
【小説】To be continued ~第5話 好きより少し前、指先のシグナル ~
2026年4月 @自宅
「とりあえずお気に入りのスパのことを書こうかな。」
自己紹介も書かないまま、私はnoteを開いた。
ガイドブックの写真には、ローカルワルンの香りは映らない。
朝、木々の間から聞こえる鳥の声も。
夕暮れの湿った風も。
あの島の空気は、行った人にしか分からない。
仕事から帰ると、私は夢中で記事を書いた。
書いている間だけは、自分でいられた。
会社では、ずっと何かを背負っていた。
期待。
責任。
理不尽。
誰かの機嫌。
気づけば、自分の気持ちを後回しにすることが当たり前になっていた。
でも、noteの中では違う。
怒ってもいい。
笑ってもいい。
弱音を吐いてもいい。
そこには、私の言葉があった。
2026年5月 バリ島旅行前@羽田空港ラウンジ
出発日を前倒し、夜便に変更していた私。
入国手続きを済ませ、逃げるように足早にラウンジへ向かう。
何度旅をしても、この日常が剥がれ落ちていく瞬間のワクワク感がたまらない。
受付を済ませ、地下に降りるとそこにはモノトーンで統一された重厚感のある空間が広がる。
「ゴク、ゴク・・・。」
冷えたビールが心と体に沁みわたる。
と同時に、あの日のことが、頭をよぎる。
「いつも私がやって当然、っておかしくないですか!?
今すぐパソコンぶっ壊して辞めてやる!」
冷静さを装って生きてきた私が、上司にぶつけた言葉だった。
長い間、責任感だけで抱え込んでいた仕事。
誰かが困るから。
会社が回らなくなるから。
そう思って、自分に無理をさせ続けていた。
「元の部署に返そう。もし何か言われたら、自分の指示だと言えばいい。」
その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。
ようやく手に入れた静寂の中で、解放された喜びと、削り取られてきた日々の苦い記憶が、代わる代わる胸に押し寄せてきた。
涙を拭いても、拭いても止まらなかった。
出発は、定刻通り。
深夜のシートにそっと身を委ね、静かに眠りに落ちていく・・・。
翌朝、南国らしいいつもの空気と突き抜けるようなコバルトブルーの空が広がっていた。
前回の渡航から2か月。この島は、乾季に入っていた。
迎えの車に身を任せ、初滞在のスミニャックのホテルで1泊。
その後、サヌールにあるいつものヴィラへ向かう。
滞在2日目、土曜日。
3月にウブドで買った白Xブルーの真新しいレギンス。
トップスは、白のブラトップ。裾にスリットのようなカットが入ったデザインで、お腹もちらりと覗いている。
日本なら躊躇するかもしれないけれど、ここはバリ。
この島の空気の中では、開放的なスタイルもそこまで浮かないだろう・・・。
「スラマッパギー!」
グループレッスン、生徒はたったの二人だけだった。
ガラス張りの壁から、光が差し込む。
スタジオ内は、「さあ、思い切り動いて」と言わんばかりに、冷房が効いている。動かないと少し寒い。
「カチャ。」
大柄な男性コーチが入ってきた。大柄じゃない、巨大だ。
長年トレーニングを積み重ねてきたことが一目で分かる身体だった。
初心者マークの私は、その造形に言葉を失う。
肌の色は、日焼けがほどほどで、顔立ちもどこか見慣れない雰囲気だなと思う。
前のレッスンが終わったばかりなのか、少し乱れた髪がスポーツマンらしさを際立たせていた。
挨拶を済ませて、名前を聞かれる。
もう一人の生徒は、どうやら常連で顔馴染みらしい。
「My name is Rio.」
「リー?」
「リ・オッ!」
「リーーー?」
私のレッスン名は、「リー」になった。
2か月前に、初めてこのスタジオを訪れ、今日がピラティス3回目。
コーチには、"I'm a beginner!”正直に申告する。
「Inhale nose, exhale mouth.」
見た目だけは、上級者だ。
けれど動きは、まったく追いついていない。
自分の姿を鏡越しにチェックする。
チラリと見ると常連さんも、やや”それなり”だ。ちょっとホッとする。笑顔が良い人っぽい。どこの国の人だろう。
私は、常連さんを横目で見て、ひたすら真似をする。
必死に食らいついていくが、どうにも動きがぎこちない。
コーチが腕の動き、足の動きを直してくれる。
あれだけ大きな体なのに、指先は少しひんやりとしていた。
気のせいにしてしまえばいいのに。
その感覚は、肌から消えても、心からは消えなかった。
レッスンが終わり、受付の人が冷えたタオルを持ってきた。
コーチが、スマホに何かを打ち込んでいる。
「ツメタイタオルデ、カオヲフイテクダサイ。」
画面を見せながら、ゆっくりと話してくれる。
笑い合って、
「ハイ!アリガトウゴザイマス。」
事前に、英語は少し、インドネシア語は分からないと伝えていたから、
心配りが嬉しかった。
ふと、写真を撮りたくなった。
「Photo, OK?」
コーチは笑顔で頷く。
すると常連さんが、
「撮ろうか?」
という仕草でスマホを受け取ってくれた。
私はコーチの隣に立つ。
近くで見ると、更に大きい。
顔を上げないと視界に入らない。
撮影のお礼を伝えてスマホを受け取ると、常連さんと少し立ち話になった。
どこから来たの?
私は日本。
彼女は、ここサヌールに住んでいるらしい。
英語は半分くらいしか分からなかったけれど、不思議と居心地が良かった。
「See you soon!」
彼女と別れたあと、改めて写真を確認する。そこには、まるで親子みたいなサイズ感の二人が写っていた。
心地よい疲れとともに、部屋を出た。
着替えのために、ロッカールームを兼ねたトイレへと向かう。
誰もいない静かな空間。
突き当たりの角をひょいと曲がった、その瞬間だった。
「わっ……。」
誰もいないと思っていたところに、コーチが立っていた。
建物の構造上、曲がるまで全く見えなかったのだ。
不意打ちの遭遇に、とっさに出たのは短い言葉だけだった。
「I'll change now.(今から着替えるの)」
それだけ伝えて、逃げるように個室へ滑り込む。
コーチは、こちらを見て笑顔で頷いた。
身支度を終え、自転車でヴィラへと向かった。
まだチェックインできない私は、オープンエアな席で、バリの風を感じながらコーヒーを飲む。
そう言えば今日のコーチのレッスン、また受けたいな。
スケジュールをチェックすると「Theo」と書かれていた。
ふーん。
やっぱり「Wayan」とかじゃないんだ。
改めて確認すると、来週予約しているのは別のコーチのレッスンだった。
私はWhatsAppで、スタジオにメッセージを送る。
「Theoコーチのクラスへ変更できますか?」
数分後、返信が届いた。
「Ok, it's noted.」
3月に訪れた時は、人数不足でレッスンがキャンセルになった。
だから今回も難しいかもしれないと思っていた。
けれど、変更は驚くほどあっさり通った。
次のレッスンは、明後日の月曜日、8時スタート。
「早起きできるかな」
なんて小さな不安はあったけれど、私は静かに、次の月曜日の予約をスケジュール表に書き込んだ。
この時の私はまだ知らない。
「また受けたい」
たったそれだけの理由で変更した月曜日のレッスンが、この先の人生を大きく揺らすことになるなんて。
そして、その朝を私は少しだけ楽しみにしていた。
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