
平安京では誰が何をしていた? |勉強ブログ#2
学生時代に勉強した内容って意外と曖昧なままになっていませんか。このブログでは、京都好きのyasukeが気になったことを「浅く広〜く」整理します。
はじめに
前回のブログでは、京都の地形から、なぜ平安京が築かれたのかを整理しました。今回は平安京について、「そこでは誰が、何をしていたのか?」という視点から深掘りしていきます。
平安京とは、どのような場所なのか

南北約5.2km、東西約4.5km
平安宮(大内裏)が京域北部に配置されている
右京と左京を分ける朱雀大路(幅約85m)
大路は24本、小路は48本で構成
朱雀大路の南端には羅城門が建てられた
人口は十数万人と推定されている
平安京は、現在の地図で見ると、南北は一条通から九条通付近、東西は西京極駅周辺から寺町通周辺に及ぶ広大な都市だったようです。
都の中央には、右京と左京を分ける「朱雀大路」が南北に伸びていました。また京域には大路と小路が碁盤目状に張り巡らされ、「条坊制」と呼ばれる都市構造が採用されていました。
※1 条坊制
中国の制度にならって施工された碁盤目状の都市区画のこと。東西列を「条」、南北列を「坊」と呼び、その内部はさらに区画分けされています。
朝廷により建立を許された寺院は、東寺と西寺のみでした。これらは「官寺」と呼ばれ、九条付近に左右対称で配置されていました。東寺は、創建当初の伽藍配置を現在によく伝えていますが、西寺は現存しておらず、現在は石碑が残るのみです。
平安京は、唐の長安城をモデルに造営されました。長安城には都を取り囲む「羅城」が存在していましたが、平安京では大規模な羅城は築かれず、南端に羅城門のみが造られました。
また、右京・左京は、天皇のいる内裏から見た左右を指すため、私たちの地図感覚とは逆になります。現在との比較については、立命館大学が公開している『平安京オーバーレイマップ』を見ると、とてもイメージしやすいです。
平安宮(大内裏)の内側について
平安京の北部に設置された平安宮(大内裏)には、政治や儀式を行うための重要な施設が集められていました。代表的な施設を簡単に整理します。

内裏(だいり)
天皇の居所を中心とした御殿。
朝堂院(ちょうどういん)
大内裏の中心的施設。本来は政治を行う場でしたが、次第に即位式や朝賀などの国家儀式の場として使用されるようになりました。正殿である大極殿を中心に、十二堂の朝堂などが配置されていました。
豊楽院(ぶらくいん)
国家的な宴や儀式を行う施設。
二官八省
律令制における中央官庁組織のこと。太政官・神祇官をはじめ、式部省や民部省などの行政機関が置かれていました。
このように平安京には、平安時代の政治を支える官僚や役人たちが集まっていたことがわかります。

桓武天皇は何を目指したのか?
桓武天皇が平安京へ遷都した背景には、律令政治を立て直したいという目的がありました。また、奈良時代に大きな力を持っていた仏教勢力から距離を置く狙いもあったとされています。
律令政治のはじまりは、645年に始まった「大化の改新」に遡ります。当時、蘇我氏は天皇をしのぐほどの強い権力を持っており、その強大な権力を問題視した中大兄皇子(後の天智天皇)らによって討たれました。そして中大兄皇子たちは、天皇を中心とした、法律に基づく国家づくりを目指しました。
その後、奈良時代後半になると、奈良の寺院や僧たちが大きな影響力を持つようになり、政治にも関わるようになります。そのため桓武天皇は、新たな都で律令国家を立て直そうとして、平安京への遷都を進めていきました。
※2 律令国家
律令や格式によって運営される国家のこと。天皇を中心とする中央集権的な官僚国家体制を指します。
まとめ
平安京には、桓武天皇をはじめ、多くの官僚や役人たちが集められていました。そこでは、律令国家を運営するための政治や儀式が行われ、天皇を中心とした国家体制が築かれていきました。
📝yasukeのひとりごと
平安京について記事を書こうとした時、「泣くよ鶯」とか、「安倍晴明」というワードしか出てこなくて焦りました。今回は、桓武天皇の時代だけではなく、その前の大化の改新から繋げて整理してみましたが、背景まで含めて勉強すると、ぐっと学びが深まりますね。それにしても、条坊制の計算は頭がこんがらがります(笑)。ちなみに平安京の広さを調べてみると、東京ドーム約500個分らしく、改めてスケールの大きさに驚きました。