
えび天と困難と障害と
天ぷらは油から取り出されるときに「カラッ」という音を出すらしい、4歳か5歳のころ読んだ絵本によって私はそのことを知った。主人公のおばあちゃんが持つ長い菜箸の先には、きつね色の衣をつけたえびが挟まれていて、その右上に「カラッ」の文字があったことを今でもよく覚えている。

ベーコンを焼く時には「ジュー」という音が鳴ることを、ドアを閉める時には「バタン」という音が立つことを、花火が打ち上がる時は「ヒューードーン」という音が響くことを、私は知っている。本が、テレビが、大人が、それを私に教えてくれてきた。物が動く時には、基本的に音が発生する。するらしい。
それは当たり前のことで、頭で考えるまでもなく理解できうる概念で、お肉を焼いてるときに音が鳴るのなんて当然のことでしょと、多くの人は思っていると思う。そこには「音が聞こえる」という前提がある。
生活は音で溢れていて、図書館の中は約40db、人間の会話は約60dB、電車内は約80db、車のクラクションだと約110db以上の音が出ている。人が一般的にうるさいと思う音の大きさは60dB以上だそうだ(それでいうと人間同士の会話は基本的にうるさいものであるらしい、おもしろい)
聞こえる、というのはどんな状態を指すのか。聞こえなさを基準にするとわかりやすい。難聴の程度は聞こえる最も小さい音の大きさ(dB)によって分類されていて、一般的には0〜25dBが正常と言われる。25db以下の音が鳴ったときその音を感知できたら正常、と言うとわかりやすい。数値が大きくなるほど難聴の程度が重くなる。国や地域によって基準の微妙な差異はあれど、だいたいは軽度/中度/高度/重度難聴と分けられていて、ほとんどの分類で重度難聴は90dB以上を指す。私はこれ。
生まれつき音を聞き取ることが難しかった。言葉を習得するまではかろうじて聴力が残っていたようで、発音はかなり明瞭にできる。数々の訓練に通ったこともあり、口や舌の動きを見れば人がなにを言っているかもほとんどわかる。鍵盤に指を落とせば正しい音を鳴らしてくれるから、という理由で始めたピアノも大好きで、音の強弱は指から伝わる振動や鍵盤の抵抗で感じ取ることができて楽しい。便利な時代に生まれた恩恵を受けまくり、文字起こし、字幕を駆使すればどんなコミュニケーションも容易にできた。振動式の目覚まし、フラッシュライトで知らせてくれるインターホン、筆談、手話、あらゆる方法があって、生活における困難さを感じたことは正直あまりない。ただ、本当の、ありのままの音がどんなものであるかは忘れてしまって、それだけがほんの少し悔しい。
補聴器や人工内耳があれば聞こえるんでしょ、とよく言われる。たしかに、それらを使うことで救急車のサイレン、車のクラクション、なにかの衝撃音は「なんか音がしたな」程度にはわかる。これだけでも本当にありがたいことで、身の安全のために欠かせない。ただ、音の高さ低さ、音の鳴っている方向、人の(声の)判別、はあまりわからない。補聴器の設定音量をマックスにしたところで、騒音というかもやもやした音に包まれるだけ。テレビの音小さくて聞こえづらい→リモコンで音量上げたら解決♩のように、そう単純なものでもない。重度難聴者に対して「補聴器あれば聞こえるよね」と言うことは、骨折している人に「松葉杖あるから走れるよね」と言うのと同じようなものだ。
聞こえない、というハンデは、目に見えない。ただでさえ髪で補聴器は隠れてしまうのに、ワイヤレスイヤホンの普及によって耳になにかつけていることが珍しくなくなくなって、補聴器を着けていても「イヤホンか」と思われることも多い。話しかけたのに無視された、呼んだのに来なかった、さっき言ったのに、と、いったい今まで何度眉をひそめられてきただろう。その度にすみませんと謝ってきた。だいたいの人は聞こえないことを言うとああそうなのねと理解してくれはしたが、時にははっきりと「補聴器してるんだから聞こえるだろう」とか、「もっとちゃんと聞きなさい」とか言われることもあった。ちゃんと聞く、という言葉は、私が怠惰であるかのようなニュアンスを漂わせる。私だって努力して聞こえるようになるのならいくらでも頑張るよ、頑張るのに、と思いつつ、それを説明する勇気もなくて、悲しい気持ちを飲み込んだ日が何度もあった。
話に雲がかかってきたので、気持ちをカラッとさせるべく唐突にえび天の話をしたい。私はえび天のことが大好きだ。すべての天ぷらのなかで、というか、揚げる食べもののなかで、群を抜いてえび天が好きだ。黄色い衣に赤いしっぽ、ぽってりした丸み、ぷりっとした食感、うどんやそばの汁をやさしく吸ってしゅわ感の増した後半の姿もまたよい。味はもちろん、見た目も、香りも、小さい頃からそのすべてを好いている。聞こえづらいことで悲しい思いをすることが増えた大学生のころ、バイト帰りにスーパーでえび天を買って帰ることもたくさんあった。えび天から元気をもらってきた。
私は生粋のオタク気質なので、好きなものに対してはそのすべてを知りたくなる。えび天の作り方やおいしいお店はもちろん、味覚と視覚、たくさん作ってきたから触覚についてまで完璧に知っているつもりだ。あとは聴覚、音を知ればもっともっとえび天の真髄に近づけるんだろうなと憧れている。

料理には、音がある。切る、焼く、煮る、蒸す、揚げる、それぞれの工程に音があることは、文字を思い浮かべれば私にも理解できた。えび天は揚げる料理であるから、衣をつけたエビを油に落とすときにはシューとかジューとかジュワとかの音が鳴り、食べるときにはサクッとかシャクッとかの音が鳴っている(と思う)、そして揚げたそのときには「カラッ」と鳴る、と信じている。実は「カラッと鳴ってるわけじゃないよ」と言われたことが何度かあり、そうなんだと頭ではわかってはいるのだけれども、それでもなんとなく「カラッ」の音を信じたい自分がいる。すべての天ぷらはカラッと揚がっていてほしい、とりわけえび天はカラッと揚がれば揚がるほど、しっぽがきれいに赤くなって、衣がきっちり黄金色になって、ぷりぷりの身とのコントラストがすばらしくなる。
味良し、見た目良し、ときたら、あとは音さえあれば完璧だ。えび天が油から取り出されたときの音は、ピカッでもなく、キラッでもなく、ほかならぬ「カラっ」であるといい。音であれ。
えび天を揚げる音も、大好きなあの人の声も、歌詞がすてきなあの曲のメロディーも、私は本物の音として聞くことはできないのかもしれない。それは「どうせ私には聞こえないし」の諦めというより「まあそういうこともあるよね♩」の受け容れである。誰も悪くない、ただ音の遠い世界に生まれたというだけだ。慣れて、受け止めて、受け容れていけば、どんな自分でも生きていける。生きていていい。
私が聞こえづらくあるように、見えづらい、歩きづらい、話しづらい、食べづらい、あらゆる困難を抱えながら暮らしている人たちが社会にはたくさんいる。目に見える困難、美しい困難、言いやすい困難もあれば、美しくなく、人に言えず、ともすれば大したことないでしょうと思われてしまう困難もある。大好きなえび天が揚がる音を聞きたいのに聞こえない、という私の困難も、自分で言っておきながらしょうもないなと思うけれど、等しく価値ある困難だ。
人の抱える困難に気づくことは難しい。困難に気づいて、配慮したり想像したりすることはもっと難しい。みんな自分の人生をどうにかするので精一杯だから、それでいいのだと思う。ただ、聞こえないという困りを抱えながらも、なんてことのない顔をしてえび天を食べている人がいることを、えび天の揚がる音を聞きたいと願いながら生きている人がいることを、少しでも知ってくれたら私は嬉しい。
誰だってなにかしらに困っている。障害と表現すると堅苦しいけれど、大なり小なりあらゆるバリアと戦う場面が誰にでも必ず起こる。困りながら生きる日々が少しでもつらくないように、どうかよく寝てよく食べていてほしい。困ったなあとつぶやきながら、どうかその手にはツナマヨおにぎりを持っていてほしい。困るなあと呆れながら、その頭の片隅には焼きたての餃子を浮かべていてほしい。好きな食べものの存在が、きっとちいさく私たちを救っていきます。
これからもえび天のことを好きでいたい、美しい音で鳴っているであろうそれは、私をカラッと元気にしてくれる。
瀬戸水葉
めちゃくちゃどうでもいい追記↓
私ってほんとえび好きらしく、忘れてたけどずいぶん前にもえびの記事書いてました(^-^)えびはすてき
おいしいえび、えび系お菓子情報はいつでも募集中です🦐