
『透明な契約』第三章「猶予の日常」
旅から帰ると、東京はいつも通りだった。
駅の改札、コンビニの明かり、自転車が走り抜ける音。南国の熱気がまだ皮膚の記憶に残っているうちに、日常が静かに上書きされていった。悠はスーツケースを押しながら、夜の住宅街を歩いた。何かが変わった気がした。でも何が変わったのか、言葉にはできなかった。
奈緒からメッセージが来たのは、帰国から三日後だった。
近くに来ることがあれば、お茶でも。
それだけだった。約束でも誘いでもない、ただそこに置かれた言葉。悠は少し考えてから、来週あたり、どうですかと返した。
それが始まりだった。
月に二度か三度、二人はどこかで会った。駅前のチェーンのカフェ、公園のベンチ、夜の川沿い。特別な場所ではなかった。でも気づけば、悠にとってその時間だけが、少し息のできる場所になっていた。
公園の木々が赤く染まり、銀杏の葉が歩道に積もり始めた頃、悠は奈緒に言った。「最近また、考えることが増えた」
奈緒はコーヒーのカップを両手で包みながら、「棚のこと?」と聞いた。
「そう」
「どんなふうに?」
「電車に乗ってると、隣に立ってる人の首のあたりを見てしまう。それだけです。何かしようとするわけじゃない。ただ、見てしまう」
奈緒は少し間を置いた。「見てしまうことと、することは、違うよね」
「違います。でも、見てしまう自分が嫌になる」
「そっか」奈緒は静かに言った。「それはつらいね」
断罪でも励ましでもなかった。ただ、そこに受け取る人間がいる、という感覚。悠はそれだけで、少し楽になった。
別の日、同じカフェで向かい合った時、奈緒が急にメニューを指さした。
「悠さん、これ頼んだことある?」
季節限定のほうじ茶ラテだった。
「ないです」
「私も。なんか頼みにくくて、いつも同じものにしてしまう」
「頼めばいいじゃないですか」
「なんか負ける気がして」
「何にですか」
奈緒は少し考えた。「わからない」
二人で顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。声に出る笑いは久しぶりだった。悠は自分が笑っていることに、後から気づいた。
奈緒が自分の話をするようになったのは、木枯らしが吹き始めた頃だった。
夜の川沿いを二人で歩いていた。街灯が川面に細長く映り、風が水面を細かく揺らしていた。奈緒がふと立ち止まって、欄干に手をついた。
「私、本当に何もできないんだよね」
唐突だった。悠は隣に立ち止まった。
「仕事は普通にこなせるし、人に迷惑も…たまにしかかけてないと思う。でも何か突出したものが何もない。両親は二人とも優秀で、私のためにたくさんのことをしてくれた。それなのに私は、何者にもなれなかった」
「誰かにそう言われたんですか」と悠は聞いた。
「言われたことはないです。でも、わかる。自分のことだから」
悠は川を見た。暗い水面が、街の光を揺らしていた。
「僕には、奈緒さんが何もできないように見えたことは一度もないです」
「それは悠さんが優しいからだよ」
「優しくて言ってるんじゃないです」悠は少し間を置いた。「僕は人に優しくできるタイプじゃないので」
奈緒は少し笑った。声に出さない、口元だけの笑いだった。悠はそれを横顔で見た。
「奈緒さんが笑うの、旅行以来だと思ってたけど、この前も笑ってたな」
「ほうじ茶ラテの時ね」
「そう」
奈緒はまた川を見た。「悠さんの前だと、なんか言えてしまう」
「僕もそうです」
それ以上の言葉は続かなかった。でも沈黙は、2人の間に穏やかに満ちた。
この関係に名前はなかった。
恋愛ではない。でも友人とも違う。秘密を共有している、というには重すぎる。お互いを必要としている、というには静かすぎる。言葉にしようとすると、するりと逃げていった。
悠はそれでいいと思っていた。名前のないものが、初めて自分の人生にできた気がしていた。
年が明け、街に乾いた風が吹く夜、奈緒と別れて一人で歩きながら、悠は気づいた。棚の中のあれを覗く時間が、少し減っている。
それが何を意味するのかは、まだ考えないようにしていた。
その数日後、奈緒から短いメッセージが届いた。
母が入院した。
▶︎第四章「輪郭」