
再び、承認欲求を考える ― しょーもない承認の構造的な理由
以前、承認欲求と「しょーもない承認」について記事を書いた。
今日はその記事の訂正と、アップデートをしたい。
訂正、と聞くと「前の内容が間違いだった」と聞こえるかもしれないが、結論は変わっていない。
むしろ、根拠が強くなった。
マズローの欲求五段階説について、訂正したいこと
前の記事では、マズローの欲求五段階説を根拠として使った。
「承認欲求が満たされないと自己実現に進めない」という、あの段階的な構造の話だ。
ただ、これには留保が必要だった。
マズローの理論は現代の心理学では実証的な裏づけが乏しいとされており、特に「段階を順番に登る」という部分は否定されている。
実際には複数の欲求が同時に動くし、順序も人によってバラバラだ。
私はその点を確認せずに引用した。
承認欲求そのものを否定することの問題、という主張の根拠にマズローを使ったが、その根拠が揺らいでいる以上、正直に言っておく必要がある。
では、前記事の主張も崩れるのかといえば、崩れない。
根拠を乗り換えれば済む話だった。
代わりに使う理論:自己決定理論
心理学者のDeciとRyanが構築した自己決定理論(SDT)は、現在も実証研究が積み重なっている現役の理論だ。
SDTでは、人間には3つの基本的心理欲求があるとされている。
有能感(competence):自分がうまくできているという感覚
自律性(autonomy):自分の意志で行動しているという感覚
関係性(relatedness):他者とつながっている、認められているという感覚
マズローの「段階を登る」という構造とは違い、この3つは並列だ。
どれが欠けても機能不全になる。
そして、「段階の順番」という実証困難な前提を持たない分、根拠として堅い。
承認欲求の核にあるのは、この「関係性」欲求だ。
他者とつながりたい、認められたいという感覚は、人間の基本装備として位置づけられている。
だから承認欲求を持つこと自体は、病理でも弱さでもない。
この点で、前記事の主張は変わらず正しい。
SDTで見ると、「しょーもなさ」の解像度が上がった
前の記事で私は、顔写真投稿を批判する投稿を「しょーもない」と言った。
その「しょーもなさ」は直感だったが、SDTの枠組みで見るとそれが構造の話だったとわかる。
自分が作ったもの——顔写真でも、文章でも、作品でも——を投稿してリアクションを得る場合、3つの欲求が揃いやすい。
自分の意志で作り(自律性)、それが評価され(有能感)、反応をくれる人とつながる(関係性)。
一方、否定・批判投稿はどうか。
自律性:自分の意志に見えるが、「みんなが嫌っていそうなもの」に乗っかっているだけなので、実態は他者依存だ。
有能感:自分のスキルではなく、他者の粗探しで得ている。有能感の満たし方として歪んでいる。
関係性:共感の連帯ではあるが、「一緒に誰かを下げる」という形のつながりだ。
つまり否定投稿は、3つの欲求を歪んだ形でしか満たせていない。
「しょーもない」というのは感情的な言葉だが、その正体は「欲求の満たし方が構造的に歪んでいる」ということだった。
量の問題ではなく、設計の問題だ。
訂正しても、結論は強くなった
整理すると、こういうことだ。
承認欲求は人間の基本的なニーズであり、持つこと自体は問題ではない。
問題は、どんな構造でそれを満たすかだ。
自律的に作ったものを投稿して得られる承認は、有能感・自律性・関係性の3つを健全な形で満たす。
前記事で「努力や創意工夫によって生まれる承認は自分の中に確かな達成感を残す」と書いたのは、このことだった。
一方、否定・批判投稿による承認は、3つの欲求を歪んだ形でしか満たせない。
自律性は他者依存にすり替わり、有能感は粗探しで代替され、関係性は誰かを下げることで成立する。
「一瞬で消費され、後には何も残らない」のはそういう構造だからだ。
前記事の直感は正しかった。
マズローが崩れても、その結論は崩れなかった。
根拠を更新することは、主張を捨てることではない。
より正確に、より堅く立て直すことだ。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
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