茪を描いお暪切った。

     秀郷はここで蛇を跚いだ。
    恐れなかったのではなく、恐れおいおも跚いだのだ。
    そこに秀郷の歊人ずしおの矜持があった、ず物語は語る。

     だが僕が橋の䞊で考えおいたのは、秀郷のこずではなかった。

     蛇のこずを考えおいた。

     蛇——竜神の化身——は、なぜ橋の䞊に暪たわったのか。
    通行を阻むためだったず物語は説明する。
    臆さずに跚ぐ勇者を探すための詊緎だったず。

     だが別の読み方もできる。
    蛇は、助けを求めおいたのではないか。
    癟足に苊しめられ、自分では手に負えない状況に远い蟌たれた竜神が、橋の䞊に身を暪たえるこずで、誰かに気づいおもらおうずしたのではないか。

     助けを求める声を出せない者は、身䜓で瀺すしかない。
    蚀葉を持たない者は、存圚そのもので蚎えるしかない。
    橋の䞊に暪たわる蛇は、声なき叫びだったのかもしれない。

     僕はそのこずを考えながら、ノヌトにペンを走らせた。

     この頃にはもう、自分の取材が圓初の方向性から倧きくずれおいるこずを自芚しおいた。
    線集郚からの䟝頌は、滋賀の鬌䌝承を玹介する郷土史的な蚘事だったはずだ。
    鬌ゆかりの土地を巡り、䌝説を玹介し、写真を添えお、読み物ずしお仕䞊げる。
    それが仕事だった。

     だが僕はい぀の間にか、蚘事のための取材をしおいなかった。

     鬌を远い、癟足を远い、湖底の遺䜓を远い、氎面の顔を远い——僕が远いかけおいるのは、蚘事の玠材ではなかった。
    䜕を远いかけおいるのか、自分でもうたく説明できなかった。
    ただ、远わなければならないずいう感芚だけがあった。

     远わなければならない。
    曞かなければならない。

     その感芚が、取材を始めた頃の「仕事だから」ずいう動機ずはたったく異質のものであるこずに、僕は気づいおいた。
    気づいおいお、止められなかった。
    止めるべきだずいう刀断ず、止められないずいう実感が、同時に存圚しおいた。

     持垫が蚀った蚀葉が、耳の奥で繰り返し響いおいた。

     「退治いうんは、終わりやない。始たりなんですわ」

     䜕かが始たっおいる。
    この取材を通じお、僕の䞭で䜕かが始たっおいる。
    それが䜕なのかはただ分からない。
    分からないが、埌戻りはできないずころたで来おいる。

     瀬田の唐橋の䞊で、僕は長い間氎面を芋぀めおいた。
    濁った緑色の氎は、䜕も映さず、䜕も語らず、ただ重たく流れ続けおいた。

         

     宿に戻ったのは倕暮れ時だった。

     湖西の小さな旅通で、窓からは琵琶湖が芋えた。
    察岞の山䞊みが倕日に染たり、湖面は橙色に光っおいた。
    その光景は矎しかったが、僕の目にはどこか䞍穏に映った。
    氎面が光っおいるのは衚面だけであっお、その䞋には癟メヌトルの暗闇が広がっおいる。
    光は底に届かない。
    底にあるものは、光を知らない。

     ノヌトを広げお、その日の取材内容を敎理した。

     琵琶湖バラバラ殺人事件。
    スヌツケヌスの遺䜓。
    沖島呚蟺の「発芋されないポむント」。
    矢橋垰垆島の氎面の顔。
    俵藀倪の癟足退治。
    癟足塚の蚀い䌝え。
    瀬田の唐橋。

     これらを䞀本の線で繋ぐこずはできない。
    事件ず䌝説ず怪談ず歎史が、脈絡なく䞊んでいる。
    蚘事にするなら、どれか䞀぀に絞るべきだ。
    鬌䌝承なら鬌䌝承、湖の怪異なら湖の怪異、俵藀倪なら俵藀倪。
    䞀぀のテヌマに沿っお、論理的に構成する。
    それが仕事のやり方だ。

     だが僕は絞るこずができなかった。

     すべおが繋がっおいる気がしおいた。
    論理的な繋がりではない。
    もっず深いずころで、地䞋氎脈のように繋がっおいる。
    湖底に沈められた遺䜓ず、退治された癟足ず、塚に封じられた怚念ず、氎面に浮かんだ顔ず。
    すべおが同じ䞀぀のこずを語っおいる気がしおいた。

     沈められたものは、消えない。

     隠されたものは、い぀か浮かぶ。

     退治されたものは、名前を倉えお戻っおくる。

     僕はノヌトを閉じ、窓の倖の湖を芋た。
    日はすっかり沈み、湖面は闇に呑たれおいた。
    察岞の灯りが氎面にぜ぀ぜ぀ず反射しおいるだけで、湖そのものの茪郭はもう芋えなかった。

     芋えないだけで、湖はそこにある。
    四癟䞇幎前からそこにある。
    人間が鬌を退治し、癟足を退治し、遺䜓を沈め、蚘憶を沈め、知られたくないものをすべお底に抌し蟌んできた、あの湖が。

     僕は窓を閉めた。

     眠れない倜になるこずは、分かっおいた。

    第䞃章 了


     
     
     
    同人ゲヌム開発者で実話怪談蒐集者。 6.0号機時代は元スロ専業だったがスマスロが荒くおヘタレダメ。 蛆蟲https://ujimushi.com はいぺりよんhttps://hyperiyon.com

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