メインコンテンツへスキップ
見出し画像

本物を知らない今だから書けることー60年前の辻静雄と重なった日々ー

    最近、一冊の本を読んでいる。

    海老沢泰久さんの『美味礼讃』だ。

    辻静雄という、一人の料理を探求し続ける人の人生を描いた作品。

    最初は正直、誰が主人公なのかも分からなかった。

    いろいろな人物が登場し、それぞれの人生が語られる。

    「これはどんな本なんだろう。」

    そんな気持ちでページをめくっていた。

    でも、読み進めるうちに気づいた。

    この本は、料理人の伝記ではなかった。

    人生の節目で、人が何を考え、何に出会い、どう変わっていくのか。

    そんな物語だった。

    そして、不思議なことが起きた。

    読んでいる辻静雄が、少しずつ今の自分と重なり始めたのだ。


    戦後間もない日本で、フランス料理はまだ「フランス料理らしきもの」がほとんどだった。

    本で読んだフランス料理と、実際に日本で出されている料理。その間には
    大きな隔たりがあった。

    辻静雄は、その違和感をごまかさなかった。

    本物を知らないまま、本物を教えることへの葛藤。

    だからこそ彼は、「本物をこの目で見たい」という思いを抱き、フランスへ向かう決意をする。

    しかし、その決意と同じくらい大きな不安もあった。

    「このままでは、大リーグの野球をスタンドから眺めて帰るだけになってしまうかもしれない。」

    辻静雄は、本場フランスへ向かう前に、そんな不安を口にする。

    この一文を読んだとき、思わず本を閉じた。

    それは、今の自分が感じていることと、あまりにも似ていたからだ。

    僕ももうすぐ、本格的なフランス料理を食べる機会がある。

    もちろん楽しみだ。

    でも同時に思う。

    ただ「美味しかった」で終わってしまわないだろうか。

    本物を前にしても、何も分からず帰ってきてしまうのではないか。

    その不安が、辻静雄の言葉と重なった。


    本の中で、辻静雄はフランスに行く前にアメリカへ渡る。

    そこで、多くの料理に携わる人から親切を受ける。

    そのたびに彼は驚く。

    「どうして、ここまでしてくれるのだろう。」

    その場面も、どこか他人事ではなかった。

    この1ヶ月、料理について発信を続ける中で、自分もたくさんの人に支えられてきた。

    記事を読んでくれる人。

    丁寧にアドバイスをくれる人。

    自分のために時間を使ってくれる人。

    「どうしてここまで。」

    そう思うことが何度もあった。

    本を読んでいるはずなのに、そこに書かれている感情が、自分のもののように感じられた。


    もう一つ、心に残った場面がある。

    ある人物が辻静雄に言う。

    料理人になってしまえば忙しくなり、本当に良い料理を食べ歩く時間は意外と少ない。
    だからこそ、料理人になる前に、本物を舌に覚えさせておきなさい
    、と。

    その言葉を読んだとき、胸が熱くなった。

    料理は作ることだけではない。

    本物を知ることも、料理人の勉強なのだ。

    僕は今、その意味を少しずつ理解し始めている。


    本を読み始めた頃は、

    「辻静雄という偉人の物語」

    だと思っていた。

    でも今は違う。

    これは、

    「本物に出会う前の、一人の人間の物語」

    なのだと思う。

    だから共感できる。

    完璧な料理人ではない。

    何も知らないまま、不安を抱えて前へ進もうとしている一人の人間だから。


    僕はまだ、本物のフランス料理を知らない。

    写真で見ただけ。

    本で読んだだけ。

    料理人の話を聞いただけ。

    だから今の自分は、まだスタンドどころか、テレビの前で画面越しに試合を眺めている観客なのかもしれない。

    でも、そのことを悲しいとは思わない。

    なぜなら、もうすぐ自分も一歩踏み出せるからだ。


    この文章を書いている今も、まだ何も知らない。

    だから、この先どんな料理に出会い、何を感じるのかは分からない。

    もしかしたら、期待していたものとは違うかもしれない。

    逆に、人生が変わるような体験になるかもしれない。

    それでも一つだけ言えることがある。

    「本物を知る前の自分」は、もう二度と戻ってこない。

    だから、この気持ちを書き残しておきたかった。

    次にこの本を開く頃には、辻静雄は本場フランスの料理と出会っている。

    そして、その頃にはきっと、僕も初めての本格的なフランス料理を経験しているはずだ。

    あの日の辻静雄が何を感じたのか。

    そして、自分は何を感じるのか。

    その答えは、もう少し先のお楽しみにしておこう。

     
     
    化学が好きな理系高校生です。 料理をきっかけに、「なぜ?」を追いかけています。 料理の科学、食文化、料理人の考え方を探求中。 イタリア料理とフランス料理が好き。 料理は、世界への入り口である。

    あなたへのおすすめ