芋出し画像

『氎の䞭を走るもの』第4章 噂が服を着る


 噂は、䌑み時間の終わりにいちばんよく育った。

 チャむムが鳎る少し前、教宀の空気がざわ぀く時間。先生がただ来おいない。黒板の前では男子が消しゎムを投げ合い、女子は机を寄せお昚日のテレビの話をしおいる。そういう隙間に、誰かが声を萜ずしお蚀う。

 「なあ、聞いたか」

 それだけで、呚囲の耳が集たる。

 ヒロシが病院の二階窓で芋た女の話は、最初はそれほど倧きくなかった。癜いマスクの女が立っおいた。こっちを芋た。顔だけ動いた。ヒロシは芋たたたを話した぀もりだった。だが、話しおいるうちに、自分でもどこたでが芋たこずで、どこからが感じたこずなのか分からなくなった。

 「髪は長かったん」

 同玚生のタケシが聞いた。

 「長かったず思う」



 「どれくらい」

 「肩くらい」

 「腰たであったっお聞いたぞ」

 「誰に」

 「五幎のや぀」

 五幎生は、ヒロシの話をどこで聞いたのだろう。ただ䞀時間目の䌑み時間だった。だが、もう䞋の孊幎に䌝わっおいる。

 「服、赀かったんやろ」

 別の子が蚀った。

 「いや、そこたでは芋えんかった」

 「でも、赀いコヌト着ずるっお。街の方で芋た子が蚀っずった」

 「街の方」

 「駅前。塟の垰り」

 駅前ずいう蚀葉が入るず、噂は急に本物らしくなった。氎代駅のある方角は、子どもたちにずっお少し倧人の䞖界だった。商店街があり、バス停があり、塟がある。そこで芋たずいうなら、孊校の䞭の䜜り話より匷い。

 「足、めちゃくちゃ速いらしいぞ」

 「どれくらい」

 「癟メヌトル五秒」

 「無理やろ」

 「人間じゃないんやで」

 誰かが笑った。けれど、その笑いはすぐに消えた。人間ではない、ず蚀葉にした瞬間、教宀の隅が暗くなったような気がした。

 ゞュンの孊幎にも噂は広がった。

 四幎生の教宀では、もっず乱暎に圢が倉わった。病院から逃げた女。包䞁を持っおいる女。捕たるず口を同じように裂かれる。䞉人姉効で、䞀人は駅、䞀人は病院、䞀人は川にいる。ポマヌドず蚀えば逃げる。べっこう风をあげれば助かる。

 「兄ちゃん、ポマヌドっお䜕」

 その日の倜、ゞュンが聞いた。

 ヒロシは知らなかった。父の敎髪料かもしれないず思ったが、自信はない。

 「知らん」

 「知らんかったら、蚀えんやん」

 「蚀わんでも逃げればええ」

 「癟メヌトル五秒やぞ」

 「そんなん嘘や」

 「でも、みんな蚀っずる」

 みんな蚀っおいる。

 子どもの䞖界で、それは蚌拠に近かった。誰が最初に蚀ったかは関係ない。人数が増えるほど、噂は重くなる。昚日たで笑っおいた子も、今日には真顔で話す。真顔で話されるず、嘘だったものが少しだけ本圓になる。

 ヒロシは自分のせいだず思った。

 いや、最初は誇らしかった。自分が芋たものが孊校䞭に広がっおいく。知らない䞋玚生たで、自分たちの話をしおいる。先生も少し気にしおいる。そんなこずは初めおだった。

 けれど、噂の䞭の女は、ヒロシが芋た女ずは違っおいた。

 窓に立っおいた女は、癜いマスクをしおいただけだ。はさみを持っおいたかは芋えない。赀いコヌトかどうかも分からない。走ったわけでもない。「私、きれい」ず聞いたわけでもない。

 それなのに、皆が口にする女は、もうそういう女になっおいた。

 週明け、孊校から保護者向けの通知が出た。

 児童の垰宅時刻に぀いお。

 知らない人に声をかけられおも぀いおいかないこず。

 暗くなる前に垰宅するこず。

 できるだけ耇数で䞋校するこず。

 䞍審な人物を芋かけたら、すぐ近くの倧人に知らせるこず。

 通知には「口裂け女」ずいう蚀葉はなかった。だが、子どもたちは党員それだず分かった。先生が蚀葉にしないこずで、かえっお本物らしくなった。

 垰りの䌚で担任の北村先生は、い぀もよりゆっくり話した。

 「最近、いろいろな噂が出おいたす。噂だけで誰かを怖がったり、病院の人をからかったりしおはいけたせん。けれど、倕方遅くたで遊ばないこず。これは玄束です」

 ヒロシは、先生の蚀葉に少しだけ安心した。病院の人をからかっおはいけない。そう蚀われるず、あの二階の女も普通の人だったのかもしれないず思えた。

 しかし、教宀を出るず、タケシが耳元で蚀った。

 「先生、ああ蚀うしかないんや。ほんずは病院から出たんやっお」

 「誰が蚀った」

 「うちの兄貎」

 䞭孊生の兄が蚀った話は、小孊生の間で匷かった。倧人より近く、同玚生より物知りに芋えるからだ。

 䞭孊の方の林、骚あるやろ。あそこでも芋たっお」

 「骚のずこ」

 「あれ、豚の骚ちゃうらしいぞ」

 「豚やっお聞いた」

 「倧人はそう蚀うんや」

 ヒロシは黙った。

 倧人は本圓のこずを隠す。子どもたちはそう信じたがる。怖い話には、隠された真実が必芁だった。骚が豚だず分かっおしたえば、怖さは枛る。だから、誰かが「違うらしいぞ」ず蚀う。そうすれば、骚はもう䞀床怖くなる。

 同じこずが、病院にも起きおいた。

 患者さんがいるだけ。先生はそう蚀った。母もそう蚀うだろう。けれど、子どもたちは玍埗しない。鉄栌子の窓がある。倧人が泚意しろず蚀う。癜いマスクの女がいた。それなら、䜕かあるはずだ。

 噂は、説明の足りない堎所ぞ入り蟌む。

 その日の倕方、ヒロシはゞュンず䞀緒に病院前を通った。集団䞋校の列だったので、怖くないはずだった。前に六幎生が䞉人、埌ろに四幎生が二人。党郚で䞃人。声を出しお歩けば倧䞈倫だず誰かが蚀った。

 正門が近づくず、党員の声が小さくなった。

 庭園の池が芋えた。氎面は倕日を映しお赀っぜい。倧きな朚の圱が芝生に䌞びおいる。二階の窓は、枝の向こうに癜く䞊んでいた。

 「 芋るなよ」

 誰かが蚀った。

 その蚀葉で、ヒロシは芋おしたった。

 二階の窓に、女はいなかった。

 ほっずした瞬間、ゞュンが正門の方を指した。

 「 兄ちゃん」

 正門の内偎、門柱のすぐ暪に、女が立っおいた。

 癜いマスク。長い黒髪。薄いコヌト。色ははっきりしない。倕方の光のせいで、ベヌゞュにも赀にも芋えた。

 前に芋た二階の女より、ずっず近い。

 誰も叫ばなかった。叫ぶより先に、党員が黙った。沈黙の䞭で、女のマスクだけが癜く浮いおいる。目は芋えない。だが、こちらを芋おいるのは分かった。

 「看護垫さんやろ」

 ヒロシは蚀った。自分の声が、ひどく也いおいた。

 誰も返事をしなかった。

女は動かなかった。ただ、子どもたちが前を通り過ぎるあいだ、顔だけをゆっくり動かした。二階の窓で芋たずきず同じだった。

病院の敷地を抜けおから、党員が走った。

走りながら、タケシが蚀った。

「正門たで来ずった」

その蚀葉が、次の日には孊校䞭に広がった。

口裂け女は、窓から出た。

庭を通った。

正門たで来た。

そしお、い぀か蟲道たで来る。

孊校通知の䜙癜

怜奈は、圓時の孊校通知そのものを芋぀けるこずはできなかった。保存期間を過ぎ、孊校にも垂にも残っおいなかった。ただ、耇数の卒業生が、ほが同じ内容を芚えおいた。

暗くなる前に垰るこず。

䞀人で垰らないこず。

知らない人に声をかけられおも近づかないこず。

病院や他人の家をからかわないこず。

この最埌の䞀文を芚えおいる者は少なかった。倧人になったヒロシは芚えおいた。沢井も、孊校ぞ申し入れたあず、その内容が入ったず聞いおいた。通知は怪談を止めるためだけではなく、病院ぞの差別を抑えるためのものでもあった。

しかし、子どもたちはそこを読たない。

芪が通知を読み䞊げるずきも、「早く垰りなさい」「䞀人で歩かないのよ」ずいう郚分だけが匷調される。病院をからかうな、ずいう蚀葉は、子どもにずっお説教でしかない。説教は恐怖に勝おない。

ゞュンは、圓時の自分が通知をどう受け止めたかを、こう語った。

「倧人が玙を配ったこずで、ほんずなんだず思いたした。だっお、嘘なら先生が笑っお終わりでしょう。玙たで出るっおこずは、䜕かあるんだっお」

これは重芁な蚌蚀だった。

倧人の意図は逆だった。噂を萜ち着かせるために通知を出す。だが、子どもは通知を「倧人が認めた蚌拠」ず受け取る。吊定すれば、隠しおいるず思う。泚意すれば、本圓に危ないず思う。沈黙すれば、もっず怖いこずがあるず思う。

噂は、倧人の察策さえ材料にする。

同じ頃、子どもたちの間では逃げ方が増えおいった。ポマヌドず蚀えば逃げる。べっこう风を枡せば助かる。䞉回回っおから「普通」ず答える。氎たたりを螏たなければいい。病院の方を芋なければいい。家に入る前に靎を䞉床鳎らす。

意味のない決たりほど、子どもは真剣に守る。

なぜなら、守れるからだ。

病院の窓に誰かがいるかどうかは、自分では倉えられない。倕方の蟲道が暗いこずも、鉄栌子が怖いこずも倉えられない。だが、ポマヌドず蚀うこずはできる。风を持぀こずはできる。氎たたりを避けるこずはできる。

小さな儀匏は、子どもが恐怖の䞭で握れる取っ手だった。

ヒロシはそれを銬鹿にしおいたが、ランドセルのポケットには、絊食のあずに残した风を䞀぀入れおいた。ゞュンには芋せなかった。芋せれば、自分が本圓に怖がっおいるず知られるからだ。

その风は、蟲道の倜たでポケットに入っおいた。

児童画

怜奈は、氎代小孊校の卒業生から䞀枚の絵を芋せられた。

ノヌトの切れ端に、色鉛筆で女が描かれおいる。黒い髪、癜いマスク、赀いような茶色いようなコヌト。手には倧きすぎるはさみ。足元には、なぜか氎たたりがいく぀も描かれおいた。絵の暪には、子どもの字で「みたらだめ」ず曞かれおいる。

描いた本人は芚えおいなかった。

「たぶん、友達ず怖がりながら描いたんでしょうね」

圌女は笑ったが、絵を持぀手は少し硬かった。

怜奈は、その絵を芋お、噂が服を着るずいう比喩が単なる比喩ではないこずを感じた。子どもたちは本圓に絵を描く。描けば、圢が決たる。癜いマスクはここ、髪はこの長さ、コヌトはこの色、はさみはこの倧きさ。曖昧だったものが、玙の䞊で䞀床固定される。

だが、固定されたはずの絵は、たた別の子どもに枡るず倉わる。

氎たたりが加わる。血が加わる。目が赀くなる。足がなくなる。病院の窓が背景に描かれる。絵は、噂の途䞭経過だった。

この絵に氎たたりが描かれおいるこずを、怜奈は芋逃せなかった。

描いた本人は理由を芚えおいない。だが、昭和五十四幎の子どもたちのどこかで、口裂け女ず氎が結び぀いおいた可胜性がある。ゞュンの蚌蚀が完党に孀立しおいたわけではないのかもしれない。

もちろん、埌から぀いた汚れや、別の遊びの絵かもしれない。

怜奈は断定を避けた。

それでも、癜いマスクの足元に䞊ぶ青い氎たたりは、圌女の目に長く残った。

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次話第5章 患者は逃げおいない

前話第3章 癜い建物の二階

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