
理解されたいのではなく
私は長い間、人とうまく関われませんでした。
正確には、関われなかったというより、
どこかで違和感を抱えていました。
人は誰かを理解しようとします。
それは自然なことです。
むしろ大切なことです。
けれど私は、ときどき思います。
本当に人は、相手を理解しているのでしょうか。
人は理解しようとするとき、
無意識に言葉を与えます。
繊細な人。
真面目な人。
変わった人。
発達特性のある人。
哲学的な人。
感受性が強い人。
それらは間違いではありません。
一部は確かに当たっています。
けれど私は、どこかで息苦しさを感じていました。
なぜなら、その瞬間に何かが閉じてしまうからです。
「ああ、つまりこういう人ね」
その言葉が置かれた瞬間、
相手の中にある私の輪郭が固定される。
そして、そこからこぼれ落ちるものがある。
私は理解されることが嫌だったわけではありません。
むしろ理解されたいと思っていました。
けれど、
理解の名のもとに回収されることが苦しかった。
私が見ている世界。
私が感じていること。
私自身もまだ言葉にならない部分。
そうしたものが、
ひとつの説明の中へ収められてしまう。
それは安心を生むのかもしれません。
けれど同時に、
関係の終わりでもあるように感じていました。
私はずっと、
「同じであること」を求めていたわけではなかったのだと思います。
同じものを見なくてもいい。
同じ感覚を持たなくてもいい。
同じ結論に辿り着かなくてもいい。
ただ、
相手が見ている世界を消さないこと。
私を理解できる形へ変換しないこと。
そして私もまた、
相手を自分の理解の中へ閉じ込めないこと。
そんな関係を求めていたのかもしれません。
相手を理解していないわけではありません。
けれど理解によって閉じてもいない。
ただ、
そこにそう在ることを見ている。
私は最近、
共感や受容よりも、
そちらの方に惹かれています。
違うままでいること。
分離したままでいること。
それでも、
同じ場所にいること。
もしかすると私が探していたのは、
理解ではなく、
そういう接続だったのかもしれません。