
『透明な契約』第四章「輪郭」
病院は、静かすぎた。
廊下を歩く靴音が、必要以上に響いた。消毒液の匂いが空気に均一に混ざっていて、窓の外の冬の光だけが、場違いなほど明るかった。悠は面会を終えた奈緒を、一階のロビーで待った。
奈緒が現れたのは、十五分ほど経った頃だった。
いつもと同じ歩き方だった。でも悠には、何かが違うとすぐわかった。視線が定まっていない。歩くたびに手元のトートバッグのストラップを、無意識に握り直している。奈緒が悠に気づいて「待たせてごめん」と言った。
「全然」と悠は答えた。「外、出ますか」
病院の向かいに、小さな公園があった。冬枯れた木が数本と、ベンチが二つ。子供の姿はなく、老人が一人、遠くのベンチで日向ぼっこをしていた。二人は並んで腰を下ろした。
しばらく、奈緒は何も言わなかった。
手袋をしていない指を、膝の上で組んでいた。風が吹くたびに、指先が赤くなっていた。悠は何も言わずにそれを見ていた。
「軽症だって」と奈緒はようやく言った。「心臓の不整脈で、薬で安定するって。二週間くらいで退院できるって言われた」
「それは、良かった」
「うん」
奈緒の声は平坦だった。でも平坦さの奥に、何かが張り詰めている気配があった。
「怖かったですか」と悠は聞いた。
「……わからない」奈緒は組んだ指を見たまま言った。「連絡が来た時、すごく焦った。でも病院に着いて、元気な顔を見たら、急に何も感じなくなった。怖かったのか、怖くなかったのか、自分でもよくわからなくて」
「感情が追いつかなかったんじゃないですか」
「そうかもしれない」
風が吹いた。枯れた木の枝が、細かく揺れた。老人がベンチから立ち上がって、ゆっくりと公園を出ていった。二人だけになった。強く風が吹くたびに、枯れた木の枝が鳴った。奈緒はまだ、組んだ指を見ていた。悠は何も言わなかった。言葉を探しているわけでもなかった。ただ、隣にいることだけが、今自分にできることだと思った。
悠は少し間を置いてから、言った。
「契約が、近づいた気がして怖かったんですか」
奈緒の指が、一瞬止まった。
二人の間に、その言葉が静かに落ちた。旅行から帰ってこのかた、一度も口にしなかった言葉だった。名前のない関係の中に、ずっと透明なまま漂っていたものが、初めて輪郭を持った気がした。
奈緒はしばらく黙っていた。
「怖い、とは少し違う」やがて奈緒は言った。「怖いというより……まだ、準備ができていないと思った」
「準備」と悠は繰り返した。
「母が元気なうちに、もっとちゃんとしなきゃいけないこととか。言えていない言葉とか。そういうものが、まだある気がして」
悠は奈緒の横顔を見た。
奈緒の言う「準備」は、死ぬための準備ではなかった。生きている間にやり残したことへの、静かな焦りだった。それは悠にも、不思議なほどわかった。
「僕も」と悠は言っていた。
奈緒が悠を見た。
「まだ、準備ができていない」
奈緒は少し首を傾けた。「何の?」
悠は答えなかった。答えられなかった。自分でも、うまく言葉にできなかった。ただ、奈緒がいなくなることを想像した瞬間に、胸の中で何かが強く収縮した。それが何なのか、まだ名前がなかった。
「……わからないです」と悠は言った。「ただ、まだだと思って」
奈緒はしばらく悠を見ていた。それから視線を前に戻して、「そっか」とだけ言った。
公園に風が吹いた。枯れ葉が一枚、二人の足元を転がって通り過ぎた。
帰り道、二人は並んで駅まで歩いた。会話はほとんどなかった。でも沈黙は、前よりも少し、柔らかかった。
駅の改札で別れた。奈緒は「今日はありがとう」と言って、人の流れの中に消えていった。悠はその背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
奈緒とは別の改札を通り、ホームで電車を待ちながら、悠は自分の手を見た。
いつもなら、こういう時間に棚を開けていた。隣に立つ人間の首を、無意識に視界に入れていた。でも今夜は、棚の存在すら忘れていた。
代わりにあったのは、奈緒の「まだ準備ができていない」という言葉と、それに重ねてしまった自分の声だった。
電車が来た。扉が開いた。乗り込みながら悠は思った。
自分が怖れているのは、契約が果たされる日ではない——そのことにだけ、もう気づいていた。ただ、その先を、認められずにいた。