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不自然の純度|きむらゆういち『完全版 あらしのよるに』|蔵書紹介 #001-01

    主人公の「ガブ」について、私はなにも、彼がゴシックロリータファッションに身を包む少女であるなどと主張するつもりはありません。作中で性別が明言されないからといって…。

    ただ、ある意味では…ちょっとそれに近いことを考えてはおりますので、なるべく誤解のないように、順を追ってお話ししたいと思います。

    「ありのまま」とは異なるタイプの「素敵」


    一瞬、『あらしのよるに』とは直接関係のない話をさせてください。

    「拘束、緊縛、SとM」という、酒井順子の読書エッセイの中に、興味深い体験が書かれていました。

    酒井氏は、ゴシックロリータファッションの愛好者ではないそうですが、実際に着てみた際の発見を、次のように洞察しています。

    着てみてわかったことは、「ゴスロリファッションとは、一種の拘束衣である」ということである。ウェスト部分が紐で締め上げるコルセットのようになっているスカートは、胴回りがとても苦しい。肌の露出をしないスタイルなので夏は暑そうだし、かといってファッション性重視なので冬は寒そうだし、厚底靴は歩きにくい。ゴスロリ服を着るには、様々な我慢が必要なのであった。/ナチュラルとかありのままとか、いまの時代に「素敵」とされていることに対してうさん臭さを感じている少女達に必要とされている服なのだろうなぁ、ということが何となく理解されたゴスロリ。

    酒井順子「拘束、緊縛、SとM」
    (『本が多すぎる』文藝春秋、文春文庫、2014年6月)pp.199-200

    ※引用につきましては、こちらのページの「引用の凡例」をご参照下さい。

    「ナチュラル」や「ありのまま」とは異なるタイプの「素敵」を追求する人がいるという着眼点が鋭く、まずは、そのような発想を持つこと自体が非常に素敵であると思うのです。

    もちろん、アイテムの選定や着こなし方、着用感には個人差があるとは思います。それでも、基本的には“伸縮性があって体温調節も自由自在で快適な服”でないことは明らかです。

    また、このエッセイの初出は2008年なので、その当時から見た「いま」を切り取ったものとして報告されています。ファッションの解釈にも諸説あると思います。しかし、ロリータ系のファッションを愛している友人たちと話をした経験や、ネットで愛好者の方々のブログなどを拝見した上での実感としては、現時点から見ても、そのような観点でロリータ系のファッションを必要とする人は確実に存在すると断言できます。

    これを書いている私自身には着用経験はありませんが、徹底的に美しく構成された上品で幻想的なデザインに心惹かれています。そして、「ありのまま」であることも素敵ですが、その快適さを犠牲にしてでも理想を追求しようとする美学には、どこか純文学的な硬質さを感じます。

    上記のエッセイでは、ロリータファッションという切り口から、嶽本野ばらの小説が取り上げられています。嶽本作品に描かれた美学についても、別の機会に考察してみたいと思っています。

    ですが、「ナチュラル」や「ありのまま」とは異なる「素敵」を追求することは、必ずしもゴシックロリータファッションに限らず、そして、「少女」にも限らないはずであり、そのような精神が美しい毒のように、主人公の骨の髄にまで染み込んでいるように思われる作品として、今回、『あらしのよるに』を挙げたいと思っています。

    オオカミの「ガブ」と、ヤギの「メイ」が主人公の児童文学作品、『あらしのよるに』です。

    正確に言うと、シリーズ7作品(『あらしのよるに』『あるはれたひに』『くものきれまに』『きりのなかで』『どしゃぶりのひに』『ふぶきのあした』『まんげつのよるに』1994年10月~2005年11月)を一冊にまとめた『完全版 あらしのよるに』(あべ弘士 画、講談社、2014年9月)の全体のストーリーに、これから触れていくことになります。


    ※ネタバレを含みますので、未読の方は、どうかご注意ください。

    孤独な愛の、不自然の純度


    「ともだち」という言葉は、ブラックホールのようだと思います。あまり親しくない知人を友達と呼ぶこともできますし、ガブとメイの名づけられないような関係性さえも、「ともだち」という言葉によって、さらりとカバーされています。

    その関係性こそが、『あらしのよるに』シリーズ全体の主題のように思われるのですが、仮にそれを「ともだち」以外の言葉で表現するならば、それは、孤独な愛、なのではないかと思います。

    どのくらい孤独かといえば、ただ純粋に「ともだち」でいたい二人が、ただそれだけのことによって世界を裏切り、追われる身となるほどの孤独です。

    ガブとメイは、ある嵐の夜、丘のふもとの壊れかけの小屋に雨宿りにきた者同士として、偶然に出会いました。
    室内とはいえ、真っ暗なので何も見えず、しかも二人とも鼻風邪を引いているため、正体を匂いで判別することもできない状況でした。
    互いをオオカミ同士・ヤギ同士であると思い込み、会話を交わしているうちに、二人はすぐに親しくなりました。「あらしのよるに」を合言葉に、また同じ場所で会おうと約束して別れます。
    太陽の下で再会し、自分たちがオオカミとヤギであることに驚いた後も、友情は変らず、秘密裏に続いていきます。ところが、その関係が明るみに出てしまうと、二人は自分の群れ(オオカミの群れ・ヤギの群れ)から糾弾され、周辺に暮らす大勢の生き物たちの好奇の目に晒されることとなります。それでも二人は、最後まで互いを裏切ることなく、友情を貫いていきます。それは、それまで暮らしていた土地とそれまで属していた共同体という意味における、世界の全てを敵に回すことを意味していました。

    そして、ガブにとって“敵”は、自分自身の内側にもいました。

    「ともだち」として会っているのに、彼の本能は、メイを見ては「ごちそう」だ! と叫びます。ですが、ガブはメイを絶対に食べないように、理性で本能をきつく縛り上げ、自身を厳しく律し続けていきます。

    ガブは、メイの隣に立って、一緒に同じ景色を見たり、何気ない会話で笑い合ったりという、ただそれだけの素敵なことのために、上質なレースとフリルをたっぷりとあしらった、黒を基調とする退廃的な衣装で夏も肌を覆い隠し、冬は寒さにふるえ、日々、コルセットで胴回りをきつく締め上げる行為に匹敵するような“不自然”な我慢を必要とします。

    しかも、ガブを全面的に信頼し、ガブの忍耐に(当初は)全く気づいていなかったメイが、ガブを無自覚に刺激したりする中での、苦行のような状況も度々発生します。

    「さ、おいらにかまわず、食べてくださいよ。おいらはちょっと、ひるねでもしやすから。」/ごろっとよこになったオオカミだったが、おなかがすいて、とてもねむるどころではない。/「いやあ、こんなけしきを見ながら食べるおべんとうって、さいこうですね。おや、もう、ねちゃったのかな。(…)もうおなかいっぱいですよ。どれ、わたしもひとつ、ひるねでもしますか。」/ヤギは大きくのびをすると、ごろりとオオカミのとなりによこになった。(…)ヤギはもう、気もちよさそうなねいきをたてている。/オオカミはむくりとおきあがると、ねむりこんでいるヤギをじーっと見つめた。

    きむらゆういち「あるはれたひに」
    (『完全版 あらしのよるに』講談社、2014年9月)pp.48-50

    別の場面(「くものきれまに」)では、メイは本当に悪気無く、ガブに“飲むと食欲が増進する水”を飲ませ、彼の理性にとんでもなく試練を与えたりもしています。
    ガブは耐える苦しみを何度も何度も味わいながらも、捕食者としての自らの本能に抗い続けます。メイのことを「うまそう」と思ってしまう自分自身を罰しながら、メイは友達なのだと自らに言い聞かせます。

    『ああ、おいら、なんてやつだ。たとえいっしゅんでも、ともだちのことをうまそうだなんて。』/そうつぶやいて、自分の頭をポコポコとたたいた。

    きむらゆういち「あるはれたひに」
    (『完全版 あらしのよるに』講談社、2014年9月)p.45

    ガブは、繊細に仕立てられた真っ黒なブラウスで肌を覆い隠す…のではなく、「ヤギの肉だけは大っきらい」(p.48)なのだという嘘で、自らの過去と本能を徹底的に塗り潰し、覆い隠そうとします。ガブは本当は「なによりもヤギの肉が大こうぶつ」(p.48)なのでした。それでも、メイに語ったその嘘を少しでも真実に変えていこうとするかのように、…そして、自分は「なによりゆうじょうをたいせつにしてる」(p.40)とメイに伝えた言葉を死守するかのように、メイに出会ってからは一切、ヤギの肉を断つようになります(「ヤギの肉がすきだったのは、メイとしりあうまでの話だ。いまでは、ひとくちも口にしていない」p.132)。

    そして物語の終盤では、吹雪の山の向う側を目指しての逃避行の最中、自分を食べていい、自分の分までガブに生きて欲しい、ガブに出会えて…命をかけてもいいと思える友達に出会えて、幸せ。ということを訴え、命を差し出そうとするメイの言葉にさえ、一切寄りかかることはしませんでした。

    …病み、苦しんでいる女友達の療養先にまで押しかけていって、彼女の抱えている怖ろしい虚無や喪失感や不安を半ば見て見ぬふりをしながら、自分の寂しさや欲求ばかりに引っ張られ、会うたびに性行為を求め、果ては彼女が自殺してしまったのに、その重さに耐えきれず別の女性に甘え、救いを求めている様子の『ノルウェイの森』の主人公のことを思い出しました。たしかにその女友達も、ある瞬間は乗り気だったかもしれない。だが、強行突破した理由を、傷つきながらも受け入れてくれた彼女のせいにしていいのだろうか。この主人公に対し、少しはガブを見習ったらどうなのだろうかと苦言を呈したいような理不尽な思いをよぎらせつつ…(村上春樹の『ノルウェイの森』についても、後日取り上げてみたいと思っています。素敵なところが非常に多い小説だと思っています。)…話をもとに戻します。

    ガブにとっての「ともだち」とは何か。
    それは、“オオカミの自分がヤギを食べることは、生き物としての本能なのだから仕方ない” “メイ本人が食べてもいいと言ってくれたのだから食べても構わない”などという生ぬるい言い訳を自らに一片も許すことのない、もはやひとつの美学です。
    他のオオカミは、ヤギを食べることは当然だと考え、自分たちの本能を疑うこともなく振舞っています。オオカミたちにとって、あるいは自然の摂理という観点から見て、それはむしろ非常に自然なことではあります。
    そのため、オオカミとしての本能に逆らってまで「ともだち」への正義を貫くガブは異端であり、不自然な存在として、仲間の目には非常に奇妙で滑稽に映ります。

    「あのなあ、ガブ、ヤギは、おれたちのえさだぜ。そのえさと、ともだちになれるわけないだろう。」

    きむらゆういち「どしゃぶりのひに」
    (『完全版 あらしのよるに』講談社、2014年9月)p.144

    ここで改めて見ていきたいのですが、ガブがそこまでして守りたい「ともだち」とは、…私の言葉で要約しながらひとつひとつ挙げていくと、次のような存在です。

    • 自分に似たところの多い、初対面なのに気が合うひと(「あらしのよるに」)

    • 自分にとっては食欲よりも何よりも大切な、友情を捧げる相手(「あるはれたひに」)

    • 自分はオオカミで、相手はヤギなのに、それでも自分を個として見てくれて、信頼してくれている「ひみつのともだち」(「くものきれまに」)

    • 待ち合わせて、一緒に綺麗な月を見たいひと(「きりのなかで」)

    • 襲いかかるあらゆる脅威から守り抜きたいひと(「きりのなかで」)

    • 言葉を交わしていると、嫌なことを全部忘れてしまうのだと言ってくれて、自分も、そうだと答える相手(「きりのなかで」)

    • 普段は言葉を交わすことを楽しんでいるけれど、不意に、言葉を交わさなくても通じ合ったりするひと(「どしゃぶりのひに」)

    • 命をかけてもいいと思える友達に出逢えて幸せだと、極限状態の中で言ってくれて、自分の方こそ幸せだと伝える相手(「ふぶきのあした」)

    • 記憶喪失になった時、それでも自分には「どんなことをしてでも、生きてはたさなければならない、やくそくがあるかのよう」(p.219)な思いという形で、魂に深く爪痕を残すひと(「まんげつのよるに」)(メイも、ガブをずっと探していて、いないガブに向かって話しかける場面もある)

    そのような一人のひとを、ただただ友達として大切に愛し続けたいがために、群れを捨て、本能に抗うなんて…語られていく“不自然”の純度があまりにも高いです。

    しかも、ガブの様子を追っていくと、こんな反応も見られるようになります。
    シリーズの中ほどに位置する、完全版第4章(シリーズ第4作)「きりのなかで」のガブは、仲間のオオカミがメイを食べてしまったのではないかと誤解します。その瞬間、彼は「目のまえが、まっくらにな」り、仲間のオオカミの前なのに、「ああ、な、なんて、ひどい。そ、そんな、そんなことって……うう。」と打ちひしがれて、「くずれるように、ガブはじめんにすわりこ」みます(p.109)。

    眩暈のような反応が起こる。思わず口走る。くずれるように座り込む。
    メイがこの世から消えた(と思い込んだ)絶望が、反射的な身体の反応となって表れています。

    同じ章の別の場面では、すぐそばにメイが隠れているのに、目上のオオカミから、ヤギの肉の話題を振られてしまいます。「おまえも大こうぶつだったよな」と言われ、「もちろんすよ」と話を合わせる場面で、「ガブは、この話がメイにきこえていたらと思うと、ちくちくとむねがいたんだ」(p.117)。

    そして、第6章(第6作)「ふぶきのあした」では、吹雪の中の極限状態で、メイから自分を食べるように言われた時、生きるか死ぬかはどうでもいい、それよりも「もう二どと、おしゃべりもできなくなっちまう。そのことが、つらい」(p.194)と想像して、ガブは泣いてしまう。

    メイに、自分はヤギの肉が嫌いだと伝えていた言葉は、確かに、最初は嘘だったかもしれません。それでも、「いまは、ヤギの肉じゃなくて」、「ヤギが……すき」(「きりのなかで」pp.122-123)とメイに伝えた言葉は、口先だけのものではなくて…。メイへの罪悪感や、メイからの信頼を失う不安によって胸を痛め、そして、メイを永遠に失うかもしれない絶望に染まる姿は、ヤギを餌としか思っていない他のオオカミとは、もはや全く別の存在です。それは根本的で不可逆的な変容であり、メイへの思いによって、残酷なまでに、彼の本能が書き換えられてしまったかのようです。

    「きりのなかで」のガブは、まるで彼の思考にまで霧が掛かったかのように、メイについての不安や絶望に掻き乱されます。そして、メイが生きていると分かった瞬間の、本当に良かったという安堵の感情でいっぱいいっぱいになっているガブのことを信頼しつつ、メイはあえてちょっといじわるなことを言うのです。彼の心を翻弄し、反応を見て微笑むという、どこまで意図したものなのかわからないお茶目な一面を見せるのですが、よろしければ「きりのなかで」を読んでみてください…♪

    それは、捕食される恐怖という本能を乗り越えて、身体的な危険を冒しながらもガブに会いに来たメイの、餌として話題に出されたことに対する小さな抗議のようでもあり、それでも、ガブの真意を充分に汲んだ上での、“やさしい訴え”だったようにも思います。

    そして、(場面は前後しますが、)ガブもまた、メイが自分を信頼しすぎるところや、それに伴う勇敢すぎる行動を決して見逃してはおらず、非常に心配して、注視しています。「だいじょうぶですよ。わたしは、ガブがいてくれれば、あんしんです。」(「きりのなかで」pp.106-107)と言ってくれた言葉を嬉しそうに心に留め、そして、その期待にしっかりと応えていきます。

    “孤独な愛”とは書きましたが、ガブはこんなにもメイから信頼してもらえているのだから、どんなに孤独な時も、決して孤独ではなかっただろうな…とも思います。どんなに孤独で不自然な努力でさえも、自然とこなせてしまうような、ものすごい力が湧いてきたのではないかと思います。

    とはいえ、群れに留まる安心よりも、追われる身となる孤独を選んでまで「ともだち」であり続けようとする愛、という意味で、二人が選んだそれは、やはり “孤独な愛”であったと思います。そして、それに耐えるということは、単なる苦難ではなく、「群れ」という日常の中には見出せなかった、規格外の “素敵”を追求する行為だったのではないでしょうか。それまでの生活の中に安住していたら見ることができなかったであろう、“この世の果て”、あるいは“生命の果て”のような景色を、二人はたくさん見ていくことになります。そして、底の深い暗闇の中で星でも生み出すかのように、二人の間で交わされていく素敵な言葉の数々が生み出されていきます。

    この記事では、『完全版 あらしのよるに』に描かれているガブとメイの関係性について、それを“孤独な愛”と解釈し、それがいかに”不自然”であり、そして、純度が高く素敵であるかという点に光を当てました。

    今回は仮に“孤独な愛”と言い換えてみた関係性の、その名づけ難さについて、次回の記事で掘り下げたいと思います。



    [次の記事に続きます]

    書誌情報

    ※免責事項と用語の解説につきましては、こちらのページをご参照下さい。

    使用テクスト

    • きむらゆういち『完全版 あらしのよるに』(あべ弘士 画、講談社、2014ĺš´9月)

     ISBN: 978-4-06-278509-9
     NDC: 913.6
    (9類:文学>91:日本文学>913:小説・物語>913.6:近現代)

    初出・初刊

    • 木村裕一『あらしのよるに』(あべ弘士 画、講談社、1994ĺš´10月)

    • 木村裕一『あるはれたひに』(あべ弘士 画、講談社、1996ĺš´6月)

    • 木村裕一『くものきれまに』(あべ弘士 画、講談社、1997ĺš´10月)

    • 木村裕一『きりのなかで』(あべ弘士 画、講談社、1999ĺš´3月)

    • 木村裕一『どしゃぶりのひに』(あべ弘士 画、講談社、2000ĺš´5月)

    • 木村裕一『ふぶきのあした』(あべ弘士 画、講談社、2002ĺš´2月)

    • 木村裕一『まんげつのよるに』(あべ弘士 画、講談社、2005ĺš´11月)

    参考文献

    • 酒井順子『本が多すぎる』(文藝春秋、文春文庫、2014ĺš´6月)

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    (photo by カズキヒロ様)

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    元図書館員、定本眺見(さだもと・ななみ)が選定する、「美と絶望の標本箱」。あるいは「形を持たない愛と執着、名づけられない関係性についての観測記録」。月夜の幻想の閲覧室から、貴方の「余白」に向けて差し出された読書案内です。気高い心に鮮やかな枯葉を積もらせる、繊細な感受性へ捧げます。

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