
成長と疲労 ボードリヤール
国民から絶大な支持を得る高市総理が所信表明演説において、
成長スイッチ押して、押して、押して、押しまくる
とおしゃったそうで、
じっさい、歴史を返りみるに、
江戸幕府300年の鎖国のうちに、成長の止まった日本は欧米の進歩に大きく引き離され、黒船をみて腰を抜かすわけである。江戸幕府が開かれたとき、まだアメリカ合衆国は存在していなかった。その江戸300年の間にできた新興国に脅されて開国したのだ。
ことに幕府に対して反抗的で攘夷熱さかんな薩摩、長州はともに欧米に喧嘩を売ってあっけなく敗北し、急速に攘夷熱を冷ましている。進歩の差を敗れてはじめて自覚したのだ。
ちなみに戦国時代の日本の鉄砲の保有数は、世界でもトップクラスの軍事力を誇っていたと言われる。
なので、歴史の教訓からして成長を止めるわけにはいかない。
いくらそれで環境が破壊され、われわれの生活がこのさき立ち行かなくなるとしても、後進国に甘んじて、いつ何どき大国に侵略されるかもしれないという恐怖のほうが勝るからだ。
なので、成長を止めるわけにはいかないし、国民もそれを望んでいる。一文惜しみの百知らずは世の常だ。
しかし、成長し続けるということが、良いことばかりではない。
前述のとおり、成長を続けることは環境破壊のリスクを伴う。
トランプの居直りによって、世界の気候変動政策は大きく後退させられているし、アメリカに同調する形で欧州でも自動車のEV化が後退し、化石燃料が見直されるなど、世界のエネルギー政策が元に戻りつつある。
こういった面もさることながら、
ボードリヤールは今から50年以上まえに、
今後は疲労が世界問題となる
と言っている。
たしかに――、
現代社会において老若男女を問わず、人は、
「疲れているか?」
と問われれば、ほとんどの人が、
「疲れている」
と答えるだろう。
むかし我々の若い頃はアルバイトを始めてようやく「お疲れ」という言葉を知ったものだったが、今はもう中高校生が帰り道で友達と別れ際に「お疲れ」と言って別れるようになっている。そのうち小学生までもが「お疲れ」という日も遠くはないだろう。
現代人はみな、何らかの疲労を抱えている。
ボードリヤールの言う疲労とは何か
以前、ダサいが経済を回しているという投稿をした。
人にダサいと言われないように、流行りの服を着、流行りのものを食べ、流行りの場所に出かける。
人の価値基準は、何が好きか、何が自分に似合ってるか、向いているのか、
ではなく、常に何が流行っているか次第になっている。
こうして人はマジョリティーに溶け込むことによって、不用意に他人にマウントを取らせないように注意を向けねばならない。
一方で経済を成長させねばならない側、すなわち企業は、この流行り廃りの進行を速めることによって、消費を促してゆくわけである。
(もちろん成長のすべてがダサいから来るものばかりではないが。)
この流行り廃りに追い続けることに人はいずれ疲れるに違いない、とボードリヤールは言うのである。
なぜか?
現代人は生活に必要ではなく、マウント競争を消費しているからだ。
マウント競争には終わりはない。
ボードリヤールは云う。
現代の疲労には原因がない。
それは筋肉の疲労や体力の消耗とは無関係だし、
肉体の酷使のせいで生じるわけでもない。
現代社会はどんどん便利になって、むかしほど体を酷使するような重労働がなくなりつつあるというのに、欲望を充足するという点において、マイナス面がどんどん大きくなっているというのだ。
なぜか?
消費社会は機会を均等化したり、社会的競争を緩和したりするどころか、
あらゆる形態の競争を激化させているからである。
消費社会は「渇望」と「欲求」とその「充足」を組み合わせているつもりになっているが、実際にはそうではなくて、競争と社会的上昇の強制および個人的快楽の最大化という今後極度に内面化されるであろう至上命令との葛藤に悩む人々の内部に、ますます増大するひずみを生じさせる。
ボードリヤールは、この現代人特有の疲労のことを受動的拒否と呼んでいる。
つまり、肉体的あるいは精神的消耗による生理現象なのではなく、
拒否反応なのだと。
疲労は、この状況に対抗しうる唯一の活動形態であり、潜在的異議申し立てなのである。
と、ボードリヤールは云う。
成長を求める側は、ダサいと言い合わせる競争を煽ることで消費を促し、成長を図る。
が、そうして競争を煽られる側がこの煽りに対する拒否反応こそが疲労なのである。
しかしここでも――、現れるのが、
Greed is good.
人の欲望には際限がない。
我々は煽られるままにこのさき終わりなきマウント競争を続けれらるだろうか?