
言葉にしない、はずだった。 #7 決断
「こんな時間にお誘いなんて珍しいね」
仕事終わり、もう夜も深い時間に、私はマッテオと二人で、店の近くのバーに来ていた。
「ちょっと聞いてほしいことがあって…」
バーテンダーが二人分のお酒を差し出す。軽く乾杯をしてから、私はここまでのあれこれを掻い摘んでマッテオに話した。
「モテモテだな、スズネは」
マッテオの軽いトーンに、苦笑を返す。
私の反応に、彼は悪い悪い、と笑って謝ってから、おつまみのオリーブに手を伸ばした。
土曜日だからか、若者も多く、零時前だというのに、店内は賑わっていた。
「スズネはさ、今の仕事好き?」
思ってもみない方向の話に、思わず怪訝な声で返す。
「何、急に」
私の対応に、マッテオは苦笑いをしてから、カウンターの上に手を置いて説明を始めた。
「いやさ、俺とかフェデリーコにとって、今ってゴールに向かっての通過点に過ぎないんだよ」
トンっと、自分の目の前くらいに大きな手のひらを立てる。
「俺はいつか家業を継ぐし、フェデは、きっともっと上を目指す」
そこからスーッと右に手をずらしながら言う。
「でも、スズネにとっては、ここが一旦、ゴールみたいなもんだろ?」
右端で、開いた手のひらをグーにして私を見た。
「バールに憧れたジャパニーズガールが、本場で店を持ったんだぜ」
すごいことだろ、とグラスに手を戻して言う。
「…そう、なのかな…?」
「そうだよ。スシにハマったイタリア人がニホンバシで店を持つようなもんだ」
マッテオの例え話を想像して、思わず笑ってしまった。表情を崩した私に、ホッとしたようにマッテオも笑った。彼が手元のグラスを揺らす。ぴったりにカットされた氷が、カコン、と音を立てた。
「それで、これからスズネはどんな未来を見たいかって話だろ?」
この先の未来…。
「……もっとわかんなくなった…」
「ははっ」
私の反応にマッテオは愉快そうに笑った。
「まあ、そう簡単に、答えなんて出ないだろ」
「でも、もうすぐ諒知さん帰っちゃうし、とりあえず方向性だけでも出さないと…」
焦る私を呆れたように眺めながら、マッテオはグラスのお酒を飲み干した。ふうっと、深く息を吐く。
「真面目だなあ」
バーテンダーにグラスを掲げて、お代わりを頼む。
「間違えたっていいんじゃない?人生に答えなんて、ないんだからさ」
トンっとカウンターに置かれたグラスの中で、氷がくるくると回っていた。
***
ここ最近、寝不足が続いていたからか、目が覚めたらお昼過ぎだった。リビングに出ると、テーブルでルカが諒知さんと勉強をしていた。陽の光が二人を柔らかく照らしている。
「あ、紗寧さん、おはよう」
「……おはよ…」
ルカは集中しているのか、私に目もくれない。
「朝早くから勉強?偉いね」
「終わったらみんなで公園に行こうかって。紗寧も行く?」
「終わった!マサチカ確認して!」
キッチンから朋子さんが掛けた声を、打ち消すくらいの大きな声でルカが諒知さんに言った。
「うん、いい感じー…あ、ここだけちょっと、もっかい考えてみよう」
「えーーー」
「惜しいよ、もう少し。一緒に考える?」
わかりやすく落胆して、鉛筆をコロコロと床に落とした。あーあ、と思って拾おうとすると、椅子から飛び降りる様にしてルカが素早く拾う。
「…自分でもっかいやってみる!」
「いいね。行き詰まったらいつでも聞いて」
「うん!」
諒知さんに向ける笑顔は、もう完全に信頼しているものだった。私の家族の一部になりつつある諒知さんに、胸の奥がギュッとなった。
***
「マサチカー!あっち行こー!」
「はーい」
ルカとニカに両手を引っ張られながら、遊具に向かう諒知さんの背中をぼんやりと眺める。風は冷たいけれど、陽射しがあればまだまだ外で過ごせる季節だ。
「…で、どうなの?」
レジャーシートを敷きながら、朋子さんが訊いた。
「何が?」
「何がって」
呆れた様に言う。
「諒知さんのことに決まってるでしょ。どうするの?」
どうする、と言われても、どうしたらいいのかわからないから困っている。
「…わかんない」
「わかんないって…」
会話をする気のない私の様子に、朋子さんは大きくため息をついて言った。
「まあ、あんたのことだから、好きにすれば良いけどさ」
遠くからニカが朋子さんを呼ぶ。応えるように朋子さんはみんなの元へと歩いていった。
金色の落ち葉の絨毯、文句を言いながらも子ども達と遊ぶ朋子さんは幸せそうで、眩しくて、目を背けた。
***
月曜日。諒知さんを誘ってドライブに来た。彼は、今週末で日本に帰る。
「はあー…気持ちいいね」
「暖かい季節はもっと素敵よ」
市街地から車で一時間ちょっと、湖に面する観光地だ。
「…確かに、今の時期はちょっと冷えるね」
湖面の反射に目を細めながら、諒知さんはウールコートに首をすくめた。
「…諒知さん」
彼がこちらを見る。なるべく明るく、笑顔で、と自分に言い聞かせながら言った。
「私ね、もうすぐここで、国籍取れるようになるの」
彼は、時が止まったように固まった。
「ここで、頑張ろうと思ってる」
遠くで水鳥の声がする。越冬の為に、鳥たちがこの地に来始めたのだろう。
「だからもう、日本には戻らない」
でも、もう、私は渡り鳥をやめる。
「ずっと、帰る場所を作っててくれたんだよね」
どうしても辛くなった時、真っ先に浮かぶのはいつも、同じ顔だった。
「ありがとう。でも、もう大丈夫」
震えそうになる声を、精一杯抑えて、彼に笑顔を向けた。
これでいい。
そう決めた。
呆然とする彼に、ふうっと息を吐いて、何度も頭の中で繰り返したセリフを言った。
「諒知さんは、諒知さんの場所で、頑張って」
少しだけ、視界が滲む。
今は泣くな、私。
彼は固まったまま私の言葉を聞いていた。暫くして、ふうーっと大きくため息を吐いた。湖が見下ろせる石壁を背もたれにして脱力している。
「……そっかあ…」
ふふっと少し、笑った。
「…敵わなかったかあ……」
ちいさく、そう呟いた。
晴れた空が湖面を染めて、一面が青く、澄んでいた。
「うん、わかった」
彼もまた、決意したような声で言った。
「遠い場所からだけど、応援してる」
私に向けられた顔は、もう、好きな人に向けるものではなかった。
「あ、でも、今日は一日、デートってことでいいんだよね?」
少し動揺しながら頷けば、彼は嬉しそうに続けた。
「じゃあ、付き合ってよ。結局、観光、全然してないからさ」
遊覧船ってまだやってるかな?とスマホを片手に辺りを眺める。お土産も買っていかないとなー、と明るく振る舞う彼の後を追った。
これで良い。私も、諒知さんも、こうするのが一番無理なく、自然で。だからこれが、私たちの正解なんだ。
もうすぐシーズンオフに入る遊覧船に乗り込む。人はまばらだった。展望デッキから湖の風景を楽しむ。真冬の気配を含んだ風が、痛いくらいに、冷たかった。
***
「今日は一日、ありがとう。楽しかった」
「うん、私も」
私もゆっくり回ったことがなかったから、結局あれもこれもになって、帰ってきたのは二十三時を回っていた。子ども達も寝ているだろう、とのことで、アパルトマンの玄関で別れることにした。
「紗寧さん」
自分の部屋に向かおうとすると、諒知さんの声が、天井の高い玄関に響いた。
「最後に、やっぱり、伝えといてもいい?」
笑顔の奥の瞳が、ほんのりと赤く、潤んでいた。
「ほんとは、ずっと好きだったよ」
静かに、やさしい声が響く。
「いつでも感情のままに、笑ったり泣いたりするところ」
真っ直ぐに、私を見据える、黒い瞳。
「その癖、人の気持ち考え過ぎて、自分の気持ち言えなくなるんだよね」
愛おしそうに、笑う。
「明るく振る舞っているけれど、その裏で、悔しさも怖さも乗り越えて、すごく努力してるの、いつもすごいなって思ってた」
泣いちゃダメだ。
呼吸を整えて、彼の言葉を受け止めた。
「みんなの期待に応えようと、凛としててさ」
彼の視線が、落ちる。哀しげに、笑った。
「…僕が支えになりたかったけど、もう、叶わないみたいだから」
大きく息を吐いてから、こちらに向き直った。
これが、本当に最後だ。
「君の幸せを、ずっと祈ってる」
彼はいつもの笑顔を向けてくれていた。
私も、同じように返せているだろうか。
「おやすみ」
そう言って、彼は階段を登っていった。
カツンカツン、と響く靴音が、段々と小さくなって、消えた。
諒知さんは、いつから私を思ってくれていたんだろう。
思えば、いつも日本に行く時、こちらの都合に当たり前に合わせてくれて。家に押しかけた時だって、何でもないように受け入れてくれた。彼の年齢なら結婚していたり、相応の相手がいてもおかしくないのに。
イタリア語だって、自然にみんなと談笑していたけれど、習得するのにどれくらいの年月を掛けたんだろう。
私、諒知さんのこと、全然知らなかったんだ。
ずっと話をしてきたつもりだった。
本当は、私ばかり話していたんだ。
ひとりになったら、堪えていた涙が次々に溢れてきた。
私は、泣きたいだけ、泣かせてあげた。
受け止めてくれる優しい眼差しは、もう、ないから。
つづく
次の話 ▶︎ #8 選んだ未来のその先で
前の話 ◀︎ #6 過去と今