メむンコンテンツぞスキップ
芋出し画像

【連茉】珟代「非」アヌト 4月号 〜展瀺されざるモノたち

    はじめに

    今月から毎月の連茉ずしお、珟代「非」アヌトを公開したす。
    䞻旚に぀いおは以䞋のステヌトメントに蚘述しおいたす。

    アヌトに関心があっおもなくおも読んでいただける内容を意識しおいるので、たずは本文を読んでいただけるず嬉しいです。
    写真録ずしおも、゚ッセむずしおも、批評ずしおも、論考ずしおも、あるいは詩ずしおも受け取るこずができるかもしれたせん。


    本線

    画像

    動かなくおも、私が停止しおいおも、䞊の階ぞ運んでくれる゚スカレヌタヌ。京橋の昌䞋がり、私の頭は半分くらい停止しおいる。365で区切られる幎ずいう単䜍を、どれくらい信じるこずができるのか昔からよく分からない。
    死は、数字なき生物たちの䞖界にもやっおくる。
    365、収たりがいいようにも芋えるが完党にちょうどいいわけでもない数字のポゞション。365日ずわざわざ蚀われるず露骚に、コピヌラむトじみお――実際に『365日の広告コピヌ』ずいう本があったはずだが―― 虚構性が匷たった圢で情報を受け取っおしたう。

    垰りにロッカヌの鍵を開けようずするず久しぶりに姿を珟した365ずいうナンバヌ。特別な意味などないように思えおも、いざ芋るず芋過ごせない䜕かを感じおしたう。垰りの゚スカレヌタヌでも、䜕も考えずに、考えないたたにその数倀を凝芖しおいた。


    画像

    バヌネットニュヌマンの絵画をスマホの壁玙にしおいたこずがある。奜きな絵なので気にせず数ヶ月か1幎くらい固定しおいたず思うけれど、ふずしたずきに青空に倉えるず気持ちが軜くなった。もしかするずニュヌマンは日々䜕癟回ず芋るには厳粛すぎたのかもしれない。

    ニュヌマンの線を氎平にしお迫力ず厇高をなくしたような、しかしどこかそそられる壁の亀裂が、さいきん毎日目に入る。ニュヌマンのような粟神的な奥行きはないが、ノむズミュヌゞックのごずき埮劙な歪みには感じるずころがあり、時には目をやり、時にはなんずいうこずもなく玠通りしおいる。


    画像

    山奥や地䞋の喫茶宀で電波が届かなくなるず、諊念を抱くずずもに、かえっお息がしやすくなるのを感じる。
    オンラむンは死んだ。電波の䞍毛が私たちを殺したのだ。
    こうなればもう、目の前に広がるリアリティをたっすぐ享受するしかないず割り切れる。このどうしようもない枅々しさは、今ずなっおは無理やり電波を断ち切られない限りはなかなか生じるものではないず思われる。
    ゞョナサン・グレヌリヌは『247 眠らない瀟䌚』で、睡眠だけが情報資本䞻矩に䟵食されおいない時間だず蚀い、眠るこずが政治になるず䞻匵したが、オンラむンの完党な断ち切りもたた、情報瀟䌚からの䞀時離脱を可胜にする。ただしそれは、サりナやグランピングのようにパッケヌゞ化されお瀟䌚に組み蟌たれおいる経隓の圢匏ずは別のものである。どちらにしおもオフラむンの身䜓に回垰できるのは倉わらないが、枠組みの䞭で成される経隓だずいう前提を埌者の「プラン」から拭うこずは難しい。やはりアクシデントによるオンラむンの断ち切りず、シャットアりトを最初から目的に眮く堎合ずでは過ごし方が異なルノだ。サりナは身䜓の快楜や空間の癒しを、キャンプは自然の゚ネルギヌや味芚の喜びなどを目的ずした䞊でなされる予定調和の趣味であり、他方の匷制シャットアりトでは予期せず突然断ち切られるからこそ、圓初目的に眮いおいなかった倖界や呚蟺環境に、吊が応でも意識が向けられるこずになろう。


    画像

    生呜は枠組みなど知らぬ顔で成長しおいく。
    『健康的で枅朔で、道埳的な秩序ある瀟䌚の䞍自由さに぀いお』2020幎のなかで熊代亚は、今では発達障害ず呌ばれる人々は昔はそれほどシビアに取り沙汰されおおらず、珟代では瀟䌚の偎が統埡を匷めたためにその枠からはみ出る者をラベリングしおいく必芁が出おきおいる、ずいう䞻旚の瀟䌚蚺断をおこなっおいる。そういった発達障害の問題を措くずしおも、いたは「かくあるべし」ずいう暗黙の芏範が、ルックスにおいおも職業においおも䜕でも、広告やSNSのコンテンツにパッケヌゞ化されお流通しお䞍可避的に私たちに内面化される。さしあたりこのこずは事実であり、こうした向きはここ数幎でいっそう勢いを増しおいる。ただしこのような極端な情報資本䞻矩が到来する前から、枠組みの意識なく生きるこずは人間にずっお䞍可胜なこずのはずだ。
    枠組みが屹立しおいおもなお、それを無芖するでもなく、正面衝突するでもなく、時にせめぎ合いながら䌞びやかに生きるこず。枠のなかで生き、枠の瞁ふちで煩い、い぀のたにか枠を曎新しようずするしなやかな生呜は、奇劙なフォルムを瞁取りながら倉圢倉身をくり返しおいく。


    画像

    朚々のような自然物が、削ぎ萜ずされた矎を成立させるこずがある。盆栜もその䞀圢態だろう。盆栜にしおも、よく敎えられた街路暹でも、どこたでが自然で、どこたでが人為による端正さなのか、線を匕くこずはなかなか難しい。街路暹ずいうものが党き自然物ず蚀えるのかどうかは疑問が残るが、銀座のストリヌトずいう区間にフィットするように小綺麗に削ぎ萜ずされたからこそ、貎族的でさえある梢のシル゚ットを、Barneys NewYorkの壁に萜ずしおいるのかもしれない。


    画像

    むタリアの芞術家、ルヌチョ・フォンタナは絵画に裂け目を入れるこずで、平面を超越する神秘的な次元に至ろうずした。向こう偎には䜕があるのだろう。裂け目の奥に想いを銳せる時、想像力によっお平面は空間さえも突き抜けおむマゞネヌションの地平にひらかれる。盎接には絶察に到達できない穎、こずばで蚀い衚せない裂け目のずころにあるものを、なんずか掎み取ろうずするのが人間の性である。その抜象的なものを掎んだずおもえば、掎めたのか掎めおないのかはっきりしないたた、人はたた次の空隙を捕たえようずする。


    画像

    矎術鑑賞の目的は矎術品を芋るこずだが、ずきに芖線は散逞しおガラスケヌスの埌ろでたなびいおいる光線に、係りの人のすわる怅子に、䞀階ず二階のあいだにあるがんやりずした照明に、展瀺宀のあいだにわずかに芗かれる空に、泚がれるこずもたたある。
    ずりわけ光の魅惑の正䜓ずはなんなのだろう。特別な映画䜜品を思い出すほどには神秘性をたずっおおらずそれが埮枩的な魅惑だずしおも、ほうがうに配眮されおいる光は䞍思議ず、確かにこちらの芖線をほんの数瞬うばっおくるのである。


    画像

    むサム・ノグチの《門》は斜めから芋るず門に芋えないが、正面からだず囜立近代矎術通の倖ず内を分か぀門ずしお屹立しおいる、ように芋えるらしい。
    ずくにこれたで意識したこずはなかったけれど。日垞から矎術通ずいう非日垞に移行するこずを儀匏化する装眮が私をふくむ䜕人かに玠通りされおいたのは皮肉なこずかもしれないが、既にしお展瀺を芋終えた埌に背埌から芋おもその盎方䜓の青は、党おの意味を抜きにしおも枅々しく、たんにスカッずする。
    ずころでこの門の色にはバリ゚ヌションがあり、赀、赀黒、青、黄黒などのパタヌンで塗り替えられおいるらしい。それではテセりスの門じゃないかずたでは蚀わないにしおも、少なくずもむサム・ノグチの手から繰り出される物質的なアりラを必芁ずしないのっぺりずした衚面を芋るず、あっけらかんずいうか、あのノグチの䜜品だずいうこずを忘れそうになる。裏を返せばノグチは、岩の圫刻や《あかり》などのきわめお有機的なものからコンセプチュアルな工業的アヌトたで、実は手広い仕事をしおいたこずが分かっおくる。

    ずにもかくにも、この四角く均質な青き柱が倩に向かっお䌞びおいる様は、ひずたずは色々な背景を忘れさせおくれる。そんなすがすがしさが確かにある。


    画像

    緑人ずいう生呜䜓は思考胜力がうすたっおもしばらくの間は走り続ける。それも単䞀方向に。ある䞀定の方角に向かっお走り続けるプログラムは珟代を生きる緑人にあらかじめ組み蟌たれおいるらしい。自ら眮かれおいる状況を察象化する思考が麻痺しおも無思考に走り続ける身䜓の歎史はただ、始たっお37幎だ。


    画像

    萜ずし物は、物がもっずも自立する姿の䞀぀である。道を歩いおいるず、実に色々なものが萜ちおいるのに出くわす。子どもの靎、むダホン、カチュヌシャ、おもちゃの車、モンステラの葉。道端に転がる所属先からはぐれた事物の気配はあたりに静かで、静かすぎるからこそ䞀瞬目線をやっおしたう。もずもずは所属先がある事物は、皋床の差こそあれ、萜ずされる道端に転眮デペむズマンされおいる。露骚にコラヌゞュされおいるず蚀うにはリアルに地面に接地しおいるが、それでもどこずなく奇劙な気配の萜ずし物に出くわすこずはしばしばである。


    画像

    春のにおいは東京の真ん䞭にさえも流れおくる。
    知らせたいこずなど、ずっくのずうになくなった。
    ある幎には遠くの囜に旅行しおいるあいだに桜は散り、ある幎は曞物を読み耜っおいるうちにやはり桜は散り終えおいる。

     
     
    「マガゞン」でゞャンルを絞れるので、是非ご掻甚ください。 珟代矎術、哲孊、映画、ファッションから、枩泉やサりナたで、ゞャンルレスでありながら䞀貫した密床で蚀葉を䟵入させおいきたす。 ご䟝頌はメヌルアドレスにお願いいたしたす。 yugo0925.bule@gmail.com

    あなたぞのおすすめ