
私のガードは常に上がっている。
梅雨の憂鬱。朝目覚めても分厚い雲が太陽を無力化し、窓の外はすでに1日の終わりがけのような光のなさ。体のスイッチはオンとならず、半分寝たような状態で稼働しなければならない。
日曜日。いつもなら遅くても7時ごろには目を覚まし朝食を作り始めるところ、目を開けてはスマホを見てまた寝、スマホを見てまた寝を繰り返し、空腹の限界がきた10 時にやっとベッドから這い出た次第。娘たちと遅い朝食を食べ、一通りの家事を済ませて12時ちょい過ぎ。再びベッドにドボーン。西加奈子の『さくら』を読みながら、また小一時間うとうとしてしまった。
ダルい、眠い、つらい、頭痛い、鬱っぽい。Xでもそんな呟きが目立つ。みんなこの陰鬱なお天気のせいだ。そのせいにしてしまえ。自律神経が乱れているのだ。いつも通りになどむずかしい。しかし、来週は原稿の締め切りが数本ある。エンドレスにソファやベッドが誘惑する自宅でのデスクワークは憂鬱が増す。自律神経を少しでも整え、乗り切らねば。
ここ数週間、自律神経と万年の肩こり解消のために娘たちと一緒に実践しているのが銭湯通い。中目黒、池尻、蒲田、品川、二子玉川など車で10-20分ぐらいの距離にある銭湯を見繕い、レッツゴー銭湯。新しい楽しみで、梅雨の鬱陶しさを追い払おうという目論見もある。
昨夜。整いの時間である銭湯のはずが、自律神経を逆撫でするような事件が起こった。なんと、女湯の脱衣所におじさんが入ってきたのだ。私と娘はすでにあがって着替えを済ませ、帰り支度をしていた。後ろから娘の「え?」という不安そうな声が聞こえたので振り向いてみると、背の高い50代後半から60代前半と思われるおじさんがロッカーに荷物を入れているところだった。かなりの非常事態ではあるが、おじさんのあまりに自然な立ち居振る舞いに「キャー」とは叫べず。動揺の、頼りない「えー」がかろうじて口から漏れた程度。どちらかというと目の前にいるまだおじさんの存在に気づいていない女性たちの裸の後ろ姿を両手で隠すことに必死だった。おじさんは「あっ」と慌てて脱衣所を出て行った。
「ありえない!」と脱衣所の皆でその衝撃を共有しようと思ったとき、なんとおじさん再び登場。ロッカーに入れた荷物を取りに来たらしいが、荷物を取ったあとに脱衣所を見渡すように立ち「すいませんでした」と数秒ステイ。私は先ほどよりボリュームを上げた「えー!!」をかまし、おじさんを追い出した。
おじさんに裸を見られた女性はふたり。傷ついたのではないかと「大丈夫ですか?」と声をかけると彼女たちは「きっと間違えただけだと思うので」と寛容。彼女たちがそういうならと、大事にはせず私たちは銭湯を後にした。
しかし、しかし。運転しながらモヤる。2度目のおじさん登場、脱衣所を見渡すように立っていたあの行為は何だったのか。女湯の脱衣所に間違えて入って荷物を忘れて飛び出した場合、普通なら自分でとりには行かず、事情を話し番頭などにお願いして荷物を引き上げるべきではないか。その判断ができないくらいテンパっていた? 見渡す行為は「とんでもないことをしてしまった」という誠意の謝罪? 前で手を組み神妙な顔で立ち尽くす様子は、YouTuberの謝罪動画のサムネイルみたいではあったけど。いやぁ、いろいろ納得がいかない。車中で後部座席に座る娘たちに問う。
「あのおじさんの立ち尽くし、どういうこと?」
「うん、同じこと考えてた」
娘たちとのやり取りで”わざと間違えた説”も浮上したが、どんだけ疑ったところで真実は本人しかわかりえない。結局、本当に間違えて正常な判断ができなかったのだろう、とはなった。それでも後部座席から聞こえる「きもっ!」には激しく、いろんな意味で同意だった。
「でもさ。ママの”えー“すごかったよね」
と、娘。もうひとりの娘も
「めちゃわかる。非難の力がすごかった」
「あのおじさん、警察沙汰を意識したと思う」
「え、2回とも?」
と、私。
「うん」
「それはいい意味?」
「ていうか、強い」
そう、私は強い。正確には強ぶっている。気なのか、気合いなのか。特に守らなければはらない何かがあるときは、かなり強ぶる。いつからこんなに強ぶるようになってしまったのだろう。娘たちを産んでからそうなったのは間違いない。娘たちを守るため? ほぼシングルマザー状態で子育てをしてきたので、もちろんそれもある。でも一番は意地だ。愚痴や悩みを溢すこともあるが、子育ても仕事も、本当に大変なときは助けれてくれる人が近くにいないかったり、頼りづらいことが多い。自分より先にSOSを出す人に遠慮して言い出せなくなったり、勇気を出して頼って上手くいかなった経験の影響もあると思う。下手でタイミングが悪い。それなのに上手くいっているように見せようと意地を張り、だんだんとフィジカルもメンタルも逞しく、いつしかファイターのようになり、手助けがなくてもひとりで戦おうとする人になってしまったし、周囲からもそう見られるようになった気がする。抜け感、可愛げがない。
数年前、仕事でいわれのない喧嘩をふっかけられることが重なったときがあった。まだ何もはじまっていないのに嫌がらせのようなことを受けた。「相手をむかつかせる原因が私にあるのかも」と、人生ではじめてカウンセリングを受けた。
先生は言った。
「まったく何もない人に喧嘩を売らない」
やっぱり、私が原因だったのか。いろんな質問を受けたあとに先生は続けた。
「あなたは常にガードをあげた状態ですよね」
……ちょっと覚えがある。無駄な戦いに巻き込まれないよう、親しい人以外には、警戒心というガードは常に張っていたと思う。
「ガードをあげている人に対して、ノーガードで臨む人はいないと思います。自然とガードは上がってしまうし、もしかしたら攻撃されるかもと、やられる前に攻撃を仕掛ける人もいるのではないでしょうか」
何だかものすごく腑に落ちて、先生の前で両手をダランと下ろし、話を聞いた。これまでの自分を変えてくれる先生に出会ったかも知れないと思った。
「ちなみにうちのワイフもですね」
はいはい、ん、ワイフ?
先生はそこから仲良しらしいワイフを例えに私の悩みを解決するための話をしてくれたのだが、ワイフとのエピソードが強烈すぎてまったく話が入ってこない。先生、ノーガード状態。最初の5分は最高だったのに、残りの25分はほどんど惚気話。来たときは鼻下に構えていた拳が、一旦ダランを経て、帰り際には目の下まで上がっていた。自分を変えるとは、なかなかむずかしい。
私の強ぶる癖は、絶対に敵わない人が目の前に現れ、ぐうの音も出ないほどに論破され、一発ぶん殴られないと治らないのかもしれない。でも、誰になら殴られたいかと考えると、決して人を論破も、殴ることもしないであろう人ばかりが頭に浮かぶ。きっと攻撃性とは未熟さであり、ガードの高さは弱さの現れ。まだまだ修行が足りぬ。書くたびに自分の稚拙な部分と向き合うこととなるエッセイは、自分で自分を殴る修行のようなものだとふと思った。