
教室からこぼれ落ちたもの (その35)こぼれ落ちなかったもの
優衣が少しずつ教室に戻り始めた翌週、両親が学校へやってきた。
今度は怒号ではなく、静かな、しかし揺るぎない決意を携えて。
校長室には後藤先生と平中先生が先に呼ばれていた。私は最初、その場にいなかった。しかし両親が「今泉先生を呼んでほしい」と強く願い出たため、私も同席することになった。
扉を開けた瞬間、両親の目が私を捉えた。その目には、祈る気持ちがあった。
校長は端然と椅子に座り、私が入っても表情一つ変えなかった。
「盗撮のことは一切、嫌がらせの詳細、何よりも娘への対応の詳細について聞いていませんでした」
母親が声を震わせながら訴えると、校長は静かに答えた。
「それは……教頭と学年主任が保護者の方にきちんと伝えなかったということで」
私は耳を疑った。
「失礼ですが」
気づいたら、口を開いていた。
「健斗の停学処分を決める職員会議の場で、轟先生がいじめ対策委員会を開くべきだと提案されました。その時、必要はないとおっしゃったのは、校長先生ではなかったですか」
校長の顔が、一瞬だけ固まった。
「そのような記憶は……ありません」
両親が声を荒らげた。
「後藤先生が今まで何をしていたのか、きちんと書面で出してください」
校長は視線を逃がすように教頭へ目を向けた。
「それは……担当の教頭と学年主任から出させます」
私は静かに口を開いた。
「報告書でしたら、すぐに出せるのではないでしょうか。昨年末、私がすでに時系列でまとめたものを教頭先生にお渡ししていますよね」
一瞬の沈黙。
教頭は目を伏せたまま、何も言わなかった。
両親は、すべてを悟った表情で立ち上がった。
「もういいです。話になりません」
校長が「待ってください」と声をかけたが、父親が言い放った。
「もう話す事はありません!」
そう言って、両親は校長室を出て行った。私だけが、二人を玄関まで送ることになった。
玄関で靴を履き替える両親に、私は黙って付き添っていた。
帰り際、母親が振り返り、私にだけ小さく言った。
「先生、ありがとうございました。これからも優衣をよろしくお願いします」
そう言って、二人は帰っていった。
***
数日後、両親は県教育委員会に電話をした。
学校側が事実を隠蔽し、虚偽の家庭訪問報告を続けていたこと。いじめ対策委員会が開かれなかったこと。担任が生徒の別室登校を放置し、適切な指導を怠ったこと。
それらすべてが、県の調査対象となった。
後藤先生には、これまでの経緯を時系列でまとめた報告書の提出が命じられた。しかし彼女は四苦八苦するばかりで、何日経っても仕上がらなかった。
当然だった。事実を正確に書けば、自分の怠慢と隠蔽が白日の下に晒される。かといって嘘を書けば、もはや取り返しがつかない。
学年末の職員会議では、轟先生が静かに、しかし鋭く口を開いた。
「後手後手の指導が続いた結果、一人の生徒が一年間のほとんどを別室で過ごすことになった。これは組織として、深刻に受け止めるべき事案ではないでしょうか」
誰も反論できなかった。
***
三月半ば、内示の日がやってきた。
女性校長の異動先は、山間の小規模校だった。誰もが察した。左遷だ。
教頭は、校長への昇任が見送られた。
そして後藤先生には、教育センターへの異動が告げられた。指導力不足教員として、研修を受けるための異動だった。
しかし後藤先生本人は、違う解釈をしていた。職員室で、彼女はこう言った。
「教育センターって、優秀な先生が行くところですよね。私、認められたのかもしれない」
みんなの視線は冷ややかだった。
***
離任式の日。
ステージに立った後藤先生は、涙ながらにマイクに向かって話した。
「一年生、特に一年二組の生徒たち……あなたたちが卒業するのを見られないのが、残念です」
その様子を、私は生徒の座席の横から見ていた。
生徒たちは、ニヤつきながら顔を見合わせている。
そして、一年二組としての最後の帰りのSHR。
私が潤と凛にそっと促して用意させた、寄せ書きと花束。それを抱きしめて、後藤先生は号泣した。
優衣は、冷ややかな笑みを浮かべていた。健斗は、笑いを堪えるのに必死だった。
その光景を見ながら、私は思った。
この人は、教育センターに行って、何を学ぶのだろうか。
——いや、もう、どうでもよかった。
***
健斗はその後、母親に背中を押されるようにして、遅ればせながら野球部の門を叩いた。潤と同じグラウンドに居場所を見つけた彼は、少しずつ落ち着いていった。
優衣が落ち着いたことで、真帆も学校に居場所を見つけ、明るく笑うようになった。
***
優衣は、一年生の残り僅かな日々を、休み休みながらも教室で過ごした。
二年生になると、少しずつ、でも確実に足取りが変わっていった。そして三年生では、皆勤賞を手にした。
高校を卒業した優衣が進学先に選んだのは、看護科のある大学だった。
傷ついた子どもの心に寄り添うだけでなく、ストレスからくる体の痛みや不調まで、丸ごと包み込んで守れる先生になりたい。その一心で、優衣は看護師と養護教諭、二つの難関に挑む道を選んだ。
白衣をまとい、膨大な医学の知識と教育の実習に追われる日々。かつて教室に入れなかったあの優衣が、誰かを救うための強さを手に入れるために、必死で机に向かい続けた。
そして彼女は今、隣の高校の保健室にいる。
***
教室からこぼれ落ちた優衣は、今、保健室という名のもう一つの教室で、誰かの話に耳を傾けている。
あの頃、私が掬い上げようとしたものは、こぼれ落ちてはいなかった。
声を上げることは、無駄ではなかった。
※本連載は、学校現場での実体験に基づく物語です。登場する生徒の名前はすべて仮名であり、人物の尊厳とプライバシーを守るため、事実関係を損なわない範囲で設定の一部に改変を加えています。
【完結のご挨拶】
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
本作をもちまして、『教室からこぼれ落ちたもの』の連載は完結となります。
日々の学校現場で起きる地味で、時に理不尽な現実を、当時の記憶をたどりながら誠実に綴ってまいりました。
拙い文章ではありましたが、最後まで温かく見守り、お付き合いくださった読者の皆様に、心より感謝申し上げます。
今、学校のどこかで、あるいは教室の外で、かつての優衣のように息を潜めている子どもたち。
そして、彼らを救おうと日々葛藤されている先生方や保護者の皆様に、この物語が少しでも届くことを願っています。
本当に、ありがとうございました。
今泉理加子
※同じ職員室を舞台にした、もう一つの記録があります。もしよろしければ、こちらもご覧ください。