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感情を捨てることで、何かを守っていないか?

    冴月練

    ――「感情を見せない強さ」は、本当に“強さ”なのか

    本noteはシリーズ『怒りから始める哲学エッセイ』の第7弾です。本作から読み始めても問題ありません。

    Vol.1 “安くて便利”の時代に人間だけが安売りされる理由
    Vol.2 “空気”が民主主義を殺した日
    Vol.3 怒ることが、なぜこんなにも怖いのか?
    Vol.4 「頑張れば報われる」は誰のための言葉か?
    Vol.5 その光は誰を照らし、誰を見えなくしているのか?
    Vol.6 私は誰かの怒りを、笑っていなかったか?
    Vol.7 感情を捨てることで、何かを守っていないか?
    Vol.8 なぜ私たちは、“普通”に苦しめられるのか?
    Vol.9 沈黙に加担しないために - 怒りを手放さずに生きる術


    序章:最後に泣いたのは


    子どもの頃はよく泣いた。
    癇癪もよく起こした。

    それがいつからだろう?
    あまり激しい感情を表に出さなくなった。
    泣くことは、ほとんど無くなった。


    最後に泣いたのは、約10年前。
    長い付き合いの友人が死んだとき。
    自分があんなに泣くなんて思ってなかった。

    たぶんあの時、私の精神はピンチだったのだろう。
    涙を流すという身体現象が必要だった。そうして体内にあるストレス物質を外に出す必要があった。

    夜の川辺で、涙と鼻水と嗚咽が止まらなかった。
    その一方で、「今、職務質問されたら、何も答えられないな」などと冷静に考えていた。


    この辺の詳しい話は、気が向いたらいつか書こうと思う。

    私が友人の死をどう受け止めたのか。
    それは、他の誰かの役に立つかもしれないから。



    第1章:「感情を見せない人」が評価される社会


    学校や職場では、「感情に左右されない人」が大人とされる。
    泣かず、怒らず、冷静に振る舞うことが、成熟の証とされてきた。
    だがそれは、本当に強さなのだろうか?


    感情を殺すことで、周囲との摩擦を避ける。
    「余計な波風を立てない人」が、優秀だとされる。


    しかしその“優秀さ”は、他者への過剰な配慮や、自分自身の抑圧と引き換えではないか?
    評価される「強さ」とは、本当は「我慢」や「自己犠牲」にすぎないかもしれない。



    第2章:無感情というサバイバル戦略


    感情を見せることが「面倒」だと思われる空気の中で、人は次第に、自分の感情すら感じにくくなっていく。


    泣かない、怒らない、疲れたと言わない。

    それは、自分を守るためのサバイバルだった。


    だが、感情を押し殺すことが常態化すれば、本当の自分がわからなくなる。
    それは“適応”ではなく、“麻痺”なのではないか?


    無感情でいることで、確かに何かは守られる。
    でも、その代償として、私たちは「自分の声」を失ってはいないだろうか?



    第3章:「強さ」とは、感情を隠すことなのか?


    「泣いたら負け」「怒ったら未熟」
    そんなメッセージが、文化や教育の中に刻まれている。


    だが本当に、「感情を出すこと」は弱さなのだろうか?


    感情を表現することは、恐れや恥を伴う。
    だからこそ、それは「勇気」だ。
    感情を表に出せる人は、実は、自分の内面と向き合う力がある人でもある。


    「感情を抑える強さ」だけではなく、「感情を引き受ける強さ」こそが、これからの時代に必要とされるのではないか?


    もちろん、むやみやたらに怒りを発するのはリスキーだ。
    アンガーマネジメント、アサーション。そういったテクニックを用い、感情的にならずに怒りを表現する術を身につけることは大切だ。



    第4章:感情を取り戻すということ


    失われた感情は、どこにあるのだろう?

    ふとした瞬間にこみ上げる涙、
    忘れたいのにこみ上げてくる怒り、
    誰かと一緒にいるのに感じる孤独――

    それらは、まだ私たちの中に生きている感情の残滓だ。


    感情を表現する場がないと、人は自分の感情の“意味”さえ見失ってしまう。
    気づかないうちに心が摩耗していく。次第に生命力が弱まっていく。


    だからこそ、まずは「感じていい」と思える場をつくること。
    それが、「自分を取り戻す」第一歩になる。


    感情は、迷惑でも、弱さでもない。
    生きている証そのものだ。


    まずは、泣ける映画、小説、アニメなどを見るのが良いのではないだろうか。
    ネットで調べれば、たくさん紹介されている。
    心の底から笑える作品も良いと思う。



    結び:守ってきたもの、失ったもの


    感情を抑えることで、私たちは何かを守ってきた。
    空気を壊さず、人間関係を円滑にし、社会に適応する。


    でも同時に、私たちは何かを失ってきたのではないか。


    怒りを見ないふりをし、
    悲しみを「たいしたことない」と片づけ、
    心の声を置き去りにしてきた。


    表面的にはそれで社会に適応できていたかもしれない。
    だけど、人の心も身体もそんなに強くない。
    限界は突然訪れる。体が動かなくなる。心身に異常をきたす。


    破壊は突然訪れる。あっという間にそれまでの当たり前が失われる。
    そして、失われた当たり前を取り戻すには、膨大な時間と労力を必要とする。


    では、心身を壊してまで適応が必要な社会とは何だろうか?
    心身を削らなければ適応できない社会は、その構造自体がおかしいのでは?
    世界にはいろいろな社会構造がある。この日本社会は、最適解と言えるだろうか?


    もう一度、問い直したい。

    「感情を捨てることで、守ってきたものは何か?」
    「それは本当に、守るべきものだったのか?」


    感情を引き受けることは、弱さではない。
    それは、自分を取り戻すための勇気だ。


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    社会への違和感と好奇心を種にエッセイ、小説、詩を書いてます。 路傍の哲学エッセイスト。 【小説】 ライト文芸を中心に書いています。 軽やかな掛け合いの中に、ちょっと考えさせられるテーマを忍ばせるのが好きです。 短編を積み重ねながら、物語世界を広げていきたいです。

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