
言葉にしない、はずだった。 #8|最終話 選んだ未来のその先で
翌日、諒知さんは私の生活からいなくなった。朋子さん達を介して、彼の存在は感じるけど、おはようのメッセージや、一緒に過ごす時間はもちろん、すれ違うことさえ、なくなった。
同じ生活圏にいるのに、不思議なくらい。
きっと、彼が避けてくれているのだろう。
私の恋が終わったって、当たり前に生活は続く。お店に入れば笑顔でいなければならない。おいしいコーヒーにちょっとした食べ物、軽快でホッとする場所を提供するのが私たちの仕事だから。
大丈夫、いつも通りに笑えてる。
店内には、少しずつ冬の煌めきが灯り始めている。来月になれば、クリスマスツリーもお目見えする予定だ。
季節が移り変わるように、きっと、この心の傷だって、時間が治していってくれる。
そうやって、何とか一日を終えることができた。疲れ切って、そのままベッドに横たわる。気を抜くとまた、頬を涙が伝っている。
「はあー……」
きっと暫く、これは続くんだろう。でも、もう、決めたから。大丈夫、うまくやれる。もう、子どもじゃない。大丈夫だ。
枕をギュッと抱き締めて、何も考えないように、眠りに逃げ込んだ。
***
「スーズーネー!」
ドンドンと乱雑に叩かれるドアの音で起きた。手元の時計を見ると朝の八時前。重たい身体を何とか起こして、扉を開ける。
「……何?」
学校の準備を完璧にしたルカとニカがいた。
「明日ってお店、お休みだよね?何か予定ある?」
「…特にないけど……」
私の答えに、二人は見合って、やったー!っと喜びの声を上げた。
「何かあるの?」
「明後日、マサチカが日本に帰っちゃうから、明日はみんなで夜ご飯食べよって」
笑顔の彼らを前に、私は表情を失った。
「パパとマンマはいいよって言ってて、マサチカはスズネがいいならいいって」
興奮気味にハミングする二人の声が、寝起きの頭に響く。
「いいよね!?」
期待に満ちた無垢な目を、直視できなかった。
「…あー……一応、今日お店行って確認してからでもいい…?」
「えーーー!?」
不満の声がユニゾンする。
「もしかしたら、何かあったかもしれないから」
困ったように笑えば、朋子さんがキッチンから助太刀してくれる。
「ルカー、ニカー、学校遅れるよー」
「……はぁい…」
これ以上ないくらい肩を落として、二人は渋々玄関に向かった。
申し訳なさを感じながらも、私は、私を守ることで精一杯だった。
***
「スズネ、おっはよー…」
「…あ、おはよう。キアラ」
キアラの声で自分が店にいることに気付いた。ちゃんとユニフォームにも着替えている。
「…何かあったの?」
「え?」
キアラが聞いたことないくらい深刻そうな声で言った。
「何にもないよ?」
ニコッと笑った私に、不審な表情を向ける。私、今きっと、おかしな顔をしているんだ。頭でわかってはいても、どうすることもできなかった。
「スズネ、8番、サーブお願いー」
「はーい」
オーダーを持ってフロアに出る。いつもなら気合の入るスイングドアを開ける瞬間も、どうやったって気持ちが乗らない。何とかサーブしてバックヤードに戻る。
「…スズネ、平気?」
ディシャップのジュリアが心配そうに声を掛けてきた。すぐに言葉が出ない私を見て、ため息を吐く。
「とりあえず、あなたは裏の仕事をお願い。足りない分は私が出るわ」
「……ごめん…」
大丈夫だなんて、よく思えたな。
全然大人に、なりきれてないじゃない。
***
「スズネ」
ぼんやりしながら、最後の盛り付けを整えていると、少し苛立った声が私を呼んだ。
「……フェデ…?」
「何、その顔」
ハッと鼻で笑った目は、明らかに怒っていた。
「…どうしたの?今日、休みだよね?」
「ジュリアから君がおかしいって連絡きたんだ。で、来てみたらその有様」
固まる私の前にあった料理を配膳台に乗せる。
「何してるの?」
「……ごめん、なさい…」
「謝ってほしいわけじゃないんだよね」
はあーっと深いため息を吐く。
「マサチカ?」
「…違う……」
へえ、と言いながら、私の言葉などお構いなしに続けた。
「マサチカ、マサチカって。もう子どもじゃないんだから、仕事に私情をーー」
「違うっ!マサチカは関係なー…」
バァンという音がバックヤードに響いた。周りのスタッフ達が驚いて身体を強張らせる。その音は客席にも微かに届くほどで、サーブをしていたマッテオまで、チラリとこちらを見た。
落としたサルヴァを拾い上げて、フェデが言った。
「今日はもういいから。コンディション戻して明日からちゃんとやって」
私を見据える顔は、仕事仲間のフェデではなく、オーナーのフェデリーコだった。
「……はい…」
ふうっと軽いため息をつくと、彼はいつもの明るい声を出した。
「ほらほら、みんな!仕事に戻るよー」
パンパンと手を叩いて、フェデがみんなを鼓舞する。あっという間に、いつもの空気に戻っていった。
***
事務所のソファに沈んで、動けない。
なんでこんなになっちゃったんだっけ…?
考えようとするのに、全てが完全にフリーズしていて、どうしようもできなかった。
コンコン、とドアを叩く音が響く。
掠れる声でなんとか、はい、と言った。
「…紗寧さん?」
やさしい低音が聞こえた。
今、一番欲しくて、一番聞きたくない声。
「諒知です。入っていい?」
「……なん、で…?」
扉越しに問う。涙が勝手に、込み上げてくる。
「朋子さん経由でフェデリーコさんから連絡きて。紗寧さんが酷いからピックアップしてって」
フェデが…。
「ここ、開けてくれる?」
「ダメ」
涙を拭って扉の前に移動した。鍵を掛けていないから、簡単に開けられてしまう。
「帰って」
すぐそこに諒知さんの気配を感じた。
「……どうして?」
「……今、諒知さんの顔見たら、甘えちゃうから…」
勝手にこぼれ落ちる涙が止まらない。
「…そっか……」
早くどこかに行って欲しい。そう思った。
「でも、とりあえず、ここ開けてくれない?他のスタッフの人達の視線が痛くて」
その言葉にハッとする。
フェデにいきなり呼ばれて、今はスタッフの冷たい視線を浴びせられているだなんて、申し訳なさすぎる。
涙を拭って、カチャッと扉を開けた。
そこには、ホッとしたような、困ったような顔したな諒知さんがいて、廊下はガランと、静かだった。
「……誰もいないじゃん」
「こうでもしないと、開けてくれないでしょ?」
ふっと笑って、中に入ってくる。
俯いたまま、立ちっぱなしの私の隣に立って、ドアを閉めた。
「どうしたの?」
フェデみたいに詰問するわけでない、やさしい問いかけ。
「……話したくない」
彼はちいさく、そっか、と言った。
「…さっき、甘えちゃうって言ってた」
諒知さんのやさしい声がすぐ近くに降ってくる。
「甘えていいんだよ?」
麻薬みたいな甘い声。
「……やめて」
必死に、一人で立とうとしてるのに。
「…甘やかさないで……」
目を伏せて、彼を全身で拒絶した。
暖房の音が静かな部屋に響く。
遠くで、お店の賑やかな声が聞こえている。
「……僕の人生ってさ、行き当たりばったりなんだよ」
彼が、静かに言葉を発した。
「君やフェデリーコさんみたいに、こうしたい、みたいなのなくてさ」
初めて聞く、彼の話。
「その場その場で、こっちの方がいいかなって、選んできた人生だった」
いつでも余裕で、戸惑う事なく、まっすぐ歩いている人だと思っていた。
「…でも今回、初めて、自分でこうしたいって、動いてみたんだ」
彼を見上げる。
私の視線に気付いて、ふっと笑った。
黒い瞳、やさしい眼差し。
「君がいる未来を選びたかったから」
私も、あなたといる未来を選びたかった。無理なことだとはわかっていた。それでも、ほんの少しだけ、希望を持って日本に行った。その時の気持ちが、少しだけ蘇ってくる。
「……今朝、ルカとニカから、諒知さん帰るって聞いて…」
気付いたら、弱々しい声が、こぼれ落ちていた。
「ほんとに、いなくなっちゃうんだな、もう、会えないんだなって、思って…」
諒知さんは、ただ静かに聞いてくれた。
「そしたら、何にもできなくなっちゃって……」
嗚咽が込み上げる。
押さえることは、難しかった。
「……そっか…」
諒知さんは、そっと私の背中をさすって、ソファへと促した。その遠慮がちなあたたかさに、また涙が込み上げてくる。彼がハンカチを差し出す。ほんのりと、日本の香りがした。
事務所の固いソファに、少し距離を置いて並ぶ。
鼻を啜る音だけが、私たちの間にあった。
「…紗寧さんが、軽井沢に来てくれて」
諒知さんが、ぽつり、と声を落とした。
「一緒に過ごした、ほんの数日が、本当に幸せだったんだ」
軽井沢の家を思い出す。こじんまりと、清潔感のあるお部屋。一緒に立ったキッチン。爽やかに香る、コーヒーの匂い。
「…だから、手放せなくなっちゃった…」
そう言って、いたずらが見つかった子どもみたいに笑った。
「……すごい、離れてるんだよ…?」
「うん」
幸せだったから、それだけで突き進むには、あまりに遠い。
「……全然、会えないんだよ…?」
「うん」
技術がどんなに進化したって、抱きしめてくれる温度には勝てない。
「絶対、不安になったり、寂しくなるよ…」
何度、寂しい夜に一人枕を濡らしたか。もう随分前に、数えることもやめてしまった。
「そうだね」
彼は静かに、けれど決意のこもった声で言った。
「でも、もう、二度と関われないって方が辛い」
苦しそうに笑う。
確かに、そうなんだ。
会えない時だって、充分さみしかった。けれど、もう二度と会えない、を前にしたら、そんなの可愛いものだったって、今回帰ってきてよく分かった。
足元が急になくなるような、どうしようもない孤独、かなしさ。一人きりの夜に突如現れて、飲み込まれる。きっといつかは薄れるはず、そう思って半年経つ。
…でも、まだ、その一歩を踏み出すのが、怖い。
「……毎日、連絡してくれる?」
「…していいなら」
私の言葉に、彼は少しの間の後、何でもない風に答えた。
「……時々は会える?」
「長期休みは全部君に使う」
躊躇いのない声。
「……浮気しない…?」
こればっかりは、困ったように笑いながら言った。
「そんなのできたら、もっと前に他の誰かとしてる」
あの日、夜の玄関で、彼は私の幸せを祈ってくれた。その幸せの中にはきっと、当たり前にフェデが居ただろう。
じゃあ、私は?私は、彼が、他の誰かと歩む幸せを、祈れるだろうか。
答えは、もうずっと前に出ていた。閉じた瞼の隙間から、パタパタと涙の滴が手の甲に落ちた。
瞳を開く。今、目の前に、触れられるところに、諒知さんがいる。
「……ぎゅってして…?」
一瞬緊張した彼が、遠慮がちに私に近付く。ギシッとソファを鳴らして座り直し、そっと私を抱きしめる。着古されたカーディガンの肌触り、彼の香り、ぬくもり。びっくりするほど速い心臓の音が、耳元で鳴っていた。
「……心臓、早い…」
私がそう言うと、彼は深くため息をついた。
「…そりゃ、そうだよ」
耳元で聞こえる、余裕のない声。
熱いくらいの温度。
ぎゅっと込めまれる力。
「……好きだ…」
ずっと欲しかった、彼の言葉。
頬を伝う涙は、あたたかい。
彼の熱い背中を抱きしめ返す。
これで良かったのか、正直わからない。
でも、このあたたかさを、大きな手を、今は全身で、感じていたかった。
***
「あれ、フェデリーコ、何してんの?」
「オーナーにその口の利き方はないんじゃない?」
カトラリーの磨きを確認していると、出勤してきた昔馴染みが声を掛ける。
「昨日も出てたじゃん。新店準備で忙しいんじゃないの?」
「今日からスズネ、暫くいないでしょ?だから、代わり」
ああ、と呆れたようにマッテオは言った。
「また日本?」
「いや、今回はスイスらしいよ」
スイス?とマッテオは意外そうな声を上げた。
「教員だからね、スイスは教育のメッカだろ」
なるほどねえ、と少し呆れたように言ってから続けた。
「俺たちより、よっぽどロマンチックな生き方してんなあ、マサチカは」
「ハハッ」
思わず笑ってしまう。見た目は純日本人なのに、確かに、僕らイタリア人よりも、よっぽど愛に生きている。
エプロンを着けて、マッテオが開店準備に取り掛かった。朝陽が眩しいまでに差し込む。今日も暑くなるんだろう。
「…僕の幸せなら、祈れるんだって」
マッテオが顔だけこちらに向けた。
「そんな祈り、いらないよね」
寒さが厳しくなり始めたあの日。表情をなくした彼女を、笑顔にさせる方法が、たった一つしか見つけられなかった。
「…久しぶりに飲みにでも行くか?」
「むさ苦しい男とサシ飲みなんて遠慮したいね」
「よく言うよ」
愉快そうに笑って、マッテオは看板を店の外に運んだ。カランとドアベルが鳴る。
陽が高くなり始めた夏の空に、飛行機雲が一本、真っ直ぐに伸びていた。
***
「紗寧さん」
チューリッヒの駅に降り立つと、彼が大きく手を振りながら小走りでやってくる。白いシャツが日差しを反射して眩しい。
「お迎え、ありがと」
ミラノよりもカラッとした風が、サマードレスをかろやかに揺らす。
「こちらこそ、遠くまでありがとう。疲れたでしょ?」
「諒知さんに比べたら、三時間なんて近い方だよ」
いつものように会話をするけれど、まだ少し、ぎこちなさがあった。会えない時間はいつも、こういう誤差を産む。
「荷物、持つよ」
大きなスーツケースを彼に渡す。たかだか二週間なのに、あれもこれもと詰め込み出したらすごい量になってしまった。呆れていないだろうか、少し恥ずかしい気持ちで彼を見ると、やさしい笑顔を向けてくれる。
「どこか寄ってから家に行く?」
「観光するってこと?」
「うん」
彼は、スマホを片手にこの周辺のおすすめスポットを次々に教えてくれた。
彼の向こうには、陽射しがきつい広場が見えた。人々がしかめっ面しながら暑そうに行き交う。
「うーん…とりあえずお家で落ち着きたいかも…」
苦笑いで返すとハッとした顔をして取り繕った。
「あ、そうだよね」
少し慌てて、スマホをしまった。
「ごめん、思ったより、はしゃいでるみたい」
リアルな彼が目の前にいる。
その事が、とても嬉しかった。
最寄り駅まで移動して、お家に向かう。
「スーパー寄ってもいい?」
駅近くのショッピングモールに寄った。
「わ!乳製品いっぱい!」
「さすが、アルプスの麓だなあ」
ショーケースに並ぶチーズやヨーグルトに思わずテンションが上がる。
はしゃぐ私の隣で、彼もパッケージを手に取って吟味していた。
スーツケースの上にビニールバッグを引っ掛けて、街中を歩く。イタリアだったら、こんな風に歩けないだろうな、と思いながら眺めた。
「…新婚生活ってこんな感じなのかな?」
整備された道路を、手ぶらで歩きながら言った。彼は答える代わりに手を差し出す。
「繋いで帰ろ」
ゴツゴツした指先に、自分のを添える。長い指が絡まって、静かに結ばれた。触れ合う部分が、少し湿っぽい。
この先、この手を取ったことが間違いだった、と思う日がくるかもしれない。けれど、知ってしまった温度を、甘さを、なかったことにはできなかったから。
いつの日か、これが正解だったって、笑って言える日がくるといい。その場所はまだ、どこだかわからないけれど。
繋いだ指先に、きゅっと力を込めた。
おしまい
前の話 ◀︎ #7 決断
最後までお付き合いくださりありがとうございました!二人の物語を最後まで楽しんでいただけたなら、幸いです。